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針と糸(3)

 城に迎え入れられたロックは、そのままリウィアの私室へ案内された。
 最初に訪ねた尖塔の上の部屋ではなく、城の奥に隠されるように存在している居室のひとつが今の仕事場だ。
 本日通されたのは優しい白の壁紙の部屋だった。室内には美しい鏡台や背の低い本棚、ふたりがけの布張りの長椅子などが置かれていて、それらも全て白塗りの木でできていた。壁には春の花籠を描いた静物画が飾られ、床には毛足の長いふかふかの絨毯が敷かれている。天井から吊るされたシャンデリアも葉冠を模したかわいらしい形をしていて、ところどころに灯された燭台の小さな火が、さながら実った木苺のように見えた。
 窓から射し込む光は柔らかく、塵ひとつない清廉な少女の部屋を照らしている。

 そんな室内を横目に見ながら、ロックは思わず尋ねていた。
「……君の部屋、お城の中にいくつくらいあるの?」
「ざっと五つはあるかしら」
 リウィアは澄まして答える。
「ここはわたくしの私室の中でも一番お気に入りの部屋なの。少し子供っぽいかもしれないけど、好きな調度ばかりを置いているのよ」
「へえ……」
 ぽかんと口を開けるロックに、今度は彼女が質問をぶつける。
「そういえばあなたのお部屋は見せてもらっていなかったわね。せっかくあなたのお家へ入れてもらったというのに……あなたはどんな部屋で暮らしているのかしら?」
 高貴なる姫君の問いかけに、ロックは苦笑で答えるしかない。
「僕は今、自分の部屋というものがないんだ」
 そしてその答えは、彼女をずいぶんと驚かせたようだった。灰色の目を丸くして聞き返された。
「ない? そんなの不便ではなくて?」
「そりゃ僕も、自分の部屋があればいいとは思うけど……」

 以前はロックもトリリアン嬢の店の二階で一人暮らしをしていた。
 だがクリスターが誘拐された事件の後は少々心細くなり、かねてより同居の話が持ち上がっていた父の元へ身を寄せた。
 父の住む部屋には二間しかなく、ロックの現在の『私室』は寝室を間仕切りで分けた半分の空間だけだ。寝台と服をしまう戸棚があるだけの場所では、皇女殿下の私室と比べることさえおこがましい。

 ただ、ロック自身は今の暮らしにもさほど不便を感じていない。
「その分、店があるからね。家に置き切れないものはそっちに並べたらいいし」
 そう答えると、リウィアはむしろ羨ましそうに瞳を輝かせた。
「自分の店があるってどんな気分なのかしら。部屋をたくさん持つのもいいでしょうけど、自分の好むように品物を飾ったり並べたりできるお店があるのも、きっと素敵でしょうね」
「そうだね、楽しいよ」
 ロックも自分の店には誇りがある。笑って続けた。
「特にうちは仕立て屋だからさ、一番見映えのいい服を目につくところに飾っておいて、お客様を呼び込まなくちゃいけないんだ。人台にどの服を、どんなふうに飾っておくかで頭をひねったりするよ」
 通りすがりの客をいかに店の中へ呼び込むか、それもまた店主の腕の見せどころだ。服を着せた人台についでに帽子をかぶせたり、周りに布で造った花を飾ったりと、見映えをよくすることに余念がない。
 ロックがそんな話をすると、リウィアは興味深げに、何度もうなづきながら聞き入ってくれた。
「お店を営むって楽しそう。わたくしもやってみたくてよ」
「そうだね、苦労もあるけど楽しいよ」
「あなたのお店が開いているうちに、一度働かせてもらえばよかったわね」
 あながち冗談でもない調子で語る皇女に、ロックは楽しい気分で微笑む。
 もちろん実現できる気はしなかったが、想像するだけなら愉快なものだ。きっと父はいつになく気を揉んで来客に目を光らせることになるだろうし、エベルが顔を見せに来たならば、皇女の存在にさぞかしうろたえることだろう……。

 仕立て屋として城に通うこととなり、皇女殿下相手にどのような世間話をすればいいのか不安だったロックだが、別段高尚な話ではなくとも彼女は楽しんでくれているようだ。ロックとしても自分の他愛ない話に耳を傾けてもらえるのがうれしく、ふたりでいると会話が弾んだ。
 もっとも、時折話の腰を折る者はいたが。

「あんな治安の悪いところに店を出して、正当な評価をされるとは思えぬがな」
 語らいあう娘ふたりの間に、深い溜息が割って入る。
 優しい白で彩られたリウィアの私室に、甲冑姿の男が壁を背にして立っている。鈍い輝きを放つ鎧兜の中身は、例によってリウィアの兄ヴァレッドだ。
「兄上、何か仰りたいことでも?」
 リウィアが首をかしげれば、ヴァレッドは大仰に肩をすくめる。
「私もあの店を訪ねたことがあるが、壁の外にあるのではろくな客も来るまい。仮にも『皇女の仕立て屋』を名乗るのであれば、あんな場所に閉じこもって満足しているべきではないだろう」
「回りくどい言い方をなさるのね」
 兄の言葉に、今度はリウィアが嘆息した。
 そしてロックに笑いかけて曰く、
「兄上はあなたがもっといい場所で、大きなお店を出すべきだとお思いのようよ」
「そうは言っておらぬ。肩書きにふさわしい振る舞いをなせという話だ」
「何が違うのかしら。そこまで仰るなら、兄上が身銭を切ってロックにふさわしいお店を誂えてあげたらいいのではなくて?」
 くすくすと鈴の音のような笑い声を立てるリウィアに、ヴァレッドは面当て越しの視線を向ける。あいにくとロックには彼の表情が見えなかったが、兄妹の関係は思いのほか良好のようだった。

 以前ロックが進言したから、というわけではないだろうが、ヴァレッドとリウィアの間にはなんらかの歩み寄りがあったようだ。
 今ではロックがリウィアの元を訪ねると、傍らには常にヴァレッドの姿がある。彼はいつも衛兵を装う甲冑姿で、皇子らしい格好をしていることは一度もなかった。そして常にその眼差しを妹へと注いでいた。
 彼自身はロックに対し、こう言い張った。
「針や鋏を持つ人間を迎え入れるのだ、警護の者がおらぬようでどうする」
 だがロックの目には、ヴァレッドは警護というより妹の花嫁姿を見たいだけのようにしか映らなかった。

 今もヴァレッドは、花嫁衣装を身にまとうリウィアをじっと見つめている。
 ロックが仕立てたドレスは試作という形だったのだが、試しにリウィアが袖を通すと、不思議なくらいしっくりと身体に馴染んだ。多少腰回りを詰めなければならないのと、襟元や袖丈を合わせる必要がある程度で、その他はまるで採寸をしたようにぴったりだ。
「僕は、君の採寸をしたことはないんだよね?」
 記憶のないロックが尋ねると、リウィアはこくんと顎を引く。
「わたくしがあなたのお客様になったのは今が初めてです」
「そっか……あんまりぴったりだから驚いたよ」
 記憶を消される前に描き上げた図面には、型紙を作る際の寸法も記されていた。採寸をしたのでなければ目測でおおよその数字を出したということだろう。できぬことではないが、やはり採寸の確かさには敵わないので試すことはまずない。
 逆に言えば、目測でおおよその寸法を導き出せるほどには、かつてのロックもリウィアとよく顔を合わせていたということだろう。
 当時を思い出せないのがつくづく悔やまれる。
「それだけ、あなたがわたくしをよく見ていてくれたということでしょうね」
 リウィアは頬をほんのり赤らめはにかんだ。
 そして姿見の前で背筋を伸ばしたり、袖がよく見えるように腕を振ったり、鏡面に向かって微笑んだりと――ドレスをまとう婦人がするような振る舞いをしてみせる。ご婦人方のそういう仕草は仕立て屋冥利に尽きるもので、ロックも微笑ましい思いで彼女を見つめた。
「よく似合ってるよ」
 彼女のために仕立てたドレスは、こと灰青色の生地が木苺色の髪にとてもよく似合っていた。
「そうでしょう! あなたが仕立ててくださったドレスですもの」
 リウィアは我が事のように胸を張っている。

 婚礼の日にはこの髪を結い上げ、さらには美しい化粧を施してからドレスをまとうらしい。
 その段取りもロックはすでに聞いており、婚礼当日も城へ上がるようにと命を受けている。それまでにドレスの直しを終えてしまう必要があった。
 婚礼の日はもう眼前に迫っている。
 焦るほど余裕がないわけではないが、一方で得も言われぬ緊張を覚えるロックだった。国を挙げての祝典に携わるのだから当然だろう。

 ロックのざわつく内心をよそに、リウィアは壁際の兄を見やる。
「兄上もそうお思いでしょう? ロックの腕は大したものだって!」
「ああ、たしかにな……」
 ヴァレッドは感嘆の声を漏らし、ゆっくりとかぶりを振った。
「そうして花嫁衣裳を着ていると、急にお前が成長したように思えるな。この間までよちよち歩きの幼子と思っていたのに、いつの間にこうも大きくなった?」
「いやだ、いつの話をしていらっしゃるのかしら」
 とたんにリウィアがつんとする。
「兄上はいつも大人ぶっておいでね。わたくしとそう変わらぬくせに」
「私は兄だぞ? お前より大人であるのは間違いあるまい」
「大人だと仰る方がこんなふうに偉ぶるものかしらね、ロック?」
 水を向けられ、ロックも笑いをこらえるのに必死だ。
「リウィアもヴァレッド殿下も仲がいいね」
 何やらグイドとミカエラを思い出すような仲睦まじさだ。あちらに比べると、こちらはもう少し素直になりきれていないふうではあるが。
「あら、ちっとも仲良くなんてないのよ?」
 と、リウィアは澄まし顔で否定する。
「兄上とはよく晩餐を共にするけれど、全然愉快な話もしてくださらないの。せっかく兄妹ふたりでの食事なのだから、もっと笑わせてくださったっていいのに」
「身分貴き者は、食事の席で大口を開けて笑うものではない」
 すぐさまヴァレッドが反論した。
 自分の意見に誤りがあるとはつゆとも思わぬ様子で続ける。
「私とてお前が興味を抱くであろう話題を心がけてはいるぞ。近頃読んだ書物の話や、帝国内の情勢、それから父上の偉大な功績についてなど――」
「兄上は『愉快』という言葉の意味をご存じないみたいね」
 花嫁衣裳のリウィアが嘆くので、ロックはこらえきれずに吹き出した。たちまちヴァレッドがこちらを向いたが、睨まれたかどうかは面当てのせいで知らずに済んだ。

 この日は袖丈を詰める作業を終え、ロックはリウィアの元を辞した。
「もう帰ってしまうの? ルチアにお茶菓子を作らせていたのに」
 リウィアは寂しそうに引き留めようとしてきたが、仕立て屋の出入りは厳しく時間が決まっている。立ち入る際には所持品から着衣に至るまで検められたし、城を出る時も決められた門から出ていくようにと言い含められてもいた。警備の面から言って当たり前のことではあるのだろうが、ロックは慣れぬ緊張感に肩を凝らせている。
「あいにくだけど、そろそろお暇しなくては」
 眉尻を下げたロックの言葉に、ヴァレッドが重々しく言い添える。
「この後は客人もある。引き留めてはならぬ」
「ええ……」
 とたんにリウィアがうつむいた。
 小さな彼女の手が、ロックのシャツの袖を縋るように掴む。
「では、また来てちょうだいね」
「必ず来るよ」
 ドレスの直しがある以上、ここをまた尋ねてくるのは確実な話だ。だがロックは決して『仕事で』とは言わない。
 これは大切な友人との約束だ。
 あと何度彼女とこうして会えるか、その機会にも限りがある。一度として無駄にしたくはなかった。
「リウィア、時間だ」
 ヴァレッドがロックではなく、妹を急かす。
 それでリウィアもロックの袖からそっと手を離した。
「次はぜひお茶菓子を召し上がってね」
 瞳を潤ませながら、それでも面を上げ、微笑んで告げてくる。
「あなたの手がふさがっていて食べられないようなら、わたくしが口に放り込んであげるから」
「もしかしたら、お願いするかもしれないな」
 ロックもなるべく笑って応じる。
 それから先に出たヴァレッドに続いて、リウィアの部屋を辞した。
 リウィアは扉が閉まるまでずっと、ロックを見送っていてくれた。最後にちらりと目が合って、寂しそうな微笑が扉の隙間に見えたような気がした。
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