針と糸(4)
ロックが城を出る時は、いつもヴァレッドが傍についてくる。「貴様を信用していないというわけではないが、これが私の務めだ。理解してもらおう」
衛兵の甲冑を着た彼の『務め』がなんなのか、未だにロックはよく知らない。
ただ城内、それも妹の前ですら皇子らしく振る舞わない彼が、この国でどういう立ち位置にあるのかはおぼろげに理解しつつあった。以前エベルが語っていたとおり、皇位からあえて遠ざけられているのかもしれない。
ロック自身はヴァレッドに対してもうわだかまりもなかった。記憶を消されたことは根に持っているものの、店を壊した件についてはすでに弁償してもらっていたし、父やエベルの傷も早々に癒えていたので、遺恨を残すというほどではない。
ただリウィアと比べると話しやすい相手ではなかったので、ロックのほうから話しかけることはほとんどなかった。
ヴァレッドのほうも、振ってくるのは妹に関する話だけだ。
「妹を楽しませてくれていること、礼を言う」
「お礼を言われるようなことでは……」
ロックとしては楽しませようとしているつもりはなく、ただ話したいことを話しているだけだ。
そう思って曖昧に笑うと、ヴァレッドは静かにかぶりを振った。
「だが妹は喜んでいる。あんなによく笑うリウィアを見たことはついぞなかった」
面当ての内側で彼がどんな表情をしているのかはわからない。ただ声はいつになく穏やかで、優しかった。
ヴァレッドに連れられて城内を歩くうち、廊下の向こうに人影が見えた。
こちらへ向かって歩いてくるのはたったひとりで、長身の男のようだ。だが服装は兵士のようではなく、そのくせお付きの者も連れていない。
ロックがその人影に気づいた時、ヴァレッドが低く囁いてきた。
「ユスト伯だ」
「え……!?」
思わず声を上げそうになるのをどうにか踏みとどまる。
北方を統べる一等伯爵、そしてリウィアの夫になる男。その名を聞いたことはあっても、姿を見たのは初めてだ。
向こうもこちらに気づいたのだろう。一度歩く速度をゆるめた後、すぐに早足になって近づいてきた。
甲冑を着たヴァレッドが足を止め、敬礼をする。
そちらに目礼をくれた後、ユストはロックに向かって微笑んだ。
「あなたが、リウィア殿下の仕立て屋殿ですね」
眩しい金髪と日に焼けた肌をした、体格のいい男だった。髭はなく、顔つきは思っていたよりも若々しい。身に着けているのは帝都流の礼装で、仕立てはもちろん、生地の品質もとびきり上等だ。
そして何より、浮かべた微笑の麗しいこと。
その上品さは帝都の貴族にも引けを取らず、ロックは一瞬エベルの所作を思い起こしたほどだ。
北方の人間といえば、毛皮の外套を身にまとい、髪は獣の脂で撫でつけ、剥き出しの腹には刺青がある――そんな話を聞いていただけに、初めて会ったユスト伯の印象で全てがひっくり返ったようだった。
「え、ええ。お初お目にかかります、閣下」
ロックが深々と一礼すれば、ユストも同じように礼を返してくる。
「あなたのご評判はかねがね伺っておりました」
「あ……いえそんな、評判などと……」
帝都に流れるロックの評判と言えば『性別不明の謎の仕立て屋』というものばかりだ。仕立て屋としての腕で評判になりたいものだと恥じ入るロックに、ユストは行儀よく微笑んだ。
「リウィア殿下もあなたには心を許しておいでだとか。よき友が仕立てる花嫁衣裳とはどんなものか、私も楽しみにしております」
その言葉の後で、ユストはロックの手を取った。
突然のことにロックはびくりとしたが、ユストは両手でロックの手をそっと握ってきた。手のひらの厚い、ざらざらした傷だらけの手だった。右手の甲にとりわけ大きな古傷があり、ロックは密かに息を呑む。
北方では近年まで内乱が絶えなかったという。
この傷は、戦いで受けたものだろうか。
「……失礼」
一方、ユストもはっとしたようにロックの手を離す。
そして先程より柔らかい笑みを浮かべると、声音も優しく告げてきた。
「あなたの仕事をこの目で、間近で見られるのはまたとない栄誉。その日を心待ちにしております」
「ご期待に沿えますよう、全てを尽くします」
ロックは深くうなづいた。
それでユストも満足気に一礼し、ロックたちの傍らをすり抜けて廊下の奥へと歩いていく。その歩き方は確かに上品だったが、それでいて隙がなく、どこか父に似ているとロックは思った。
城を出たロックが帰る先は、壁の外ではなく貴族特区だ。
マティウス邸での滞在を勧めてくれたのは他でもないエベルで、ロックも喜んで招待にあずかった。城で仕事をするのにいちいち家へ戻るのは時間も体力も消耗する。ただでさえ慣れない仕事場なのだから、一日の終わりくらいは見慣れた場所で迎えたかった。
ロックが徒歩でマティウス邸まで辿り着いた時、屋敷の前庭にはエベルの他、花を摘むヨハンナとカート、それに馬の手入れをするイニエルの姿があった。
真っ先にこちらに気づいたのはエベルだったが、駆け寄ってきたのはヨハンナのほうが速かった。
「ロック様、お帰りなさいませ!」
腕に提げた花籠を振り回さん勢いで飛びついてきたヨハンナは、受け止めよろけるロックに対し、きらきら輝く瞳を向けた。
「た、ただいま、ヨハンナ」
「お城での崇高なお勤め、さぞやお疲れでございましょう! 本日はわたくしロック様のために、とびきりの晩餐をご用意いたしました!」
そうして指折り数えながら晩餐の献立を述べ上げる。
「まずは焼き野菜と川魚の酢漬け、それから鶏挽肉と玉ねぎのパイ、採れたての芋がございましたのでほくほくに蒸かしたものもございます。こちらはバターでいただくととてもおいしゅうございます! スープはリンゴとキャベツを煮込んだものでございますし、食後には干しブドウと木の実のケーキもご用意いたしました!」
「……すごいね」
ヨハンナの勢いに押されてなかなか口を挟めなかったロックだが、感嘆の言葉に嘘はなかった。リウィアのお茶の誘いを辞退してきたのもあって、空きっ腹を抱えて帰ってきたところだ。晩餐の献立はどれもすこぶる魅力的に感じた。
とは言えそれですぐに食卓に通してもらえるかと思えばそんなことはなく、ヨハンナは紫色の瞳を一層輝かせながら訴えてくる。
「本日はわたくしが給仕をいたしますのでぜひに! ぜひとも皇女殿下のお話をお聞かせくださいませ! ロック様がお城で見聞きしたものをわたくしも伺いとうございます!」
彼女の健気さも、そしてそれ以上にひたむきな好奇心も、相変わらずのようだ。
ロックが答えるより早く、追いついてきたエベルがたしなめた。
「ヨハンナ、君の言うとおりロクシーは疲れているようだ。まずは入って休んでもらうべきだろう」
「あっ、そうでございました!」
今気づいたというようにヨハンナが目を見開いた。
そしてそんな彼女に、黙って控えていたカートが声をかける。
「ヨハンナさん、食後のケーキに沿えるクリームの準備がまだですよ」
「まあ本当! わたくし、急いで支度をして参ります!」
それでヨハンナは花籠を抱え、まるでつむじ風のように屋敷へ駆けていった。カートも一度お辞儀をした後、やはり急ぎ足でヨハンナの後を追う。
彼は少しだけ、背が伸びたように見えた。
前庭に静寂が訪れた後、エベルは済まなそうに苦笑した。
「毎度のことながら、彼女は賑々しいな」
「いえ、楽しい気持ちになれますよ」
ロックは笑って応じる。
店にこもって花嫁衣裳を仕立てている間、マティウス邸を訪ねる暇は全くなかった。ここでの滞在は数ヶ月ぶりのこととなったが、そのうちに変わったものと、何も変わらぬものがあるようだ。
「ヨハンナはこのところ、ロック様のお城でのお仕事に夢中なんですよ」
馬の毛並みを撫でるイニエルが声を立てて笑う。
「おかげでカートは構ってもらえず不満げです。ま、いつものことですがね」
カートの幼さも相変わらずではあるようだが、一方でここに馴染んできた様子も先程のやり取りからは見受けられた。
「カートはすっかり仕事に慣れたようですね」
「ああ、今では大事な我が家の従僕だ」
ロックの言葉に、エベルがうなづく。
「近頃では先程のように、ヨハンナの暴走を止めてくれる気遣いも見せてくれる。あのふたりはいい組み合わせだと思っているよ」
それを聞き、ロックは黙って微笑んだ。
彼がマティウス邸で働くようになった経緯を思うと感慨深いものがある。カートは自らの居場所を見つけたということだろう。
「さて、夕風が冷たくなってきた」
エベルは促すように、ロックの背に手を添える。
「あなたが疲れているのは事実のようだ。まずは中へ入り、休んでほしい」
「ありがとうございます、お邪魔いたします」
ロックが感謝を告げると、彼は金色の瞳を丸くした。
それからすぐに優しく細め、こう言ってきた。
「ここにいる間は遠慮は要らない。ふたつめの家だと思ってくれていい」
「え、ええ。じゃあ……」
「お帰り、ロクシー」
いたわるように、エベルがささやく。
彼はロックを迎え入れることを、とてもうれしく思ってくれているようだ。ロックもまたその気持ちがうれしく、素直に応じた。
「ただいま、エベル」
その日の晩餐は、ヨハンナの予告したとおりの献立が出された。
焼き野菜と川魚の酢漬けは疲労困憊の身体に染み込むようだったし、鶏挽肉と玉ねぎのパイも、蒸かした芋をバターで食べるのも、リンゴとキャベツのスープも空腹を素晴らしい形で埋めてくれた。
食後に出されたケーキにはちゃんとクリームが添えられていて、ヨハンナが淹れてくれたお茶とあわせて味わうと、一日の疲れがすっかり癒されるのを感じた。
感謝の代わりにと、ロックも食後には少しだけリウィアの話をしてあげた。
「皇女殿下はとても気さくな方なんだ。すごくきれいな白いお部屋にいらしてね、僕がそれにびっくりしたら、僕がどんな部屋に住んでいるかをお気にされていたよ」
それをヨハンナは給仕も放って、かぶりつきで聞き入っている。お茶を飲むエベルがカップの端で苦笑を隠すのがちらりと見えた。
「僕は自分の部屋はないけど、店があるから。そこを好きなように飾れるって話をしたらね、殿下、僕の店で働いてみたかったって言ってくださったよ」
「まあ! やんごとなきお方でも勤労奉仕をなさりたいと思われるのですね!」
ヨハンナは興奮気味に叫んだ後、早口になって切り出した。
「わたくしが最近感激したお芝居にもそんなお話がございました。とある国の王子様が、市場で働く花屋の男に恋をして、身分を偽り共に働こうとするのですが――」
そこからは嬉々としてお芝居の内容と、それがどれほど尊く美しいかをとうとうと熱弁された。エベルは聞き流していたようだったが、ロックは感想を求められた時のためにとなるべく耳を傾けた。もっとも全てを理解できていたかどうかは怪しいものだ。
ヨハンナの語りを聞きつつ、時々違うことを考えていた。
ユスト伯に会ったことは、彼女には黙っていようと思った。
別に悪い印象を持ったわけではない。むしろ身分卑しいロックにも丁重に接してくれた好人物と言えるだろう。だから話そうと思えばできなくはないのだろうが、ロックの気分はやや沈んでいた。
彼の手の傷を見た時、リウィアがどういうところへ嫁ぐのかを察した。
北方について、ロックはあまり多くを知らない。長い間内乱で荒れていたこと、それを鎮め平定したのがユストであること、そして雪が降ること――そのくらいだ。毛皮を着るとか獣の脂で髪を固めるだとかは聞いたことこそあれ、実際に見る機会はまだないので想像も及ばない。
だが初めて会ったユスト伯の古傷は生々しく、聞かされていた知識を裏打ちするような現実に、今さら衝撃を受けていた。
友人として、彼女の幸せを願っている。
行く先が雪降る地であっても、常に温かい場所にいてほしいと思う。
マティウス邸の三階、東向きの客室が今はロックの部屋だ。
少しでも過ごしやすいようにと、ここにエベルが長椅子や仕事に使える机を運び込んでくれた。ルドヴィクスは肖像画や花瓶をロックが好みそうな色合いに変えてくれたし、ヨハンナは毎日違う花を飾っておいてくれた。おかげでとても居心地がよく、ロックは毎夜を快適に過ごせた。
夜は編み物をして過ごすことが多い。時々エベルが訪ねてきてくれて、他愛ないおしゃべりに花を咲かせたり、恋人らしい会話を楽しんだりもする。
今も、長椅子で毛糸を編むロックの隣には彼が座り、興味深げにその手元を見つめている。
「だいぶ手袋の形になってきたな」
「ええ、これで婚礼の日に間に合いそうです」
編んでいるのは温かい羊毛の手袋だ。
寒い土地へ旅立つリウィアに、餞別として贈るつもりだった。