『彼』の最後の大仕事(1)
ヴァレッド殿下はエベルとフィービによって、店の柱に縛りつけられた。縄で念入りにぐるぐる巻きにされた上、手足を拘束された姿を見て、ロックは今さら恐れをなした。
「相手は皇子様だよ、大丈夫かな……」
不敬を通り越し、反逆罪と言われても仕方のない行為だ。この辺では警邏の市警隊もたるんだものだが、仮に職務熱心な希少種がこの場に踏み込んできたら皇女の花嫁衣裳どころではなくなるだろう。
もっとも、フィービはどこ吹く風だった。
「人の店でさんざん暴れといて何が皇子よ。弁償してもらうんだからね!」
父ならそう言うだろうとロックも内心思っていた。
大暴れの後で店の中はすっかり傷み、散らかっていたし、フィービもエベルもしこたま殴られ、ロックまで傷を負っている。裂かれたシャツの胸元は鮮血に染まり、傷の深さ以上に痛々しく見えた。
腹を立てているのはエベルも同じのようで、まだ人狼の姿でヴァレッドを睨みつけている。
「私の大切な人を傷つけた者は、何人であろうと許しはしない」
金色の瞳は怒りにぎらついていて、吐く息も戦いの余韻で荒々しい。普段ならつややかな毛並みはところどころに裂傷を作っており、彼も手当てが必要そうだった。
当のヴァレッドは、拘束されてもなお得心いかぬ様子でぼやいている。
「女だと? そんな話がありえるのか……ならば妹は本当に騙されていたことに……」
そこはロックも気になるところだ。自分はずっと男として『ユリア』に会っていたのだろうか。ヴァレッドはロックが彼女をたぶらかしたと思っているようだが、ロックにはそれが事実か確かめるための記憶すら残っていない。
再びエベルのほうを見ると、彼は三角の耳をぴんと立てて答えた。
「私の知る限り、皇女殿下はロック・フロリアが女だとご存知だったはずだ。あなたが女の格好をしている時に一度、顔を合わせている」
「そうなんですか」
「私とあなたで市警隊の詰め所へ行った時だ。おそらく、あなたはもう覚えていないだろうが」
エベルと共にそこへ行った記憶はあるし、その時女物の服を着ていったことも覚えている。皇女と出会ったかどうかは定かではないが、あの服を着ていて男と間違われることはまずないだろう。となれば、彼女はロックの性別を知っていたはずだ。
それにしても、ロックの中の皇女についての記憶だけがずいぶんきれいに抜け落ちたものだ。改めてその力の強大さに寒気がしたし、なんとも言えぬ寂しさも抱くロックだった。
「だったらヴァレッド殿下、全部あんたの勘違いってことじゃないの? ろくな確証もないのによくもここまでやってくれたわね」
フィービが吐き捨てると、ヴァレッドは悔しそうに歯噛みした。
「そんなはずはない! 私は――」
「まあいいわ。その辺の話は後でじっくり聞かせてもらうとして」
埒が明かないと思ったか、フィービはロックのほうを振り返る。
「皇子はふん縛ったし、先にあんたたちの手当てをしないとね。さすがにこの状態から逃げられやしないでしょ」
その読みどおり、ヴァレッドは放っておいてもそこから動かなかった。先程の戦いでは目にも留まらぬ動きを見せた彼だったが、縛りつけられていては身動きが取れないようだ。
幸いにしてロックの傷は浅く、鎖骨の下に赤い切り傷を作った程度だった。しかしエベルが助けてくれなければ致命傷になっていたかもしれないし、手当てをしてもらっても時折引きつるような痛みが走る。しばらくは腕を動かすたびにうめく羽目になりそうだ。
おまけに『フロリア衣料品店』は被害甚大だった。
帽子掛けに飾られていた売り物の帽子はいくつかが踏まれてだめになっていたし、壁際の棚もいくつか板が外れたり、欠けたり折れたりしている。床はそこかしこが傷み、入り口のドアは蝶番が外れて風にぷらぷら揺れていた。
試着室に隠された花嫁衣裳が無事だったことが、不幸中の幸いと言えるだろう。
ひとまずロックは裂かれた服を着替え、着衣を破いたエベルにも売り物の服を貸してあげた。
そして試着室から出てきた彼が落ち着きを取り戻したのを確認した後、再び店内の、縛り上げられたヴァレッドの前に進み出た。
ヴァレッドは三人が近づいてくる気配を察したようだ。忌々しそうに舌打ちをした。
「私がこの店を調べていることは父上もご存知だ。私を殺めればたやすく足がつくぞ」
「そんなことしないよ」
ロックは首をすくめたが、フィービはナイフを離さず応じる。
「殺しはしないけど、いくつか質問があるわ」
「誰が答えるか」
「答えなさい。あんた、妙な力を持ってるわね」
「答えるものかと言っている」
頑なに言い張るヴァレッドの頬に、フィービがナイフの刃を押しつけた。それが彼の皮膚を裂くことはなかったが、ヴァレッドは観念したように睨み返す。
「何が聞きたい」
「あんたも人の記憶を消せるのよね?」
まず、フィービが尋ねた。
ロックの記憶はリウィアが消した。先程ヴァレッドはそう言っていたはずだ。
しかしヴァレッドも以前この店に来ている。その記憶はロックにもフィービにもなく、注文書が記録として残っているだけだった。あの時は、誰がふたりの記憶を消したのだろう。
「ああ」
ヴァレッドはあっさりと認めた。
さんざん推測してきたこととは言え、改めて現実だと知ると衝撃的だった。目の前にいる、縛り上げられてもどこかふてぶてしい態度のこの男には、人の記憶を消してしまえる力がある。
と、そこでロックはふと疑問を覚えた。
「じゃあ、今はどうしてその力を使わないの?」
問われて、ヴァレッドがロックのほうを向く。
何も答えない。
「僕らからヴァレッド殿下の記憶を消しちゃえば、この状況下でもすんなり逃げられそうなものだけど」
ロックはそう続けた。
仮にここでヴァレッドのことをきれいさっぱり忘れたらどうなるだろう。
荒らされた店内と縛られた見知らぬ男を前にして、ロックたちが状況を把握できずにうろたえることは間違いない。その混乱に乗じて逃げ出すことはできそうだし、縛られているのは『店を荒らした強盗がやった、自分は巻き込まれただけ』とでも言えばいい。
そんなロックの考えは浅はかだったようで、無言のヴァレッドの代わりにフィービが答えた。
「あんたはともかく、あたしは目の前で柱に縛りつけられる男がただの哀れな被害者だとは考えないわ。たとえ記憶を消されてもね」
断言した後、ヴァレッドを縛る縄の結び目をナイフの切っ先で指した。
「それと、縛り方って案外癖が出るのよ。あたしがやったんだって見ればすぐに気づくわ」
「フィービ、そんなに縛り慣れてるの?」
ロックのさらなる疑問はさておき、ヴァレッドはフィービの発言に深い溜息をつく。
「お前は何者だ。マティウス伯はともかく、その口ぶりといい身のこなしといい、素人ではあるまい?」
「あたしはこの子の父親よ」
フィービは即答し、その答えはいくらかヴァレッドを驚かせたようだ。灰色の目を大きく見開いて唸った。
「ち、父親だと? 面妖な……」
「うるさいわね」
たちまちフィービが拗ねたように唇を尖らせた。
「あたしは娘に危機が迫ったら放っとけないし傷つけられたら我慢がならない、それだけよ」
「それは私とて同じことだ。私もリウィアのためにここへ来た」
ヴァレッドはフィービを、それからロックを順に睨む。
「妹がたぶらかされ、惑わされているのなら捨て置けぬ。ましてや妹に自分の仕立てた花嫁衣裳を着せたがっているなど非常識にもほどがある。どこまで妹の心をかき乱せば気が済むのだ」
「だから、僕が女だってリウィア殿下はご存知なんだってば」
ロックは反論の後、エベルのほうを振り返る。
「ですよね、エベル?」
すでに人の姿へ戻ったエベルは、金色の瞳を細めてうなづいた。
「間違いない。少なくとも殿下は、あなたが女物の服を着た姿をご覧になっている」
「では父親と同様の、女装趣味だと思ったのかもしれない!」
ヴァレッドは反論してきたが、エベルはかぶりを振った。
「皇女殿下がロックの家へいらした時、フィービは女装をしていなかった。私が覚えている限り、皇女殿下がフィービと会われたのはその時だけだ。無論、私の知らないところで会われた可能性もあるだろうが――」
「あたしにもその時の記憶しかないわね」
さらにフィービが証言を裏づけして、ヴァレッドは苛立たしげに頭を振った。
「ええい、ややこしい親子だ!」
まあ、それはそのとおりだ。
ロックは内心でつぶやきつつ、口では別のことを切り出した。
「なんにせよ、僕が皇女殿下をたぶらかしたというのは誤解だよ。僕は全然覚えてないけど……」
「覚えていないのになぜ言い切れる」
「僕は父に殿下のことを、『友達』と紹介したって聞いたから」
ヴァレッドに噛みつかれても、ロックはきっぱりと言い切る。
「僕だったら、友達と呼べる相手をたぶらかすなんてことはしない」
ロックには、友達と胸を張って呼べる相手がいない。
友達に近い存在、そろそろそう呼びたい相手ならたくさんいる。だが身分の差や歳の差や、あるいは単なる照れくささから、はっきりと誰かをそう呼んだことは今までなかった。
そんな自分が、リウィア――ユリアのことは友達と呼んでいた。
父の目をごまかすための方便もあったのかもしれない。少しは、『花嫁衣裳を仕立てるのに情報が欲しい』といった下心だってあったのかもしれない。だがそうだとしても、家へ招いて夕食を共にするほどの相手だ、きっとロック自身がユリアのことを気に入っていたに違いなかった。
ヴァレッドはその答えがお気に召さなかったようだ。ふんと鼻を鳴らした。
「仮にお前にそのつもりがなくとも、リウィアはお前のことばかり考えていたようだ。お前に会うためにたびたび城を抜け出し、城に帰ってきた後は思い出を噛み締めるかのようにずっと上の空だった。そしてお前の記憶を消してからは部屋にこもってふさぎ込み、しまいには泣き暮らす始末だ。結婚を控えた身だというのに」
そこまでひと息に語った後、悔しそうに視線を落とす。
「あれが懸想でなければ、なんだと言うのだ……」
彼の声が、憎しみに尖ったように聞こえた。
ヴァレッドは彼なりに妹の態度に危機感を覚えたのだろう。リウィアは直に帝都を離れて北方のユスト伯へ嫁ぐことになっている。その前に他の男にうつつを抜かしたと知れれば厄介な火種になる。ヴァレッドが店へ乗り込んできた理由もわからなくはない。
だが、ロックはむしろヴァレッドに反感を覚えた。
「別に女同士だからって懸想しないわけじゃないわよね」
「ああ。愛に性別は関係ない」
フィービとエベルがそんなことを言い出したがそういう問題でもなく、ロックは苦笑する。
「皇女殿下が僕をどう思われていたか、僕にはわからない。記憶もないしね」
あいにくと、きれいさっぱり何も覚えていない。
ただ、そんな状況でも言えることがある。
「でも皇女殿下も僕を気に入ってくださってたんだとして、僕が殿下のことを忘れてしまったなら悲しむのは当然だよ。誰だって、人から忘れられるのは嫌だろ」
ましてやそれが、自らの手によるものだったとしたら。
彼女がふさぎ込むのも当たり前のことだろう。
「皇女殿下が僕の記憶を消したって言ったのは本当?」
ロックが尋ねると、ヴァレッドは目を逸らしつつうなづいた。
「ああ」
「もしかして、あんたが命じてやらせたんじゃない?」
次の答えには、わずかな、ためらうような間があった。
「……ああ」
彼が認めたことにはむしろロックが驚かされたが、これもエベルの推測が正しかったということになる。ロックは彼と視線を交わし、うなづきあった。
そして、ユリアのことを思う。
ロックの記憶を消した時、そうしろとヴァレッドに言われた時、彼女がどう思ったか、想像するだけで胸が痛くなる。
友達だったはずなのに。
会うのを楽しみにしてくれるほど、会った後に上の空になるほど楽しく過ごせる間柄だったようなのに、ロックはそのことを忘れて、もう思い出せない。
「皇女殿下がかわいそうだ」
ロックはヴァレッドに向き直り、語気を強めて言い放つ。
「きっと彼女は今、寂しくて悲しくて、本当につらい思いをしてる。それはあんたが僕を殺そうと、あるいは僕の仕立てた花嫁衣裳をどうにかしようと癒えるものじゃない」
さっき、ヴァレッドは言った。
フィービがロックを守ったように、自分も兄として妹のために来たのだと。
それほどの気持ちがあるなら、今のリウィアに寄り添うことだってできただろうに。
「あんたもお兄さんなら、家族なら、他にすべきことがあったはずだ」
すると、ヴァレッドはいつになく険しい面持ちでロックを見返した。
一番言われたくないことを言われた。そんな怒りと憎しみと、痛みをこらえる表情だった。
「お前に何がわかる!」
そう怒鳴られた瞬間、ロックは胃がかっと熱くなるのを覚えた。頭に血が上ったのか、眩暈がする。足元がふらつく。
焼きつくような怒りが込み上げてきて、思わず叫び返した。
「わかるわけないよ! 覚えてないんだから!」
感情に任せて思いの丈を叩きつけた。
「そんなこと言うなら僕の記憶を返してよ! 勝手に奪っていったくせに! 友達のことを思い出させてよ!」
その時ロックは、ヴァレッドが息を呑み、そして彼の顔から血の気が引くのを見た。
自分の願いが叶わないことを、その表情から察した。