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『彼』の最後の大仕事(2)

 窓の外は白々と夜が明けはじめていた。
「すまなかった」
 ぽつりと、ヴァレッドが言った。
 彼が謝罪の言葉を口にしたのは初めてだ。顔色が蒼白なのは罪悪感のせいだろうか。ロックも罵るほどの気力はすでになく、一言ぼやくのが精いっぱいだった。
「今さら謝られたって――」
「私はリウィアに暴漢をけしかけた。お前に会いに行くのをやめさせるためだ」
 だがヴァレッドが驚くべき話を続けたため、ロックは目をみはった。
「殿下、どういうことです」
 エベルが眉をひそめて口を挟む。
 どうやら彼も知らない出来事のようだが、それがロックの記憶が消されたことと関わりがあるのだろうか。
「妹がたびたび城を抜け出していたことも、誰と会っていたのかも、私は早い段階で把握していた」
 ヴァレッドは力なくうなだれつつ答えた。
「私は何度も止めた。妹には自らの身を守る力があったが、その力とて万能ではない。もしもその身に危機が及べば嫁入りの話自体が危うくなる。何度もそう警告し、父上の耳にも入れたが、妹は聞く耳持たずだ。その後も城を抜け出しては街をふらつき、壁の外にいるロック・フロリアに会いに通っていた」
 妹の身を案じる彼の気持ちもわからなくはない。
 だがそうまでして城の外の友人に何かを求めていたリウィアにも、彼女なりの言い分があったはずだ。言わなかったのか、言えなかったのかは定かではないが、彼女は兄を説得しようとはしなかったらしい。
「やむなく私は強硬手段に出た。妹も少々危険な目に遭えば考えを改めるだろうと、人を雇い、襲わせた」
「うわ、最低」
 フィービが野太い声で毒づく。
 ヴァレッドはいたたまれない顔をしながらもさらに続けた。
「妹には記憶を消す以外に『人に見つからない』という力がある。すぐ目の前にいてもその気配すら気取らせず、ずっと潜んでいられる力だ。だがその力も人と会う時には不要のものとなる。つまり暴漢が妹を見つける時、その時にはロック・フロリアが傍にいるだろうと私は踏んでいた」
「じゃあ……もしかして、その時に僕の記憶を消した?」
 ロックもぴんと来て、思わず尋ねた。
 一瞬の間を置きヴァレッドがうなづく。
「だが誤算があった。暴漢にさらわれかけた時、妹はお前を見捨てなかった。自分ひとりなら気配を消し、その場を難なく逃げ出すことができたはずなのに、そうしなかったのだ」
 その時、詳細に何が起きたかを思い出すことはもうできない。
 しかしリウィアが危機に瀕しても自分を見捨てなかったという事実が、ロックの胸を締めつけた。
「やむなく私が出ていき、自ら雇った暴漢を片づけ、リウィアに記憶を消させるよう仕向けた。私がお前を消すか、自分の手でお前の記憶を消すかを選ばせた。どちらを選んだかは言うまでもあるまい」
 彼の口ぶりからは後悔の色も垣間見えたが、一方で譲らぬ決意のようなものも感じられた。もしもロックが本当に男だったなら、ヴァレッドは一切後悔しなかったのだろう。本人の言うとおり、ロックを殺すことだって平気でやってのけたはずだ。
「本当に最低だ」
 ロックが唸ると、エベルも黙って首肯する。
 フィービは何か察するところがあったようで、ヴァレッドを見下ろし尋ねた。
「うちの子をパン屋の前に放り出したのがその時ね?」
 また間を置いてから答えがあった。
「そうだ」
「なるほどね……あんたが雇った暴漢ってのも見たわよ。利用するだけして、帝都から追い出したみたいね」

 ロックの中でもようやく、あの日の出来事が繋がった。
 パン屋の前で倒れていたところをニーシャに発見された、その直前にロックはリウィアによって記憶を消されていたのだ。
 朝、店の鍵を開けた後の記憶が何もなかったのもそういう経緯なら理解できる。
 その後、駆けつけてきたフィービはそういえば『怪しい男たちを見た』と言っていた。
 全てはヴァレッドが仕組み、そして自ら片づけた自作自演の出来事だったのだ。

 合点がいったロックは、深々と溜息をつく。
「僕、相当ひどい目に遭ってたみたいだね」
 何も覚えてはいないが、暴漢が現れた時はきっと震え上がったに違いない。傍にリウィアがいたなら彼女を守らなくてはと思っただろうし、だが非力な自分にできることと言えば彼女の手を引いて逃げることくらいだっただろう。
 結果としてロックはむしろ彼女に守られた。そして記憶を失った。
「僕の記憶、やっぱり元に戻してもらうことはできないの?」
「あいにくだが、術はない」
 ヴァレッドは、今度は素早く答える。
 気まずさからか目を背けてはいたが、苦渋の表情がちらりと見えた。
「だが、埋め合わせと言うと直截的だが、お前のために便宜を払ってやることはできる」
「便宜って?」
「妹に会わせてやる。他の仕立て屋よりも先にだ」
 そう言うとヴァレッドは面を上げ、懇願するような口調でロックに訴える。
「この縄を解いて私を無事に解放してくれるなら、私はお前のために最大限の尽力をしよう。本来なら限られた者しか許されない拝謁の場を設けてやってもいいし、お前の仕立てた花嫁衣裳が選ばれるよう妹に口を利いてやってもいい。望むなら他の仕立て屋の妨害だってしてやろう」
 居丈高な態度ではあるが、要は命乞いということだろう。
 無論ロックにヴァレッドを殺すつもりはない。フィービとエベルにだってない、はずだ。
 だが。
「そんな尽力なんて要らないよ」
 きっぱりと、ロックは答える。
「僕は自力で会いに行くって決めたんだ。もう花嫁衣裳は仕立ててある、あれを皇女殿下に見ていただくって決心したんだ。あんたに口利きなんてされたら、せっかくの花嫁衣裳にけちがつくじゃないか」
 ヴァレッドが無言で唇を引き結んだ。
 ロックはそんな彼に首をすくめた。
「頼まれなくても、僕らはあんたを解放するよ」
「あら、いいの?」
 口を挟んできたフィービはどこか不満げだ。
 とは言え本気で皇子をどうこうするつもりもないだろうと、ロックは苦笑する。
「皇子様なんて人質に取っても活かせそうにないしね」
 むしろ余計な危機と苦労を背負い込むだけだろう。
 ロックがヴァレッドに頼みたいことはひとつだけだ。
「あんたは僕の邪魔をしなければ、それでいい。僕らが花嫁衣裳を皇女様の元へ届ける、その妨害はしないって約束してくれるだけでいいよ」
「本当に、それだけでいいのか?」
 ヴァレッドは半信半疑の様子で聞き返す。
「お前が望むなら衣裳を決めるより先に、リウィアに会わせてやることだってできるのだぞ」
「いいってば。僕は自信があるんだ」
「では本当に、何の見返りも要らないと?」
「そう言ってる」
「この店の修繕費やだめにした商品の弁償もか?」
「いやそれは要る! ちゃんと払ってもらうよ何言ってんだ!」
 当然の賠償に関しては譲れなかったが、その他の申し出は全て拒み、ロックはヴァレッドを解放することにした。

 フィービが縄を解いてやると、ヴァレッドは手首をさすりながら立ち上がる。
 ずっと座らされていたせいか足元を一瞬ふらつかせたが、歩くのに問題はなさそうだ。
「我々の今宵の記憶も消してしまわれるおつもりですか?」
 まだ声に棘を残したエベルが尋ねる。
 するとヴァレッドはゆっくりかぶりを振った。
「妹の婚礼が済むまでは。そうでなければ約束も果たせぬし、リウィアには……合わせる顔がますますなくなる」
「皇女殿下には、真相は? 話されないのでしょう?」
「言えるわけがない……勘違いの末に、友の記憶を消させたなどと……」
 ヴァレッドは痛みをこらえる表情でうめく。
 彼のやったことは許されないが、哀れだともロックは思う。自分を男と見間違うのは仕方のないことだし、リウィアが大切な結婚を控えているとなれば強硬手段に出たのも、共感はしないが理解はできる。
 だがもし自分に記憶が残っていたら、『ユリア』と過ごした時間のことをちゃんと覚えた上で真実に触れていたら、ロックはヴァレッドにもっと激しい怒りを抱いていただろう。そういう感情を抱く機会さえ彼によって奪われてしまった。
 決して許すことはできない。
「しかし、皇子様も皇女様も便利なお力をお持ちなのねえ」
 店を去ろうとするヴァレッドに、フィービは皮肉めいた言葉を投げかける。
「おかげで散々な目に遭ったし、苦戦もさせられたわ。再戦がないことを祈るわね」
「約束は守る」
 短い言葉で、ヴァレッドはフィービの言葉を肯定した。
 それから忌々しげに顔をしかめてみせる。
「私も妹も祝福を受けた身だ。その力は確かに便利だが、それゆえに災いを呼び、穏やかには生きられぬ運命と共にある」
「祝福……?」
 聞き覚えのある単語を、ロックは密かに反芻した。
 人狼教団でカートが口にしていたのと同じ言葉だ。
「祝福とは呪いと同じだ。ひとたび受ければ、安寧は遠ざかる」
 そう言うとヴァレッドはエベルに目を向け、同情を乞うように尋ねる。
「貴殿はよくご存じだろう、マティウス伯」
 エベルはその眼差しを真っ向から撥ねつけた。そして言い切った。
「お言葉ですが、私は安らぎを得ております。たとえ呪われた身でも」
 彼はロックのほうを振り返り、金色の目を細める。
 ロックが笑顔でうなづき返すと、ヴァレッドは嘆息し、そのままドアの壊れた戸口から店を出ていった。

 その後、ロックたちはまず店の片づけを行った。
 散らかっていた床からつぶれた帽子を拾い、飛び散った血痕は雑巾できれいに拭き清めた。壊れてしまった入り口のドアだけはどうしようもなく、一旦外して立てかけておいた。後ほど大工を呼んで直してもらう予定だった。
「本当に殿下、弁償してくれるのかなあ」
 口約束に今さら不安を覚えたロックのぼやきに、エベルが微苦笑を浮かべる。
「我々の記憶はまだ残っている。信用してもいいはずだ」
「今だけかもしれませんよ、あと少ししたら忘れてしまうかも」
「そうなった時のために、何かに書き留めておくほうがいいかもな」
 もっともだと思ったので、ロックは帳簿にヴァレッドから弁償してもらう旨をしっかり書き留めておいた。無論『殿下』とは記さなかった。
 それを見守るエベルが、ふと表情を曇らせる。
「今までにもこんなことがあったのかもしれないな。知らぬうちに記憶を消され、なかったことにされた出来事が。我々が『忘れてしまった』物事のどれほどが自然な忘却だったのか、今となっては判別しがたい」
 ロックはなんとも言えない気持ちになった。
 リウィアが機転を利かせてくれなければ、自分の記憶喪失もまた病気か何かで済まされていたのかもしれない。そういう出来事が一度や二度ではないとなれば、何もかもを疑ってかかりたくなる。
「いつだって下々の民はお上の思うがままってことよ」
 若者ふたりの憂鬱をよそに、フィービは気だるげにあくびをした。
「忘れてしまったことを取り戻せないっていうんなら、未来に生きるしかないじゃない。とりあえずあたしはお腹が空いたわ」
 それでロックもにわかに空腹を覚え、気持ちを切り替えて応じる。
「ジャスティアのとこ寄って何か出してもらおうよ。もう店にいると思うし」
 外はすっかり明るくなっていた。
 パン屋の朝は早い。今は仕込みの時間のはずだが、頼めば昨夜焼いたパンなどを出してくれるだろう。
「エベルはどうします?」
「ご相伴しよう。このまま帰っても空腹で眠れなさそうだ」
 彼が困り切った様子でお腹を押さえたので、ロックはようやく声を立てて笑った。
 長い夜がようやく明けた。ずいぶんと物騒で血なまぐさい夜になったが、それでも朝はやってくる。陽の光が店の中を照らしはじめると、くたくただったロックの心もいくらか癒えていくようだった。

 数日後、ロックの元に手紙が届いた。
 花嫁衣裳を持参し、他の仕立て屋たちと共に城へ来るように、との知らせだった。
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