針と糸(1)
ロックが皇女の花嫁衣裳を手がけるという知らせは、程なく帝都に知れ渡った。マウロ・フォーティスを筆頭に名だたる仕立て屋たちは、自分たちが栄誉を逃したことを大いに悔しがり、そして年若い仕立て屋の台頭を称賛と共に歓迎した。ごく一部には貧民街に暮らす人間が皇女の婚礼に関わることを憂慮する声もあったようだが、彗星の如く現れた身元不明の仕立て屋を、多くの市民はその神秘性と物珍しさからおおむね好意的に捉えているそうだ。
「彗星どころか、僕はずっと前から店を出してたんだけど……」
帝都に流れる評判を聞いたロックはしょげた。
店を構えてもうじき四年になる。貧民街にどんな店があるかなど多くの帝都市民は知らないだろうが、それでも唐突に世へ現れたつもりはない。
落ち込むロックに対し、エベルは穏やかに取り成した。
「壁の外にある店では、帝都市民にはなかなかご縁がないからな。名を知られていないのも無理はあるまい」
「そんな、伯爵閣下がご贔屓にしてくださってる店ですよ?」
「では、エベルが広告塔としての務めが果たせていなかったということだな」
グイドが皮肉っぽく口を挟んだので、今度はエベルが肩を落とす。
「私の宣伝が足りなかったということか」
「そもそも宣伝などしていたか? お前は口を開けばこの仕立て屋がかわいらしいだの心底いとおしいだの言うばかりで、肝心の腕についてはほとんど語らぬ有様だったぞ」
幼なじみの証言にエベルは不服そうだった。すかさず異議を申し立てる。
「そんなことはない。私は仕立て屋としての彼女も褒め称えたはずだ」
「あいにくこちらの記憶にはないな。ミカエラはどうだ?」
グイドは妹に水を向け、ミカエラはくすくす笑いながら答える。
「前にエベルがとても素敵な仕立ての上着を着ていたから『それもロクシーが仕立てたの?』と尋ねたら、『私のかわいいロクシーが、そのしなやかな繊手で心を込めて縫い上げてくれたものだ』などと答えてもらったことがありました」
「宣伝どころかただの惚気だな。何か申し開きはあるか、エベル」
「宣伝をするには情報量が多すぎた、ということか……」
腕組みをして考え込むエベルの、一体どこまでが本気なのだろうか。面映ゆさにもじもじするロックの横では、フィービが溜息をついている。
「閣下の宣伝ぶりはともかく、帝都の中でそれほど話題になってるなら、貧民街だって騒ぎになってもいいはずなのにねえ」
「全くだよね」
それにはロックもうなづいた。
ロックが『皇女殿下の仕立て屋』の地位を獲得したという話は貧民街にも流れているはずなのだが、評判を聞きつけて店に客が増えたということもなければ、噂の真偽を突き止めようと冷やかしに来る客さえいなかった。貧民街であぶく銭を稼ぐ面々にとって、帝都の中の慶事など儲け話に繋がるか否か程度の関心しかないのかもしれない。
もっとも、ロックの数少ない知人たちはこの成功を共に喜んでくれた。クリスターとニーシャは歓声を上げて祝ってくれたし、ジャスティアとカルガスに知らせた時はふたりとも目を丸くして、信じられないとばかりに互いの頬をつねりあっていた。
『痛いってことは夢じゃないんだね……』
ジャスティアはつぶやいた後、満面の笑顔になって言った。
『まずはお祝いしないとね! あんたの祝賀会、もちろんうちの店でやるんでしょう?』
ロックとしても願ってもない申し出、ふたつ返事で了承して――今日に至る。
パン屋の食堂を会場に催される祝賀会に、ロックは当然エベルを招いた。
するとエベルから話を聞いたミカエラがぜひ顔を出したいと言いはじめ、それについてもロックは異存なかった。ミカエラにも皇女について話を聞かせてもらった経緯があるし、ロック自身彼女には好意を抱いているからだ。
ただミカエラを溺愛する兄が、妹の貧民街への外出をどう捉えるは非常に気になるところで、現に今日に至るまでグイドとミカエラの間には何度か折衝が行われたようだ。最終的にはグイドがお目付け役として同行する、という条件の元に許可が下りたらしい。リーナス兄妹が揃って現れた時、ロックは正直度肝を抜かれた。
今は宴席が始まるまで、『フロリア衣料品店』で話に花を咲かせているところだ。
「この辺りに皇女殿下のご婚礼がいかほど重大なものか、理解できる者はそうそういまい。壁の外の暮らしが皇帝陛下のご威光によって保たれているとも知らん連中ばかりだ」
グイドは相変わらずの刺々しさで嘲ったが、ミカエラはそれを苦笑で制する。
「お兄様、本日はおめでたい席です。そういう話はよしましょう」
「まあ、そうだな。今日くらいは手放しで祝ってやってもいい」
妹に取り成されればグイドもたちまち相好を崩し、刺々しさも鳴りを潜めた。そんなふたりを見て、エベルは目を細めている。
「ロクシー、ランベルト卿のお嬢様がたにもドレスを仕立てて差し上げたのでしょう?」
ミカエラは宴席が待ちきれない様子ではしゃいでいた。
「彼女たちもあなたのことを褒めそやしていたわ。どんなドレスもたちどころに仕立ててくださる、素晴らしいお店ですって!」
「たちどころというわけでは……」
ロックは照れながら答える。
「あの時はクリスターに手伝ってもらって、ようやく仕上げたという感じでしたよ。ランベルト家のお嬢様がたに喜んでいただけたのはうれしいですけど」
「まあ、ご謙遜。ロクシーが優秀な仕立て屋さんなのはもはや帝都でも周知の事実なのに」
ミカエラは愉快そうにして、言い添える。
「それにね、あなたが男の方か女の方かわからないのも評判になっているんですって」
「どういうことです、それ」
「『仕立て屋ロック・フロリアは男か女か』というのが、帝都の仕立て屋と噂好きの面々との間で議論になっているそうだ」
エベルが話を継いで曰く、
「マウロ・フォーティスはあなたを男だと思ったようだが、別の仕立て屋からは異論も出た。あなたが男装の婦人か、婦人に見える殿方かという議論は決着せず、今やそういう意味でも関心を集めているという状況だ」
「そんなことに興味あるなんて不思議ですね」
ロックは一笑に付したが、多少はわからなくもなかった。
それこそ『彗星の如く』現れた仕立て屋に神秘性を見出したくなるのはやむを得ないことだろうし、その上性別が判然としないのであれば秘密めいた雰囲気はますます際立つ。むしろそういった薄絹に覆われた存在を帝都の人々は求めているのかもしれない。慶事に花を添えるように、一層心地よく酔いしれるために。
ロック自身は男装しているだけの、特に謎も秘密もない小娘でしかないのだが、これからはそんな期待も背負っていかねばならないのだろう。皇女に選ばれた仕立て屋として、恥をさらすような真似はできない。改めて気が引き締まる思いだった。
「性別がわからない人間のほうが、謎めいていて魅力的ってものよ」
フィービがそう言ったので、その場に居合わせた全員がそれぞれに笑った。
「父さんがそれ言う?」
「何よ、あたしが言ったらおかしい?」
ロックの言葉にフィービはにやりとした。本日も化粧の映えた、妖艶な美女の顔をしている。
「たしかに、そういう一面もなくはない」
どこか得心したように応じたエベルが、その後でミカエラに向き直った。
「ところでミカエラ、この界隈ではロクシーを『ロック』と呼ぶように。彼女が男装していることを知らぬ者もまだいるからな」
「あっ、いけない。そうでした」
ミカエラは両手で口元を押さえた。
そしてロックへ笑いかける。
「では本日はここでの流儀に従い、ロックと呼ばせていただきます」
「お手数かけます、ミカエラ」
彼女の気配りに、ロックも笑顔で応えた。
それから五人は頃合いと見て、『フロリア衣料品店』を出る。向かう先は本日の宴席、ジャスティアたちの待つパン屋だ。
公衆浴場の下のパン屋には、すでに焼きたてのパンと食事が並べられていた。
太陽が中天に上ったお昼時、普段なら食堂にもぼちぼち客が集まる頃だが、本日はロックたちのための貸し切りとなっている。
「おや、ようやっと来たね」
皿に重ねたジャガイモパンを食卓に並べながら、ジャスティアがロックに笑いかける。
「お待たせ。クリスターたちは来てる?」
「ああ、そこに座ってるよ」
彼女が指さした先の卓には、クリスターとニーシャがすでに座っていた。ニーシャはこちらに気づくと朗らかに手を振ってきたが、クリスターはと言えばロックの連れに気づくなり目を点にしていた。
「あら、あの時の仕立て屋さん」
ミカエラが彼に気づいて声を上げると、グイドもそちらへ目をすがめる。
「ああ。あいつがクリスターとやらか」
ふたりの視線を受けたクリスターは曖昧に会釈を返し、それからロックを手招きする。
「おい、ロック、ちょっと!」
呼ばれたので近づいていけば、クリスターは小声で尋ねてきた。
「伯爵閣下はわかるが、リーナス卿と妹君までお越しなのか」
「うん。ぜひ来たいって言っていただいてさ」
屈託なく答えるロックを、彼は半ば呆れた様子で見てくる。
「貧民街の宴に貴族様が三人もご参加か。お前も偉くなったな、ロック」
「そういうんじゃないけど、人数は多いほうがいいだろ?」
「お上品な面々の前で飲み食いは緊張するぜ」
口ではそう言いつつ、クリスターもグイドたちが疎ましいというわけではないようだ。命の恩人でもある手前、いつもの調子が出せないといったところなのだろう。笑って肩をすくめてみせた。
「ま、お前の祝いの席となれば知己が顔連ねんのも当然か」
「見知らぬ顔でもないだろ、気楽に過ごしなよ」
「たしかにな、そうするか」
うなづいたクリスターの隣で、ニーシャも声を落とす。
「見知った顔って言えばね、トリリアン嬢も後で顔出すって」
「え、なんで?」
思わず聞き返したロックだったが、考えるまでもない。ただで飲み食いできる席に彼女が現れないはずがないのだ。
「今日もたらふく食べて帰るって言ってたよ」
「あの婆さんの食欲すごいもんな。お前も取り分は事前に確保しとけよ」
ニーシャとクリスターの言葉に、ロックは少々心配になる。
トリリアン嬢のことだ、きっと今日も好きなだけ飲み食いして、挙句の果てに酔いつぶれてフィービに背負われ送り届けられるのだろう。ジャスティアにあまり酒は出さないよう頼んでおこうと思うロックだった。
めいめいが食卓に着いたところで飲み物が配られ、まずは乾杯となった。
乾杯にはジャスティアとカルガスも一度手を止め参加し、皆がロックを祝い、労ってくれた。
「にしても、皇女様ねえ……」
もっともジャスティアはまだ実感が湧いていないようだ。ジャガイモパンをかじるロックを見て心配そうな苦笑を浮かべた。
「やんごとなき方々ってのは貧民街のことなんて好いちゃいないと思ってたけどね」
「そうでもなかったよ」
ロックは控えめに答える。
食卓を挟んで向かい側、エベルやミカエラがそっと微笑んだ。グイドだけは何か言いたげに顎を反らしたが、幸いにしてジャスティアからは見えなかったようだ。
「あんた、無礼な真似だけはするんじゃないよ。何が忌憚に触れるかなんてわかったもんじゃないんだから」
「わかってる。今のところ、皇女殿下とは上手くやってるよ」
上手くやっているどころか一友人として気の置けない間柄になりつつあるのだが、それをジャスティアたちに話したところで信じてはもらえないだろう。だからこれは黙っておく。
「来週からはお城に通うんですもんね」
フィービが杯を傾けつつ確かめてくる。中身は葡萄の果汁を薄めたもので、酒を飲まないロックも同じものを飲んでいた。
「うん。だからしばらく店は閉めなきゃ」
「あたしはその間留守番ね」
そう言ってフィービがにやりとする。
「これを機に、店を隅々まで磨き上げてやろうかしら。あんたが帰ってきた時には床が目も眩むくらいぴかぴかになってるかもよ」
「それは楽しみだね」
ロックは吹き出しつつ、こんなに長く店を空けるのは初めてかもしれない、と思う。
これまでにも私用や旅行、あるいは誘拐事件などで不在にしたことはあった。だが婚礼の支度にはひと月ほどかかり、その間はずっと店を閉めることになる。城に通う間はマティウス邸に住まわせてもらうことになっており、しばらくは父とも、この貧民街とも離れて暮らさなければならなかった。
だから今日はこのごみごみした街並みと、ここで出会った人々とを、目に焼きつけておこうと思った。