『彼』の最後の大仕事(6)
皇女リウィアは笑顔でロックを手招いた。「こちらへ来て」
そうして寝台の、ちょうど彼女が座っているすぐ傍をぽんぽんと叩く。
畏れ多さにロックは戸惑ったが、ここで遠慮するのもまた不敬かもしれない。そう考えて従うことにする。
ふかふかの寝台にロックが腰を下ろせば、リウィアは上機嫌で微笑んだ。
「あなたがここにいるなんて夢のようよ」
「夢、ですか?」
「ええ。だって、もう二度とこんなふうにお話はできないと思っていた」
その言葉には万感の思いが込められており、彼女が抱く好意の強さを感じることができた。
きっと彼女との間には、いろんな思い出があったのだろう。
ロックが忘れてしまった記憶を、彼女は今日まで大切にしてきてくれたのだろう。
そんな思い出の数々をわずかにでも取り戻せはしないかと、ロックは口を開いた。
まず、聞いてみたいことがある。
「なぜ『ユリア』とお名乗りに?」
ロックの問いに、リウィアは少し眉をひそめた。
「もっとふつうに話してくれないと嫌」
「ふつうに……?」
「あなたはわたくしにも、お友達と話すように話しかけてくれたでしょう」
どうやら記憶を失くす前のロックは皇女にも敬語を使っていなかったようだ。果たしてどんな出会いを経ればそんな無礼な真似ができるのか、内心冷や汗をかいている。
しかしリウィアは今のロックにも同じように接してほしいと望んでいるらしく、灰色の瞳を潤ませてこちらを見つめている。
畏れ多さも今さらだ。ロックは思いきって応じてみた。
「じゃあ……どうして君は、『ユリア』って名乗ることにしたの?」
ためらいながらの問いかけに、今度は笑顔で答えが返る。
「それはあなたがそうさせたのよ、ロック」
「僕が?」
「だってあなたったら、わたくしに名前を聞くんですもの。街歩きの間は誰にも名乗らない、名乗る必要はないと思っていたから、初めてのことにとても慌ててしまったの。その場はどうにか切り抜けたけれど、再び会う時までに何か考えておかなくてはって、悩んだ結果がユリアという偽名です」
そこまで語ると、リウィアは少し誇らしげに胸を張った。
「偽名なんて使うのは初めてだったから、きれいな名前にしようと思ったの。三日三晩考えて決めたんだから」
「それはそれは。僕のせいで苦労かけちゃったね」
得意げな彼女がおかしくて、ロックは思わず吹き出した。
偽名を考えてくれたということは、再会を望んでくれていたということでもあるだろう。彼女との間に生じた温かな交流を、ロックはいとおしいと思う。
リウィアもまた、笑うロックを見つめて目を細めていた。
「最初に名乗った時も、あなたはそうやって笑っていました」
「そうなんだ」
「『わざわざ名前を考えるのが面白い』って言っていたの」
それはいかにもロックの言いそうなことだ。その時の自分も、彼女が名前を考えてきてくれたことがうれしかったのかもしれない。
「僕も偽名を考える時は少し悩んだな。せっかくだから格好いい名前にしたかったけど、父が『本名とかけ離れていると呼ばれた時に気づけなくなる』って言って、それでロックにしたんだ」
当時はまだフィービのことを父と気づいていなかったが、その助言は確かに有益だった。偽名はすっかり耳に馴染んで、今や本名で呼ばれたほうが驚くほどだ。
「やっぱり悩むものなのでしょうね」
「そうだね。偽名なんて名乗る機会そうそうあるもんじゃないし」
「わたくしたちはお互いに得がたい体験をしたようね」
リウィアがくすくすと上品に笑う。
ロックも一緒になって笑いつつ、なんとも言えぬ安らぎを覚えた。
尖塔の上の小部屋は不思議と居心地がよかった。
ロックにとっては初めて来た場所であり、帰り方もわからぬほど未知の場所でもある。本来なら立ち入ることも許されぬ部屋でも心が凪いでいくのは、隣に友がいるからだろう。
ふたりは些細なことで笑いあい、心の内を打ち明けあった。
「あなたの仕立てたドレスを見ました」
リウィアがそう言って、ロックは思わず身を乗り出す。
「どうだった?」
「とても素敵だった。あなたって腕のいい仕立て屋でしたのね」
「ありがとう、ユリアのために仕立てた自信作だよ」
あのドレスのために尽くした時間、費用、そして思いがある。
全ては今日、ここで彼女と会うために。
そして来たる日に、彼女の門出を華やかに彩るために用意されたものだ。
「でもあの意匠には驚かされたわ……」
唸るように言ったリウィアが、次いでこう尋ねてきた。
「あなたは不思議に思わなかった? わたくしもこれまでにいろんなドレスを目にしてきたけれど、お城をドレスに描いた人は初めてよ」
「ご婦人の身に着けるものにしては無骨だと思ったよ」
ロックは正直に答えた。
記憶を失くした後でドレスの図案を見た時、自分はどうしてこれを描いたのかと首をひねったほどだ。花嫁衣裳にしては色合いも暗いし、何より突飛な意匠だと感じられて仕方なかった。
「エベル――マティウス伯から聞いたんだ。僕と彼と、それから君とで夜空を見上げた日のこと。満天の星の下にある帝都の城壁を一緒に眺めたって。この意匠に決めたのはそういう経緯があったからだって推測ならできた」
だが、エベルはこうも言った。
その時ロックが何を考えていたか、想像はつくが断言はできないと。
それは今のロックにとっても同じことだ。
「僕は何を思ってあの意匠を図案にまとめたんだろう。それだけは考えてみても、マティウス伯に聞いても、どうしてもわからなかった」
楽しかった夜への名残惜しさか。
同じ星空を見上げた思い出を残すためか。
遠方に嫁ぐリウィアへのはなむけのつもりだったのか。想像はできても、答えはもうどこにもない。
「ユリアには、わかる?」
あるいは彼女ならその答えを持っているかもしれない。そう思って尋ねたが、皇女は静かにかぶりを振った。
「わたくしにも、あなたの心のうちまでは……」
「……そうだよね」
「でも、同じ夜のことを大切に思ってくれていたというのはわかります。あなたとわたくしが、とても素敵な思い出を共有していたのだと」
リウィアはそう言うと、長い睫毛をそっと伏せる。
瞼に腫れの残る顔は、こうして傍で見るとまだ少しあどけない。彼女がもうじき花嫁になるのだという事実が信じがたいほどだ。
「ロック」
再び瞳を開けた時、リウィアは大人びた微笑を浮かべていた。
「あなたのドレスを、わたくしに着させてはもらえませんか?」
「……ユリア、いいの?」
ロックは思わず聞き返した。
それはもちろん光栄なことであり、ロック自身が切望してきたことでもある。それを目標として今日まで、ここまでやってきた。だから彼女の言葉は願ってもない申し出だ。
しかし一方でロックは、かすかに胸が痛むのを覚えた。
なぜかは、すぐにはわからなかった。
「ええ。ぜひあれを着たいと思ったの」
リウィアは深く顎を引く。
そして穏やかに続けた。
「知っているでしょう、わたくしはもうじき北方に嫁ぐの。帝都からは同じ星も見えない遠く、おそらく一度ここを離れたら、戻ってくることは二度とない……わたくしはそんな土地へ、たったひとりで行かねばならぬのだと思っていた」
彼女の繊手が、ロックの手をそっと握る。
歳の近い娘同士、だがその手はあまり似ていない。指に縫いだこを作ったロックの手と比べ、リウィアの手は傷ひとつない。なめらかで美しく、けれど頼りないくらいに小さなその手が、寒い北方の地で凍えてしまわなければいいと思う。
「でもあのドレスを着たら、大切な友達が共にいてくれる」
リウィアはロックを見つめて柔らかく微笑んだ。
「誰も知らないあなたの心は、わたくしが北方まで連れていく。遠く離れても、もう会うことはなくても、わたくしには独り占めしたあなたの心があるもの――きっと寂しくはないはずよ」
とっさに言葉が出なかった。
うれしいのに、名誉なことのはずなのに、ロックの喉はつかえたように何も声を発せなかった。一度大きく息をついてから、少し冷たいリウィアの手を握る。
それから、帝都で初めて得た友の名を呼んだ。
「ユリア……」
今はそれだけが精一杯だった。
リウィアの部屋を出ると、螺旋階段の途中でヴァレッドがこちらを見上げていた。
どうやらずっと待っていたようだ。彼とはいろいろあったがこの度の件では恩もある。ロックは感謝の言葉を告げた。
「ありがとうございました、殿下」
「妹と話せたようだな」
「おかげさまで楽しくお話ししたよ」
「そのようだ」
笑い声でも聞こえていたのだろうか。ヴァレッドは心得た様子でうなづくと、先に立って階段を下りはじめる。
「マティウス伯が城の外で待っているのだったな。そこまで案内しよう」
ロックは彼の後に続いて螺旋階段を下る。
外はもう日が傾き、尖塔の小窓からは飴色の陽が射し込んでいた。家に帰りつく頃にはすっかり夜になっていることだろう。
「妹のために花嫁衣裳を仕立ててくれたこと、礼を言おう」
ヴァレッドが振り向かずにそう言って、ロックは思わず目をしばたたかせる。
かつて店まで乗り込んできた彼に礼を言われるとは思いもしなかったが、ここで皮肉を返す気分にはなれなかった。
「いや……僕のほうこそ、リウィア殿下に選んでいただけて光栄だった」
「光栄? 妹にはよそよそしい言葉を使わないでもらいたい」
甲冑を着た肩をすくめるヴァレッドに、内心もっともだとロックも思う。
彼女にはそんな言葉を使いたくない。純粋にうれしく、そして一方で寂しくもあった。
「これからしばらくは城に通ってもらう。あの花嫁衣裳を妹の身体に合わせてもらわねばならぬからな。まあ、そのあたりの話は追々するとしよう。今は妹が笑顔を取り戻してくれた、そのことに感謝している」
ヴァレッドは妹のこととなると饒舌なようだ。ほんのわずかにではあるが声を弾ませた様子に、ロックは意外なものを見た気分だった。
思わず、彼に告げた。
「殿下、余計なお世話かもしれないけど――」
「なんだ」
「妹君とは、今のうちにたくさんお話をしておきなよ」
やり方の是非はさておき、彼が妹を大切に思っていることは間違いない。少なくとも『何もできなかった』などと嘆くことはないはずだ。
そう思っての進言だったが、ヴァレッドもわかってはいるのだろう。一瞬黙ってから、うなづいた。
「ああ、そうしよう……」
城を後にしたロックは、その前庭でマティウス家の馬車を見つけた。
馬車の傍らには待ちぼうけのエベルとイニエルがいたが、ふたりはすぐにロックに気づいて、軽く手を振ってくれた。
ロックも笑顔で手を振り返す。報告したい話がある。いい知らせだ。エベルにはもちろん、家に帰ったら父にも早く知らせたい。跳び上がって喜びたい気持ちももちろんあった。
だが一度立ち止まって、そびえ立つ城を見上げた。
来た時とは違う思いが胸を過ぎる。
ロックは仕立て屋として最高の名誉を手に入れた。
ヴァレッドに言われたとおり、これからは忙しくなる。リウィアの婚礼の日まではきっと目まぐるしく日々が過ぎていくことだろう。感傷を抱えていられるのも今のうちだけで、直にそんな暇もなくなる。
今までと同じように前に進むしかない。
貧民街の仕立て屋として、ロックは最後の大仕事を迎えていた。
それを終えた先に待っているのは、今生の別れだ。