針と糸(2)
宴はささやかに、だが賑々しく繰り広げられていた。本日の主役たるロックは招かれた客たちから引っ張りだこだ。次々に質問を投げかけられ、なかなか落ち着いて食事をする暇もなかった。
「皇女様ってどんな方? おきれいだった?」
ニーシャの問いに、すかさずミカエラも乗ってみせる。
「わたくしも知りたいです。皇女殿下とはどのようなお話を?」
彼らの関心はロックの仕事そのものよりも、皇女殿下のほうへと向けられているようだ。婚礼を目前に控えた今ではそれも仕方のないことだろう。
ロックも皆の気持ちは理解できたから、話せる範囲内のことを答えた。
「殿下は愛らしい雰囲気の方でしたよ。僕に対しても気さくに話してくださって、とても和やかにおしゃべりができました」
「『気さくに』だと?」
たちまちグイドが眉をひそめる。
「皇女殿下に対してそのような態度で接して大丈夫か? せっかく栄誉を与えられたというのに、すぐに不敬罪で捕らえられるなど笑い話にもならんぞ」
「まあお兄様、心配性なんだから」
ミカエラは笑って兄をたしなめた。
「ロックはお話し上手ですもの、きっと皇女殿下にも気に入っていただけたのよ」
実際はそこまで弁舌巧みなほうでもないのだが、リウィアに関して言えば馬が合ったというのが正しいだろう。彼女とも今ではすっかりよき友人として相対するようになっていた。
もっとも、交誼を結んだきっかけそのものは現在でも思い出せないままだ。
先に話しかけたのはロックなのか、それとも彼女なのか、出会いのきっかけもいつか聞いてみたいものだと思う。
「ね、エベル。ロックが殿下の仕立て屋に選ばれてどんなお気持ち?」
ミカエラがエベルに水を向けた。
その瞬間まで、エベルはロックのほうを見ていたようだ。話しかけられるとはっとしたように振り返り、軽く微笑んだ。
「無論、誇らしいと思っている」
そう答えた後、彼は再びロックに目を向け、静かに尋ねてきた。
「皇女殿下は……お元気そうだったか?」
どこか複雑そうな問いかけに込められた気遣いを、ロックはとっさに読み取った。すぐにうなづいて答える。
「ええ」
あの日、城の尖塔でリウィアとふたりだけで話した後。
エベルと顔を合わせたロックは、皇女とのやり取りを彼にだけ打ち明けた。と言っても話したのは花嫁衣裳についてと、友人らしい報告ができたという報告程度だ。
彼女が泣いていたことは、エベルにもまだ話せていなかった。話していいのかどうかわからなかった。
「それはよかった」
溜息まじりに言った後、まだ聞きたいことがあるというようにエベルは口を開きかける。
だがそこへ、
「どうしたエベル、ずいぶんと浮かぬ顔じゃないか」
グイドがからかうように口を挟んできて、とたんにエベルは苦笑する。
「そんなことはない」
「いいや、私にはわかる。仕立て屋を皇女殿下に取られてやきもちを焼いているんだろう?」
「取られてなどいない」
そこはぶすっと答えたエベルを、グイドと、それにミカエラがくすくす笑った。
ロックもつられて笑った後、ふと視線を巡らせてみる。
すると、いつの間にかトリリアン嬢が食卓に着いていることに気づいた。
彼女は特にめかしこむこともなく普段着で現れ、そしてロックに挨拶の言葉すらなくパンやごちそうを口に運んでいる。その健啖ぶりたるや、フィービが呆れて顔を引きつらせるほどだった。
「誰よ、彼女を呼んだのは」
「呼んでないけど、来るって言ってたって……」
運悪く、トリリアン嬢の隣にはクリスターが座っていた。脚の悪い彼はとっさに逃げられなかったのだろう、うんざりした様子でその食べっぷりを眺めている。
「おい婆さん、いくらなんでも食べすぎだろ! 少しは遠慮ってもんを――」
たちまちトリリアン嬢が面を上げ、眼光鋭くクリスターを睨んだ。
「ああ!? 誰が婆さんだって!?」
「あ……いや、間違った。トリリアン嬢! お嬢さん!」
「礼儀がなってないねクリスター! これは勉強代だよ!」
そう言って、トリリアン嬢はクリスターの皿からジャガイモパンをさらっていく。
あっけに取られるクリスターに、苦笑気味のニーシャがパンを分けてあげているようだが――あの分ではそれもすぐに消えてなくなることだろう。
あわててロックは席を立ち、
「ジャスティアに追加をお願いしてくるよ」
「あら、今日の主役が立つことないでしょ。あたしが行くわよ」
フィービも腰を浮かせかけたが、ロックはそれを押しとどめた。
「いいよ、座ってて。ジャスティアたちにお礼も言いたいし」
それに、とロックは父の耳元に顔を寄せる。
「いよいよ収集つかなくなったら、トリリアン嬢のことお願い」
「……気乗りしないわねえ、いかにあんたの頼みでも」
深々と溜息をつくフィービに、ロックも同じ思いを抱きながら宴席を離れた。
パン屋の厨房では、ジャスティアとカルガスが忙しなく立ち働いている。
戸口に立ったロックは、焼けたパンのいい匂いと竈の熱風を浴びながら呼びかけた。
「ジャスティア」
すぐに彼女が振り向いたから、早速頼み込んだ。
「トリリアン嬢が来てて、食べ物が足りなくなってきてる。追加をお願いしてもいいかな」
「やっぱり来たんだね」
ジャスティアは苦笑したものの、すぐに言ってくれた。
「わかった、すぐに持って行くよ」
「ありがとう、世話かけるね」
「なあに、あんたのお祝いの席だもの。このくらいはさせなさい」
胸を張るジャスティアの後ろで、竈に向き合うカルガスがうんうんとうなづいている。
今日の宴席はふたりの厚意で大幅割引してもらっていた。当初は打ち上げのつもりで全てロックが自腹を切るつもりだったのだが、ジャスティアたちは『お祝いだから』とずいぶん勉強してくれたし、エベルやリーナス兄妹がそれぞれに出資もしてくれて、気づけばロックの持ち出しはごくわずかなものとなっていた。
「ふたりのおかげで楽しくお祝いできてるよ、ありがとう」
改めて感謝を告げるロックに、ジャスティアは照れ隠しか肘で小突いてきた。
「水臭いこと言わないの」
「いや、お礼は大事かと思ってさ」
思えばこの夫婦にも世話になった。貧民街に住み着いてからというもの、この店で食事をしない週はないほど通い詰めていた。当たり前のように女装をするフィービを嫌厭せず、初めからふつうに接してくれたのもこのふたりくらいのものだ。ロックも何かと気遣ってもらっていたし、何度となく心配もかけた。
だから感謝の気持ちを伝えておきたかったのだが、ジャスティアにはそれがくすぐったかったようだ。
「そんなこといいから、がんばってきなさい」
そう言って、ロックに焼きたてパンを何枚も重ねた皿を持たせる。ずっしり重いその皿をロックがよろけながら受け止めると、ジャスティアはおかしそうに笑った。
「大出世したっていうのに、あんたの細腕は相変わらずなんだから」
「そうだね」
彼女はまだ、ロックが女だという事実を知らないはずだ。
この件が落ち着いたらきちんと打ち明けたいと思っていた。フィービが父親だったという事実もあわせて告げたら、きっと驚かれるに違いない。
「じゃあこれ、持ってくよ」
ロックが皿を運んでいこうとすると、ジャスティアがふと、視線を店の外へ投げた。
「そういえばさ、ロック」
「なに?」
「あのお嬢さんは、前に連れてきた子かい?」
彼女の視線は食卓でジャガイモパンをかじるミカエラに注がれている。ミカエラはここの食事が気に入ったようで、しきりにおいしいおいしいと絶賛していた。しかし彼女の兄はそんな妹を複雑そうに、そして気をもみながら見守っている。
「ミカエラのこと? いや、ここに来るのは初めてのはずだけど」
ロックには彼女とこの店を訪ねた記憶などない。
マティウス邸でお茶をご一緒したことはあるが、貧民街で食事をした覚えもなかった。そんなことがあればあのグイドが黙っていないだろう。
「でも前に、女の子を連れてきてたろ」
ジャスティアが続ける。
「ちょっと風変わりな子だったけどね、フードを深くかぶっちゃって、おかげで顔が見えなくて。でも確かに女の子だったし、あのお嬢さんと雰囲気が似ていたよ」
「――それ」
脳裏にひらめくものがあり、ロックはたちまち食いついた。
「どんな子だった?」
「どんなったって、顔見えなかったって言ったよ」
ロックの勢いに戸惑った様子ながらも、ジャスティアは答えてくれた。
「でも仲はいい子だったんじゃないの? あたしが胡散臭そうにしたら、あんた『そういうんじゃないよ、ああいう格好をするのが好きなんだよ』って庇ってたでしょ」
もしかすると、それは――。
ここに、リウィアと一緒に来たことがあったようだ。ロックの家で食事をした日の出来事だろうか。どうしても思い出すことのない記憶のかけらが、それでもこうして意外な場所から掘り出されることもある。
思わず押し黙るロックに、ジャスティアはなぜか溜息をつく。
「にしてもあんた、浮いた話を聞かないねえ……」
「え!? な、何だよ急に!」
「女の子を連れてきたって色っぽい話にはならないし、もうじき二十一になるんでしょ? ぼちぼちそういう相手がいてもいい頃じゃないの?」
あいにく、浮いた話ならすでにあるしそういう相手も本日来ている。
だがそれを打ち明けるのも、全てが落ち着いてからになるだろう。今のところは、曖昧にはにかみつつ逃げの一手のロックだった。
トリリアン嬢の乱入、そしてお約束の酩酊などはありつつも、その日の宴はつつがなく終了した。
そして翌日の早朝、楽しかった思い出を引きずりつつ、ロックは『フロリア衣料品店』を訪れていた。
店を開けるためではなく、一旦閉めるためだ。
『しばらく休みます。御用の方はフィービをお訪ねください』
張り紙に父について記したのはある種の脅しでもある。留守だからといって空き巣でもしてみろ、父が黙っていないぞと睨みを利かせておいたのだ。
「これでも押し入ってくる奴がいたらよっぽどの阿呆だな」
フィービも張り紙を眺めて満足そうにしている。
今朝は化粧もせず、そしてドレスも着ていない。男物のシャツとスラックスを身に着け、長い髪を結わえた父の姿を、ロックは複雑な思いで見つめる。
「今日もその格好なんだね」
この間城へ行く時も、父はこんな格好をしていた。
指摘を受け、フィービはきまり悪そうに頬を掻く。
「こういう日は父親らしく見送るべきだと思ってな」
「僕はいつもの父さんも、父親らしいって思ってるけど」
ロックは肩をすくめたが、そんな議論をかわしている時間ももうなかった。そろそろ発たなければいけない。
今日はこれから城へ上がる。帝都の入り口の門に迎えの馬車が来るそうだ。いつものマティウス家の馬車ではなく、ヴァレッドが用立てたという特別なものらしい。おかげで今朝のロックは少々緊張にぴりぴりしていた。
父の振る舞いが気になるのも、きっとそのせいだろう。
なんにせよ、こうして朝早く見送ってくれることに感謝している。今までになく長く店を空ける自分の代わりに、留守を守ってくれることにも。いや――今日に至るまでずっと傍で自分を守ってきてくれたこと、そのものにも。
全てが終わったら、父にも改めて感謝を告げよう。
「行ってくるよ、父さん」
ロックは父に向き直り、なるべく笑ってそう告げた。
父もまた、青い目を細めて応じる。
「ああ、行ってこい」
別れ際の親子の会話は、やはりそれだけだった。
ロックは四頭立ての立派な馬車に乗り込み、帝都の街を城へと向かった。
ここ半月ほどで街並みはずいぶんと様変わりしていて、来たる祝祭を寿ぐ支度が整いつつあるようだ。街角に立つ像は美しい花冠を戴き、建物の間には色とりどりの旗飾りが渡されている。街行く人々は誰も彼もが笑顔で、幸福そうに見え、しかし一方で街を警邏する市警隊は増員されているようにも見えた。
婚礼の日が近づきつつある。
そのことを街の様子から、ロックも如実に感じ取っていた。