『彼』の最後の大仕事(3)
早朝の帝都を、一台の馬車がゆっくりと進んでいた。車体に描かれているのはマティウス家の紋章、そして御者はイニエルだ。しかしながら彼はこの度の任務にそれなりの重圧を感じているらしく、いつになくしかつめらしい顔つきで手綱を握っている。
馬車の中にはロックとエベルが並んで座り、そしてもうひとつ。
大きな箱にしまわれた、とても大切な積み荷がある。
「もう昨夜はさんざん脅しをかけられましたからね」
と、イニエルはロックを載せる前にぼやいていた。
「ヨハンナだけならいつものことですが、ルドヴィクスも、カートもですよ! 俺の今日の運搬がロック様の命運を左右するからと耳が痛くなるほど繰り返されて……そんなこと、俺が一番心得ているっていうのにです!」
どうやら他の使用人たちから、ずいぶんじっくりと言い含められたようだ。
「私は君を信用している。気負わずいつもどおりに手綱を取ってくれ」
エベルが穏やかに宥めると、イニエルはようやく表情をゆるめた。
「そう言ってくださるのは閣下だけです……!」
とは言え彼らの言動は、裏を返せば今日への期待、そして成功を祈る気持ちから来るものだとロックはわかっている。
ロック自身、馬車に乗り込む時はいささか緊張していた。
「今日はよろしくお願いしますね、イニエル」
ようやくそれだけ挨拶をすれば、逆にイニエルから気づかわしげに笑いかけられた。
「ええ。城までの道は整備されていて走りやすいですから、くつろいでお過ごしください」
だが今現在馬車に揺られているロックは、くつろぎからは程遠い状況にあった。
背筋を伸ばして膝の上に手を置き、表情はやや硬直している。それでいて視線は落ち着きなく足元をうろうろしており、何度か溜息もついた。
「少し、肩の力を抜いてはどうだろう」
隣に座るエベルが、見かねて顔を覗き込んでくるほどだった。
そしてそれにもぎこちない笑みしか返せない。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
「緊張しているみたいだな」
「ええ、それはもう……」
何せ城に行くのは初めてだ。
推薦人としてエベルが付き添ってくれるとは言え、今日の彼は儀礼用の正装を着込んでいる。普段は見ないその姿が非日常感を掻き立て、ロックの緊張をさらに高まらせた。
自分は変にめかしこまず、普段の仕事着を着てきてよかったと思う。これでロックまで正装していたら緊張しすぎて歩くこともできなくなりそうだ。
皇帝の居城はこれまで何度か見かけていた。
帝都の中心にそびえたつ白亜の城は、夕刻も夜明けも日中も、いつ何時見ても荘厳で美しかった。尖塔は天を突くほど高く、石壁は隙間なく積み上げられて何百年と崩れることもなく、人の手であれだけの大きな建物が築かれたことにロックは感嘆さえ覚えている。
だが一方で、あの城を景色の一部として現実味なく捉えていたのも事実だった。美しいあの城の中にも暮らす人がいること、他でもない皇女リウィアがそこに住んでいることを、ロックはまだ想像することすらできない。
そして今日、あの中に自分が招かれ、踏み込み、仕立て屋としての晴れ舞台に立つ。
誇らしさと喜びと重圧。それら全てが今、ロックの肩にのしかかっていた。
そんなロックの緊張をほぐそうとしてか、エベルが微笑んで話しかけてくる。
「フィービ殿とは話をしたのか?」
「いえ、今朝はほとんど……一緒に店まで行って、挨拶をしただけです」
父は花嫁衣裳を馬車に積み込む手伝いをしてくれた。
いつもなら店に行く時はしっかり化粧をしてドレスをまとうのに、今日は男物の服を着て、紅も引かずに出かけた。そして出発するロックに、短く言葉をかけてくれた。
『行ってこい。気をつけてな』
『うん』
父娘の会話はそれだけだった。
「ここまで来たら父さんには、もう話しておくこともないなって」
ロックははにかみながらエベルに打ち明ける。
「父さんもきっと、結果のほうを知りたいでしょうから。僕にできることはさっさとお城に行って、力を尽くして、そしていい知らせを持ち帰ることだって思ったんです」
「そうだな、私もそう思う」
エベルは深々と首肯した。
「そしてあなたなら、必ずやいい知らせを持ち帰ることができるだろう」
彼の手がゆっくりと、震えるロックの手に重ねられる。
石膏細工のように美しい手から、心地よい温もりが伝わる。その温かさが緊張を抑え込もうと必死の心を包んでくれた。
「ええ、僕も願ってます」
支えてくれる人がいる幸いを噛み締め、ロックはうなづく。
それから面を上げれば、目が合ったとたんにエベルが怪訝そうにした。
「昨夜は眠れなかったように見えるな」
「顔に出てますか?」
図星だったので笑うしかない。
昨夜は早めに寝るようフィービには言われ、実際いつもより早めに寝台に入った。ところが横になってもなかなか眠れず、何度も寝返りを打ち、結局まんじりともせず朝を迎えた。朝になればなったでたちまち緊張を覚え、父が用意してくれた朝食もあまり喉を通らなかったほどだ。
しかしロックの視線の先で、エベルもまた重そうな瞼をしている。目の下には薄くだが隈もできており、彼もまた眠れぬ夜を過ごしたことがわかった。
「なんだ、エベルも寝てないんですね」
「ばれてしまったか」
ロックの指摘に、エベルは開き直ったように笑んだ。
「あなたの晴れ舞台ともなればな。興奮して、ちっとも寝つけなかった」
「興奮ですか? 心配とかじゃなくて?」
「心配はない。私のロクシーは必ずや成功を収めるだろう」
彼は全く疑わぬ口調で断言してみせる。
ロックも自分の仕事について今さら不安は覚えていない。花嫁衣裳の仕立てに関してはできることの全てを費やし、自分の持ちうる力の全てを注ぎ込んだ。そう胸を張って言える。
不安があるとすれば、それはやはり『彼女』についてのことだけだ。
馬車は商業地区を抜け、美しい門をくぐった先に広がる貴族特区へと差しかかる。
城が近づきつつあることを窓から確かめた後、ロックは切り出した。
「僕の心配は、ユリアのことだけです」
エベルもそれはわかっているのだろう。案じるように眉尻を下げた。
「実質、初対面のようなものだからな……」
「はい。何を話そうか、ずっと考えてたんですけど……」
考えていたが、何も思い浮かばなかった。
ロックには彼女と過ごした記憶が何もない。エベルやフィービ、それにヴァレッドから話は聞いたが、ユリアなる友人がいたという事実は飲み込めても記憶が戻ってくることはなかった。
そしてヴァレッドの話を聞く限り、ユリアは友人を失って嘆き悲しんでいる。恐らくは罪悪感にも苛まれていることだろう。
そんな彼女に、自分はなんと言葉をかければいいのだろう。
「うまく話せるかわからないんです。そもそも相手は皇女様だし、普通に話しかけるのだっていけないでしょうけど、それでももしお話ができたら――」
話せたら、何を話そう。
一晩書けて考えてみたが、どうしても答えを出せなかった。
「彼女と何を話すか、か……」
エベルが目を伏せる。
眉間に少ししわを寄せ、彼は何かを考えているようだ。悩ましげなその表情すら端整で美しく、ロックはしばし黙って見とれた。
皇帝の居城と同じく、彼の造形もまた奇跡の所業と思えて仕方がない。もしもエベルが優れた芸術家の作品だったなら、ロックはその作り手に惜しみない称賛を贈るだろう。
「私は、ヴァレッド殿下のお言葉について考えていた」
やがて、エベルが目を開いた。
顎に手を当て、視線は少し遠くを見つめながら、すぐ隣にいるロックに語りかけてくる。
「覚えているか。殿下は、それに皇女殿下も祝福を受けた身だと仰っていた」
「ええ」
それがロックの記憶を消した力なのだろうし、ヴァレッドやリウィアを穏やかな暮らしから遠ざけている。少なくともヴァレッドはそう言っていた。
「そして私もまた同じだと、そうも仰っていたな」
エベルは静かに続ける。
「確かに私は呪われた身だ。ヴァレッド殿下やリウィア殿下が人智を超えた力を得ていることもわかっているし、それによって失くしたものがあることも私と同じなのだろう」
そこで金色の瞳がロックのほうへ向けられた。
かつては違う色をしていたその瞳は、それでも慈しむように、労わるようにロックを見つめてくれる。
「だが、考えてみたのだ。そのような不幸は我々だけなのだろうかと」
「え……?」
「呪いにせよ祝福にせよ、我々の意思が及ばぬ得体の知れない力には違いない。私はそれを欲しいと望んだ覚えはないが、与えられてしまった」
目をしばたたかせるロックに、エベルは尚も語りかけてくる。
「それは全ての人が持つ才能、あるいは長所、あるいは短所と同じではないか。ふと、そう思った」
彼が切り出した話は、ロックには少し突飛に思えた。
人狼のおぞましき呪いが、人の長所や短所と同じだと、そんなふうに言い切ってもいいのだろうか。
ロックの困惑を見て取ったのだろう。エベルは金色の瞳を柔らかく細めた。
「ロクシー、あなたには仕立ての才能がある」
「そんな、才能ってほどではないですけど……」
「フィービ殿には剣の才能がある。まああの方は、もっとたくさんの才に恵まれているようだが」
それはうなづけた。父には化粧が似合うほどの美貌と優れた身体能力、それに料理の腕まである。頭だって切れる。父が与えられた数々の才は祝福と呼んでも差し支えないほどだ。
だがそんな父にさえ、どれだけ望んでも手に入らなかったものがある。
「人にはそれぞれ才能があり、長所がある。そして同じように短所があり、不得手だってあるものだ。誰しもが生まれた時から平等ではなく、それぞれにあるものとないものを抱えて生きている。初めは持っていたのに、後から失うものだってあるだろう」
エベルは確信を得たようにロックを見つめている。
「少し前に話したな。私は人狼の呪いを受けた時、日陰の道を生きるのだと覚悟した。恐らく真っ当な生涯は送れまいと思ったし、父も同じように思い、絶望したはずだ」
先代のマティウス伯は己の過失から、息子に人狼の呪いをかけた。
そのことを嘆き悲しみながら亡くなったと、過去に聞いたことがある。
「だが私はこれまで幸福な生涯を歩んできた。呪いが疎ましいと思ったことは何度もあるが、それでもこの人生を不幸だと言ったら多くの人から非難されるだろう」
エベルが力強く微笑むから、ロックは黙って彼の手を握り返した。
強く繋がれた手を見下ろし、それからエベルはまたロックを見つめる。
「だから私の呪いなど、特別不幸なものでもないのだろう。誰しもが抱える短所や悩み、持ち得なかったもの、与えられなかったもの――そういうものときっと同じだ。誰もが祝福され、呪われ、時に嘆き、時に幸福を噛み締めながら生きていく。私も、あなたも、皇女殿下も、それに他の多くの人々も、皆が似たようなものだ」
最初は突飛な話だと思って聞いていた。
だが聞いていくうちに、ロックの中でも腑に落ちるものがあった。
祝福も呪いも、人が持つ長所や短所と大差ない。呪われたからといって不幸になるわけではないということは、エベルやグイドやアレクタス卿が証明している。もちろん呪いを抱え、隠して生きていくのは楽なことでもないだろうが、でもそれだって人狼の呪いに限ったことではない。
「何を得ようと何を失おうと、大切なのはどう生きるかだ」
エベルはロックの目を見つめて、問いかけた。
「そう思わないか、ロクシー」
金色の瞳は揺らぐことなく真摯で、情熱的だ。その目に見つめられることを誇らしくさえ思う。
「……ええ。思います」
ロックはためらわずうなづいた。
彼の呪いはずっと解けないままだ。このまま生涯背負わなくてはいけないものなのかもしれない。だがそうであったとしてもエベルは人狼の呪いと、これまでどおり上手く付き合っていくことだろう。
ロックはそんな彼と彼の呪いに、生涯付き合う覚悟があった。
「皇女殿下にも、そうお伝えできたらいいと思います」
そんなふうにロックは思う。
「あなたの祝福の力が僕らを引き裂いたわけではないって。たとえ記憶を消されても、僕はこうしてお会いしに来たんだって伝えたいです」
彼女の受けた祝福も、人が得る才能と同じだ。誰もが抱える悩みや苦労とも、きっと一緒だ。
そのせいで友を失ったと、彼女には――ユリアには思ってほしくない。
以前のようには話せなくても、記憶が戻らないままでも、ロックはとうとう彼女に会いに来たのだ。
ふいに馬車がゆっくりと停まり、ロックは窓から外を覗いた。
城門の前で衛兵が馬車を停めたようだ。エベルが出ていくとロックの身元は保証されたが、花嫁衣裳の入った箱は念のためと検められた。
馬車を降りたロックは、首が痛くなるほど高い白亜の城を見上げる。
彼女はどこにいるだろう。目をすがめてみたが、たくさんある窓からその姿を見つめることはできなかった。