『彼』の最後の大仕事(4)
ロックとエベルは無事、城への立ち入りを許された。ふたりが案内されたのは城の貴賓室で、花嫁衣裳の入った箱も、兵士たちによって同じ部屋に運び込まれている。
貴賓室は本来、城に招かれた貴族のみが立ち入れる部屋だ。
貧民街暮らしのロックはもちろん、商業地区の仕立て屋たちも入ることができない居館にあったが、皇女は彼らをそこへ招いた。彼らが仕立てた花嫁衣裳を貴賓室に並べ、皇女自らが品定めをするそうだ。
そんな儀式の場にふさわしいのかどうか、貴賓室はさすがの豪奢さでロックたちを出迎えた。
広さだけでもロックの店の五倍はあり、高い天井から吊り下げられたシャンデリアは目が眩むような輝きを放っている。美しい大理石の暖炉に天鵞絨張りの椅子、黄金で縁取られた姿見や瞳に宝石を填め込んだ彫像など、金のかかっていそうな調度の数々にめまいがする。伝統模様が織り込まれた絨毯はあまりにもふかふかしていて、中へ進み出たロックの足元を覚束なくさせた。
ふたりが室内に足を踏み入れた時、貴賓室にはすでに十数人の先客と、数個の大きな箱が置かれていた。
先客たちはその箱の中身を気にしたり、貴賓室を自由に見て回ったり、あるいは数人の集団でおしゃべりに興じていたようだ。だがロックたちが現れると、和やかな空気は一転し緊張が走った。
先客たちから一斉に向けられた視線に、ロックは思わず足を止めた。
隣でエベルが苦笑している。
「物珍しがられるのは致し方ない。気にしないでおこう」
彼の言うとおり、向けられているのはどちらかといえば好奇の眼差しだった。いくらかは軽蔑や異質なものへの警戒心もあったようだが、帝都の中では見かけることのない仕立て屋の登場に、皆が興味を抱いているのも事実らしい。
ロックはエベルの忠告どおり、向けられた視線を気にしないよう努めた。
ここまで来て臆しているとは思われたくない。精一杯胸を張っておく。
と、貴賓室の中にいたひとりの男が、集団から抜けだしてロックたちに近づいた。
居合わせた人々をどよめかせつつ歩み寄ってきたその人物を見て、エベルがロックにささやく。
「マウロ・フォーティス。フォーティス服飾店の筆頭職人だ」
フォーティス服飾店と言えば帝都でも五本の指に入ると言われている仕立て屋だ。彼が皇女の花嫁衣裳の仕立て屋として名乗りを挙げたことはロックも知っていた。
実を言えば一度だけ顔を見たことがある。
エベルに連れられてフォーティス服飾店を覗きに行った際、ロックは店員に寄り添われて七つも八つも帽子をかぶらされたのだが、その時にわざわざ挨拶をしに来たのが彼だった。伯爵閣下のご来店とあっては筆頭職人も顔を出さないわけにはいかなかったのだろう。
記憶はややおぼろげだったが、品のいい中年男だというのは覚えていた。その印象のとおりの笑みを浮かべ、マウロ・フォーティスが一礼する。
「マティウス伯爵閣下、お久しゅうございます」
「ああ」
エベルが顎を引くと、マウロは隣に立つロックに目を向けた。
「こちらの方が、閣下がご推薦なさったという仕立て屋ですね」
すかさずロックもお辞儀をする。
「ロック・フロリアと申します。フォーティス服飾店のご評判はかねがね伺っておりまして、お会いできて光栄です」
「これはこれはご丁寧に」
マウロは一度微笑んだが、その後は少し戸惑った様子で続けた。
「しかし、あなたはずいぶんとお若い方だ。まるで少年……のようです」
言葉を選んだのは、ロックの性別を一見して読み取れなかったからだろう。
今日のロックはいつもの仕立て屋の服を着ている。男装する必要は特になかったのだが、いつもの格好のほうが緊張しないだろうと思ったのだ。
「若くして才能ある仕立て屋だ」
エベルはそんなふうにロックのことを紹介してくれた。
「この度の花嫁衣裳も最高のものを仕立てた。ぜひあなたにも見てもらいたいと思うよ」
「それは楽しみでございます」
伯爵の絶賛を聞き、マウロは穏やかに微笑む。
強者が見せる余裕の笑みだ。ロックは緊張が顔に出ないよう、密かに深呼吸をした。
その時、貴賓室のドアがまた開いて、ガウンを羽織った執政が現れるなり声を張り上げた。
「リウィア皇女殿下がいらっしゃいました!」
その一声を聞き、ロックもエベルもマウロ・フォーティスも、三人の会話を見守っていた他の人々も、まるで弾かれたように戸口のほうを見た。
先にやって来たのは甲冑に身を包んだ城の衛兵が六人ほど。
そして彼らの後に、皇女リウィアの姿があった。
熟した木苺の色をした髪、灰色の瞳、まだあどけなさを残した愛らしい顔立ちだが、貴賓室の中へ進み出てくる姿勢のよさには皇女の風格がすでにある。白い古風なドレスに身を包んだ彼女は、貴賓室の中央で立ち止まると、室内をぐるりと見回した。
ロックも彼女を見ていたから、程なくして目が合った。
「――っ」
かすかに息を呑むのが聞こえ、リウィアが灰色の瞳を瞠る。
だがすぐに目を逸らし、背筋を伸ばして皆へと告げた。
「わたくしのために今日集まってくれたことを、とてもうれしく思います」
震えのない、堂々たる少女の声だ。
「これより品評会をはじめます。あなたがたが仕立てた最高のドレスを、どうぞわたくしに見せてください。最も美しいと思えたドレスに、わたくしの花嫁衣裳となる栄誉を与えましょう」
その横顔に動揺の色はすでにない。
ロックは喜びと落胆の両方を味わっていた。
リウィアが自分のことを覚えてくれていた、気づいてくれたことはうれしかったが、自分には彼女の記憶がやはりなかった。
もしかしたら、顔を見れば思い出すこともあるかもしれない。そんな淡い期待はあっさりと潰えた。リウィアの容姿はエベルが話してくれたとおりだったが、それでも、どうしても見覚えのないものだった。
エベルが気遣うようにロックを見る。
ロックは少しだけ笑って、彼と自分自身を勇気づけた。
何も覚えていなくても、ここまで来ればやるべきことはひとつだけだ。
リウィアは衛兵を従えながら、貴賓室に置かれた花嫁衣裳を一着ずつ見て回った。
仕立て屋たちは持参した箱からドレスを取り出し、皇女の前に差し出すように披露する。めいめいが心と持てうる技術の全てを尽くしただけあり、どのドレスも文句なしに美しいものだった。仕立て屋たちがそのドレスについて説明すれば、リウィアは静かに微笑んでそれに聞き入った。
中でもマウロ・フォーティスが手がけたドレスは、貴賓室にいた人々が溜息をつくほどの出来映えだった。絹でできた薄紅色のドレスは最新流行を取り入れた瑞々しい意匠で、控えめな表情を取りがちだったリウィアもこれには目を輝かせたほどだ。
「まあ素敵……! こちらが市井の流行の型かしら?」
「畏れ入ります。仰るとおり、最新流行の型のドレスでございます」
「わたくし、こんな型は着たことがないわ。勇気が要るわね」
「殿下にお召しいただければ、このドレスもさぞや美しく映えることでしょう」
実際、彼女ならここに並べられたどの花嫁衣裳も着こなすことだろう。
姿勢よく歩く姿には威厳があり、それでいて仕種のひとつひとつに気品もある。彼女に似合わぬドレスなど、ここにはないだろうとロックは思う。
それでも。
ロックは彼女に、自分の仕立てたドレスを着てほしいと望んでいる。
ずっとあの図面と、エベルが話してくれた情報だけを頼りにあのドレスを手がけてきた。記憶が戻らなくても、一心に信じてきたものがあった。今やロックは確信している。
あのドレスはリウィアが袖を通して初めて、本当に完成したと言えるだろう。
リウィアはひととおりドレスを見て回った後、一番最後にロックの前へやって来た。
最後になったのは、単に仕立て屋たちの中でロックの到着が遅かったからというだけだ。だがリウィアには思うところがあったようで、近づいてくる表情は硬く、こわばっている。
「――マティウス伯」
彼女はロックより先に、エベルに声をかけた。にらむような目つきからは後ろめたさがありありと浮かんでいて、彼女の心が揺れているのも見て取れる。
「どうしてあなたは……ロックをここへ連れてきたのです?」
声を潜めて尋ねる皇女に、エベルは敢然とかぶりを振った。
「お言葉ですが殿下、ロック・フロリアは自身の意思でここへ参りました」
「ええ」
ロックは深くうなづく。
「皇女殿下にお会いするために、そして僕の仕立てたドレスを着ていただきたいと思い、このたび馳せ参じました。ご覧いただけますか、殿下」
「まさか、そんな……」
リウィアの顔からさっと血の気が引いたのがわかった。
何かを言いかけて、しかし飲み込んで、重々しく告げてくる。
「……見せてください」
それでロックは箱を開け、中から自分の仕立てたドレスを取り出した。
帝都の壁とこの城と、それに夜空を模した薄灰青のドレスに対し、居合わせた他の仕立て屋たちは様々な反応を見せた。美しさを純粋に称賛する者もいれば風変わりな意匠を笑う者もいたし、仕立てのよさを意外だと驚く者もいた。少なくともこの場に並べるのに不似合いなドレスではなく、ロックは自信を抱いてドレスの傍らに立った。
一方、リウィアはドレスを目にするなり動きを止めた。
まばたきもせず食い入るように見つめる瞳が、次第に涙で潤んでくるのが見えた。
「これは……」
次の瞬間、リウィアの顔には信じられないほど明るい笑みが浮かんだ。期待と希望に満ち満ちたその顔が、ロックのほうへ向けられる。
「ロック! あなた、覚えているの?」
当然、ロックは言葉に詰まった。
覚えていない。このドレスを作ろうと思った時のことも、その由来となったはずの出来事も、そして彼女と過ごした時間の全てを、自分は何も覚えていない。
正直に答えれば彼女を落胆させる。
わかっていても、そうするより他に術はなかった。
「申し訳ございません、殿下……」
せめて目は逸らさずに、ロックは答える。
「僕は何も……ただこのドレスの図案だけが残っていて、それを仕立てて参りました」
予想どおり、リウィアの顔は落胆の色に塗り替えられた。
灰色の瞳にまた涙がにじむ。それはすぐに雫となって零れ落ち、蒼白な頬を流れ落ちた。
「……ごめんなさい」
リウィアは絞り出すように、謝罪の言葉を口にした。
かと思うと踵を返し、貴賓室を飛び出していこうとする。
「殿下!」
「ど、どうなさいました? 殿下!」
ロックが叫び、城の執事があわただしくその後を追う。さらに数人の衛兵が後に続いたが、そこで扉は閉ざされた。
貴賓室は異様な空気に包まれた。誰もがロックに疑いの目を向けてきたが、一方で言葉を発する者はいなかった。身動きも取れぬまま、皆がその場で棒立ちになっていた。
ロックは愕然としていた。
このドレスを仕立てた理由、そして自分がここまで来た理由を彼女にどうしても話したかった。それを聞きさえすればリウィアも罪悪感に駆られる必要などないとわかるはずだ。なのに――。
何も、話せなかった。
程なくして、貴賓室には執政だけが戻ってきた。
「皇女殿下は体調を崩され、本日は休みたいとのことでございます。皆様の手がけた衣装は城で預かり、後ほど改めて殿下ご自身がご覧になり、選ばれるとのこと。皆様には結果をお知らせいたしますので、本日はお引き取りを……」
一方的にまくし立てる執政に、仕立て屋たちは釈然としない様子ながらも従った。
ぞろぞろと出ていく彼らはしきりに首をかしげ、そしてロックのほうを見てはひそひそと内緒話をしてみせる。
ロックはそれに、なんの反応もできなかった。ただ立ち尽くしているだけだ。
「我々もここは退こう」
エベルが無念そうに言い、そっとロックの肩を抱く。
「あなたのせいではない」
彼はそう言ってくれたが、本当にそうだろうか。
ロックがリウィアの前に現れること自体、彼女の傷口を広げる結果にしかならなかったのではないか。
だがあのまま自分が身を引いてどうなるという話でもあり、ではどうすればよかったのか、ロックにはまるでわからなかった。
それでも今は帰るしかない。ロックはエベルと共に貴賓室を出た。
そこへ、
「ロック・フロリア、そこで止まれ」
誰かが名指しで制止してきた。
振り向くと、甲冑に身を包んだ衛兵がふたりの後ろに立っている。
「お前は帰るな。一緒に来てもらおう」
面当てのせいで表情は見えないが、口調には有無を言わさぬ強さがあった。ロックは当然うろたえる。
「僕ですか!? な、なんで――」
だがそれを制するように、エベルが冷静につぶやく。
「聞き覚えのある声だ」
思わず目を見開いたロックの前で、衛兵は面当てを押し上げ、顔を晒した。
木苺色の髪と灰色の瞳、整えられた顎髭――現れたのはヴァレッドだ。
「ええ!?」
「なぜ、衛兵の格好を?」
驚くロックとエベルに対し、ヴァレッドは忌々しげな溜息をつく。
その後でこう告げてきた。
「騒ぐな。――妹に会わせてやる」