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針と糸(5)

 羊の毛から作った毛糸の編み物は、ロックが母親から教わった技術のひとつだ。
 一年を通して温暖な帝都ではあまり出番は多くないが、冬の朝晩には上掛けや手袋が欲しくなるものだった。ここより冷え込む北方では、さらに出番が増え役立つに違いない。

「それは何の模様を?」
 形になってきた手袋を見て、エベルが問う。
「木苺とその葉を。彼女の髪の色に合わせてみました」
 棒針を動かしながらロックは答えた。
 白地に連なる木苺模様の手袋は、若いご婦人向けの愛らしい意匠だった。伯爵夫人としての公務で身に着けられるものではないだろうが、彼女だって北方でも散策をしたくなるだろうし、時には雪遊びだってするかもしれない。
「葡萄の模様も添えたらいいのに」
 エベルがちらりとロックの髪を見やる。
 見るだけでは飽き足らなかったか、指先で一筋絡めとって、くるくると巻きつけてみせる。今でもそれほど長くはない葡萄酒色の髪は、すぐにするりとほどけてしまった。
 ロックは笑いながら首をすくめる。
「今から模様を足すなら、指先くらいしかないですよ」
 両手を揃いの模様にするつもりだった。手に填めてみた時、美しい対称模様が楽しめるように。
「しかし編み物とはすごいな。織り機がすることを人の手でするのか」
「その分、時間がかかってしまいますけどね」
 複数の糸を編みあわせることで好きな模様を、より手軽に描けるのが編み物の利点だ。
 もっとも織り機のように大量生産とはいかず、ロックもリウィアのために、婚礼に間に合うよう編めるのは手袋くらいのものだろう。
「本当はもっといろいろ作ってあげたかったんですけど。膝掛けとか、襟巻きとか」
「北方はよく冷え込むというからな」

 ロックはもちろん、エベルも北方を訪ねたことはないという。
 帝都から街道は通っているが、馬車に乗って十日近い旅になるそうだ。リウィアは式を挙げた後、ユストと護衛の一団と共に北方へ向かうらしい。長い旅路を少しでも安全に、そして快適に過ごすためにと、ユストが連れてきたお付きの者は総勢百人を超えるとも聞いた。
 何から何まで途方もない話だとロックは思う。

 編み物をしながら、今日の出来事をエベルに打ち明けた。
「今日、ユスト伯爵閣下にお会いしました」
 それを聞いたエベルは驚いたようだ。微かに息を呑むのが聞こえた後、問い返してきた。
「城の中での話か?」
「ええ、仕事の帰りに。向こうは僕のことをご存知でした」
「どんな人物だった?」
 エベルもユストのことが気になっているのだろう。興味深げに尋ねてくる。
「思ったよりも物腰柔らかな方でしたよ。僕にも丁重に接してくださって。意外とお若い方だと思いましたし、帝都流の礼服をお召しで、噂にあるような毛皮の着衣も刺青もあの方からは連想できなかったです」
 ロックはあの時のやり取りを思い出しながら答えた。
「でも、身のこなしに隙のない方でした。歩き方が父に似ていたので」
 そう言い添えると、エベルも心得たようにうなづいた。
「ユスト伯は実力者だ。父から爵位を継いだ私とは違い、その腕で皇帝陛下から認められ、伯爵の地位を得た。それまでは北方と言えば内乱の多い地域で、帝国内でも火種として厄介がられていた」
「乱れていたということですよね」
「ああ。それを実力でまとめ上げ、帝国に反旗を翻す部族を退け、平定の後に北方一の地位を与えられたのがユスト伯だ。ただ者ではないだろうし、腕が立つのも間違いあるまい」
 エベルが語る隣で、ロックはふと棒針を持つ手を止めていた。
 ユストの右手の甲にあった、生々しい古傷が瞼の裏に蘇る。あれが彼の功績の証だったのかもしれない。
「北方って、どんなところなんでしょうね」
 ロックはつぶやいてはみたものの、その答えをエベルが持っているとも思わなかった。
 ただそれでも、口にせずにはいられなかった。
「寒くて、雪が降っていて、きっと僕などは行くことも叶わぬ遠方の地です。彼女が嫁いでしまえば、きっと今生の別れになる」
 もう会えなくなるという事実が、少なからずロックの心にのしかかっている。
 エベルもその事実を否定することはできないのだろう。黙ってロックを見つめてきた。
「友達の結婚って初めてなんです。だからか城を出て、ここにいてもなんだか気持ちが落ち着かなくて。会えなくなる前に、彼女のためにできることはないかって考えてしまって……」

 大局的に見れば、皇女の結婚は慶事だ。
 それを否定することは無論、寂しい、切ないといった負の感情も本来口にすべきではないだろう。
 だからロックは手袋を編んでいる。餞別として、彼女の手が寒い北方の地でもかじかむことのないように。
 だが、もっと時間があれば他にあげられるものもあったのに、とも思う。

 エベルはしばらく、何を言うべきか考え込んでいたようだった。
 そしてふと、ロックが編む手袋に視線を落とし、こう言った。
「あなたがその手袋を渡せば、殿下はあなたのことを忘れはしないだろう」
 ロックが同じように手袋を見下ろせば、彼の言葉が追いかけてくる。
「あなたは今までにもそうやって、人々の心に残る働きをしてきたはずだ。私はあなたにいろんな服を仕立ててもらったが、その服を見るたびにあなたと、共に過ごした時間とを思い出していた」
 その記憶を噛み締めるように、エベルの声は穏やかだ。
「きっと他の人も同じように思うだろう。あなたの仕立てたドレスを着るフィービ殿も、結婚式を美しく彩ってもらったクリスターとニーシャも、あなたのお蔭でで社交界へのお披露目が叶ったランベルト卿の令嬢たちも、あなたの仕事を忘れはしないはずだ。そういえば、あなた自身が仕立てたドレスで人目をさらったこともあったな」
 彼が語る数々の思い出は、ロックにもちゃんと覚えがある。
 これまで多くの出来事を共に過ごし、あるいは乗り越えてきたからこそ、エベルの言葉は何よりもロックの心を揺り動かした。
 自分で仕立てたドレスに袖を通した日――あの時ほど、装うことの重要さを思い知った日はなかった。美しい服は人の心に響き、そして記憶にも残る者だった。
「そして来たる婚礼の日、あなたが心を込めて仕立てた花嫁衣裳は皇女殿下に花を添え、より多くの人の心に感銘を与えるだろう。無論、殿下ご自身にも」
 エベルは金色の目を優しく細め、ロックを見下ろす。
「殿下はあのドレスをご覧になるたびにあなたと過ごした時間と、婚礼の日のことを思い出すはずだ。それは殿下にとってどのような記憶になるのかは、私にもわからない。だがもし故郷を思ってお心が痛むことがあっても、あなたが今編んでいる手袋は殿下のお心を支える、最後の後押しになることだろう」
「最後の、後押し……」
 ロックはその言葉をゆっくりと繰り返す。

 別れ行く彼女への、餞別のつもりの手袋だった。
 彼女が気に入ってくれるかどうかはわからない、ただ嫁いだ先の北方で時々は取り出して填めてみてくれたらうれしいと思う。帝都で過ごした日々を、温もりと共に振り返ってもらえたら。

 そういえば、彼女自身も言っていた。
『誰も知らないあなたの心は、わたくしが北方まで連れていく。遠く離れても、もう会うことはなくても、わたくしには独り占めしたあなたの心があるもの』
 この手袋もまさにリウィアだけのものだ。
 連れていってもらえたら、きっと彼女を温めてくれるに違いない。

「彼女のためと言うなら、それは最も貴い贈り物だ」
 エベルが、勇気づけるような口調で続ける。
「たったそれだけだと恥じることはない。あなたはこれまでにもその針と糸で、たくさんの人々の心を揺り動かしてきたじゃないか」
「エベル……ありがとうございます」
 安堵にも似た優しい気持ちが込み上げてきて、ロックはそっと微笑んだ。
 なぜか涙がこぼれてきそうになったのは、うれしいからだ。自分のやってきたことを、唯一とも言える誇れるものを、ちゃんと見てくれている人がいる。
 そして皆の心に、記憶にずっと残れるのなら、これほど幸せなこともないだろう。
「励みになれただろうか」
 彼が笑顔で問うから、すかさずロックは顎を引く。
「ええ、とっても! あなたの言葉はまるで薬草みたいに効果があります」
「とびきりの愛を込めているからな」
 全く照れもなく言い放った後、エベルは長椅子から立ち上がった。
 それから座ったままのロックを振り返る。
「もう少し編み物をするのだろう? 邪魔をしたくなっては困るし、私はそろそろ失礼しよう」
「え……ええ、そうですね……」
 彼がロックの部屋を去っていく時、決まってロックは物寂しさに襲われる。
 とは言えここで引き留めれば何が起きるかは明らかで、そうなるとロックにはまだためらいがあった。
 寂しいとも言えずに視線をさまよわせていれば、エベルは少しうれしそうに唇をゆるませる。そして身を屈めると、黙り込むロックにそっと口づけた。
「……あなたがこの家にいると、未来について思い描いてしまうな」
 唇が離れた後、それでも吐息にかかる距離で彼はささやく。
「あなたとここで、夫婦として暮らす日が待ち遠しい。楽しみにしているよ、ロクシー」
「は、はい……」
 ロックはぎこちなく応じるのがやっとで、棒針を持ったまま硬直し、部屋を出ていくエベルを見送った。
 お蔭で言いそびれてしまった。
「僕も、同じこと考えてたんだけどな……」
 この家に帰ってきて、彼に『ただいま』を言えるのがうれしい。
 あとは来たるべき未来のため、そういう言葉をすんなり言えるようになっておかなくてはなるまい。

 それからも日々は飛ぶように過ぎていき、やがて餞別となる手袋一対が編み上がった。
 ロックは間に合ったことにほっとしつつ、それを美しい絹のリボンで束ねておいた。本当は布で包んでおきたかったのだが、中身の知れぬ荷物を城の中へ持ち込むのは難しい。婚礼の日となればなおさらだろう。
 当日に折を見て、リウィアに手渡すつもりだった。
 彼女がどんな顔をするか、どれほど喜んでくれるか。楽しみ半分、緊張半分といった心境だった。

 そして迎えた婚礼の日――。
「ロック様、おはようございます! 本日は待ちに待ったご婚礼の日! ロック様にとっても晴れ舞台でございます! さあお起きになってくださいまし!」
 ロックは夜明け前にヨハンナによって賑々しく叩き起こされた。
 前日は比類なき緊張のせいであまりよく眠れなかったため、寝惚け眼を擦りながら食卓に着く。窓の外はまだ暗く、ロックはランタンの光の中で朝食を取った。食欲はあまりなかったが、今日はこの後しばらく食べる暇もないだろうし、いくらかは詰め込んでおく。
 身支度を整えマティウス邸を出る頃には、エベルをはじめ屋敷の者たちは誰もが目を覚ましていた。
 エベルは散歩がてら城周辺の様子を見てきたようで、出発前のロックにこう告げた。
「すでに城近くの道はどこも塞がれている。まだ暗いが、歩いていくしかないようだ。もっとも警邏する市警隊の数も尋常ではないから、保安については心配要らない」
 どうやら帝都市街はすでに厳戒態勢が敷かれているらしい。無論予想できたことなので、ロックは笑ってうなづいた。
「早く起こしてもらってよかったです」

 本日、エベルは伯爵として、婚礼の儀式に参列するという。
 その後無事に式を挙げたユストとリウィアは馬車で帝都市街を練り歩くそうで、新しい夫婦の門出を祝う行列を、ロックはエベルと一緒に眺める約束をしていた。ロックの仕事は儀式の前の着つけのみで、参列までは許されていなかった。だから彼と落ち合う余裕はいくらでもある。

「ではまた、後程」
「ああ。最後の務め、胸を張って果たしてくるといい」
 エベルに励まされ、マティウス家の従者たちに見送られて、ロックはまだ薄暗い帝都の街へ繰り出した。
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