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相手にとって不足なし(6)

 エベルに続き、ロックも試着室をそっと抜け出た。
 彼はカウンターの陰にひそんで、店内の様子をうかがっている。ロックもその後ろで目を凝らした。
 店内の明かりは消えていたが、窓にはまだ鎧戸が下りていない。夜も遅くのようで、射し込む月光が床と、店内に佇む人物を青白く照らしている。フィービほどではないが背が高く、やや線の細い男だ。
 フードをかぶった外套姿のその姿は与太話に出てくる幽霊のようで、ロックは一瞬ぞっとした。
 だがよく考えれば、幽霊なんかよりも生きている人間のほうが怖い。明らかに閉まっている店に無断で立ち入る輩だ、どうしたってまともな相手ではない。
 彼の目的が何か、確かめる必要がある。

 ロックが改めて息を呑んだ時だ。
 入り口の扉がまた静かに開き、ランタンの光と共に別の誰かが入ってきた。
「どちら様かしら?」
 尋ねながらランタンを掲げたのはフィービだ。不審者が店に入ったのを見て、後を追ってきたのだろう。
 同時にエベルが物陰から飛び出し、ロックもあわてて立ち上がる。
 フードの男はフィービのほうを一度振り返った後、エベルとロックに向き直った。
「どうして勝手に入ってきたんです?」
 次にロックが尋ねると、男は答えるより早くフードを払った。
 現れた顔は――覚えがなかった。
 歳の頃は二十代半ばといったところか。端整だが相当目つきの悪い男で、高い鼻と薄い唇と整えられた顎髭、それに木苺のような赤い髪が特徴的だった。
 ロックはそっとエベルをうかがったが、彼も確信が持てぬように眉をひそめている。見知った顔というわけではないようだ。
「仕立て屋、花嫁衣裳は完成したのか?」
 男は開口一番、ロックに向かってそう言った。
「先に質問したのはこっちよ」
 無礼をフィービが咎めたが、男は動じることなくロックを見据えている。
 つくづく不気味な相手だ。ロックは彼をにらみ返した。
「あんたに答える義理なんてない」
「あなたは誰か、と聞いているんだ」
 さらにエベルが続けると、男は初めて薄く笑った。皮肉めいた、嫌な笑い方だった。
「マティウス伯か、貴殿には失望したよ」
 エベルを『閣下』ではなく、そう呼んだ。
 ということは――。
「私があれほどわかりやすく警告を残しておいたというのに、貴殿はこの仕立て屋を止めるどころか焚きつけたようだ。もう少し賢く立ち回れる男だと思っていたのだが」
「では、あなたがヴァレッド殿下か」
 エベルが名を呼ぶと、赤毛の男は笑みを消してうなづく。
「いかにも」
 否定もせずすんなりと認めた。

 帝国の第四皇子。
 皇女リウィアの兄。
 かつてこの店にやってきて革手袋を注文したであろう男、そして――ロックが記憶を失くした件に、おそらく関わっているであろう男。
 いつかは顔を合わせる羽目になるだろうと思っていた。
 会うことができたら、聞いてやりたいことが山ほどあった。
 ロックは自然と高ぶる気持ちを落ち着けようと、静かに深呼吸をする。

 ヴァレッドはエベルに向かって告げた。
「貴殿は初めて会ったと思っているだろうが、私は貴殿を知っている。父親の失態からその身に人狼の呪いを受けたことも、幼い頃からの友が同じように人狼と化したことも、貴殿がそこの仕立て屋に、ずいぶんと入れ込んでいるということもな」
 彼が並べ立てた事実には隠しようのない侮蔑が滲んでいたが、エベルは驚きも怒りもなく応じる。
「それなら、仕立て屋ロックが記憶を失くした件についてもご存知でしょう?」
「消したのは妹だ」
 これまたすんなりと、ヴァレッドは答えた。
 エベルの推測は当たっていたようだ。リウィア――ユリアが、ロックの記憶から自らの存在を消した。
 先程言っていた『警告を残した』というのは、エベルの記憶を消さなかったことだろう。全て覚えている彼がロックの身を案じ、これ以上の深入りを止めるとでも踏んだのかもしれない。こんなやり方で止められるロックやエベルではないのに。
 唇を噛むロックに、ヴァレッドが改めて目を向ける。
「リウィアのこれからの人生に、お前の存在は必要ない。妹自身がそう判断してのことだ」
 ランタンに照らされたその瞳は、不思議な灰色をしていた。
「このまま忘れていればお前も平穏に過ごせたものを……なぜ手を引かない?」
「そっちのやり口に納得がいかないから」
 ロックは答える。
「訳のわからない力使って僕を排除しようとして、それで納得なんてできるはずない。僕だって仕立て屋だ、皇女殿下の花嫁衣裳を仕立てて、選んでもらう権利はあるだろ!」
「権利はあった。かつてはな。今はない」
 ぴしゃりと、ヴァレッドは一刀両断した。
「まさしくお前は排除されたのだ。リウィアによってな」
 ロックは、そうは思わない。
 信じている。エベルが教えてくれた彼女の真意を。彼女が、フィービの記憶を消さなかったその理由を。
「あんたの言葉なんて聞かないよ」
 だから言い返した。
「僕は直接、彼女に聞きに行く! 花嫁衣裳と一緒にね」
「ええ、そっちのほうが手っ取り早いわ。こんなのと問答するよりね」
 ヴァレッドの背後に立つフィービが、そう言いながらランタンを床に置く。
 そしてブーツからナイフを引き抜くと、光る刃先をヴァレッドに向けた。
「さて、こっちは三人でそっちはひとりよ。死にたくなければおとなしく出てってちょうだい、死体を隠滅するのって骨が折れるのよね」
 仮にも一国の皇子にとんでもない脅し文句だ。
 しかしロックを戦力に数えているところからも、これはフィービなりのはったりだろう。
 あいにくとヴァレッドは眉ひとつ動かさなかったが。
「やめておけ、三人がかりでも私には勝てぬぞ。仕立て屋、お前が手を引くと言えばそれで済む話だ」
 彼の反論がはったりかどうかは読めない。
 見たところ細身の彼は得物を取り出す様子もなく、あくまでもロックに向かって警告する。
「お前は妹の心をかき乱す。これ以上近づくな」
 ロックの答えはとうに決まっていた。
「さっきも言ったけど、皇女殿下のお言葉なら聞くよ。あんたのは聞かない」
「愚かな小僧だ……」
 吐き捨てるように言った後、ヴァレッドは身構えた。
 するとフィービもまた身構え、エベルはロックを手で庇いながら前に進み出る。
「下がっていてくれ、ロック」
 エベルが小声で言った。
「殿下の狙いはあなただ。あなたは私が守る」
「『あたしたちが』よ」
 即座にフィービが訂正する。
 どちらにせよ自分は、やはり戦力外ということだ。ロックは悔しく思いながらもじりじりと試着室の前まで後退した。
「ふん、弱虫めが」
 ヴァレッドが鼻を鳴らす。
 それが、戦闘開始の合図だった。

 真っ先に床を蹴ったのはフィービだ。
 彼はナイフをしまい空手でヴァレッドへ飛びかかったが、ヴァレッドは舞踏のように数歩ずれるだけでそれをかわした。拳が空を切ったフィービは振り向きざまにもう一発放とうとしたが、それもほんのわずかな後ずさりで当たらなかった。
 すかさずエベルが背後から掴みかかれば、ヴァレッドはいつ手にしていたのか、店の帽子掛けを振るってエベルの腕を払う。床には売り物の帽子が散乱し、それを踏むまいと身を引くエベルの足元をヴァレッドが帽子掛けで薙いだ。
「っ!」
 とっさに後ろへ跳んだエベルが、床に手をつきながら眉をひそめるのが見えた。
「抵抗するな。店が壊れるぞ」
 ヴァレッドは言って、手にしていた帽子掛けを放り出す。
 がらん、と重たい音が響いた。
「壊したらあんたに弁償させるわよ!」
 フィービが吠える。
 そして助走をつけたかと思うと、スカートの裾を翻しながら飛び蹴りを放った。が、ブーツの靴底がヴァレッドに当たることはなかった。またしてもほんのわずかに逸れて、フィービは転がりながら着地する。勢いを殺せず狭い店の商品棚にぶつかって、顔をしかめながら立ち上がった。
「いった……あんた、何?」
「何、とは?」
 ヴァレッドは涼しい顔をしている。
 彼の動きは奇妙だった。フィービとエベルが交互に殴りかかってもことごとくそれをかわしてみせる。ふたりの拳は当たるどころかかすめることすらなく、まるで狙いどころを誤っているようにすら見えた。
 それでふたりが同時に挟み撃ちしようとすれば、ヴァレッドはすうっと横にずれて、危うくフィービとエベルが殴り合うところだった。すんでのところで拳を止めたものの、ふたりが振り返った時にはヴァレッドが売り物の杖を振り上げているところだった。
「危ないっ!」
 ロックの上げた声に、フィービとエベルは反応したように見えた。
 だが次の瞬間、ふたりは杖の一閃をまともに食らい、それぞれによろけて膝をつく。
「何、こいつ……」
 フィービが肩を押さえてうめいた。
 父が苦戦しているのを見るのはグイド・リーナスとの一戦以来だった。ロックは息が詰まる思いと同時に、妙な違和感を覚えていた。
 ヴァレッドはそんなに強そうに見えないのだ。先程の杖の一撃も、まともに食らったとは言えふたりを無力化させるほどではなく、構えにもそれほど凄みを感じない。むしろ素人のロックにさえ隙だらけに見える。
 だが実際の彼には隙がなかった。フィービとエベルが何度挑みかかってもことごとくかわし、逆に数少ない彼の攻撃は一度として外さない。ロックは彼の動きを目で追おうとしたが、なぜか追いきれなかった。瞬きの間に彼は数歩の距離を移動して、的確に攻撃をかわしている。さっきの杖だって売り物だというのに、いつの間にか勝手に持ち出していたし――。

 そこまで考えて、ロックはふと寒気を覚えた。
 自分がぼうっとしていたからだろうか。ヴァレッドが帽子掛けを手に取った時、そして杖を手にした時、そのどちらも見た覚えがないのだ。
 たまたま見落としていた、にしても妙だ。杖はともかく帽子掛けには帽子が七、八個はかけられていたから、それを手に取った瞬間に帽子が散らばるのが普通だろう。
 しかしさっきはヴァレッドがいつの間にか帽子掛けを握り締めていたし、気がつくと帽子は床に散乱していた。それだけ彼の動きが素早かったとも考えられなくはない。
 ない、のだが。

 ロックは先程以上に目を凝らし、戦いの行く末を見守った。
 何かある。それを見つけて、父やエベルに知らせなくてはならない。
 ヴァレッドはまだ杖を握り締めていた。そして先に立ち上がったエベルに向かってこう告げる。
「そんなものか、マティウス伯。呪われてまで得たのがただの敗北では報われまい!」
 挑発を受けたエベルは一瞬動きを止めた。
 ためらったのか、それとも他の理由かは定かではないが、何にせよ次の瞬間には決断していた。彼の腕が膨れ上がったかと思うとあっという間に黒い毛で覆われ、着衣を破裂させて現れた体躯もすでに毛むくじゃらだ。わずかに残った布地を鋭い爪で払い除けた後、人狼は牙を剥き出しにして唸った。
「あなたには負けない」
「これが人狼の呪いか……どちらの力が勝るか、見せてやろう」
 ヴァレッドがほくそ笑む。
 人狼の動きは人よりも敏捷だ。狭い店内で距離を詰めるのはたやすく、ひと呼吸の間にエベルの腕がヴァレッドを捕らえた。そのまま抱えるように持ち上げて、後ろに放り投げる。
 投げた、はずだった。
 だがエベルの両腕は気づけば空になっていて、ぶうんと風を切る音が辺りに響いただけだった。いつの間にか正面に立ったヴァレッドが杖を突き出すと、腹を押されたエベルはあっけなく転がって店の戸口にぶつかる。
「ぐうっ」
 彼が思わず呻くほど勢いよく衝突し、その拍子に店の扉がだらしなく開いた。いつもなら来客を知らせるドアベルが真夜中の店に鳴り響く。
「くそ!」
 フィービが再びナイフを抜いた。
 今度は恐らく脅しではないはずだったが、刃先を光らせヴァレッドに迫ってもやはりかすり傷ひとつ与えることはなかった。逆にかわされ勢い余ってつんのめったところを、背中に一撃食らって倒れ伏してしまう。
 すぐさま起き上がろうとしたフィービだったが、それより早くその手からヴァレッドがナイフをもぎ取った。その切っ先をフィービの頬に当てたのを見た時、ロックは思わず飛び出した。
「父さん!」
 床に転がっていた帽子掛けを拾った。思いのほか重たく一瞬よろけかけたが、どうにか体勢を立て直してヴァレッドめがけて投げつける。
 それも難なくかわしたヴァレッドが、ナイフをロックのほうへと向けた。
 よく砥がれた切っ先が、ロックの胸を狙う。
 いつの間にか眼前まで迫っていて、かわせないと思った。

 その時、ロックの腰を誰かの腕が掴んで後ろに引き寄せた。
 ナイフの刃はロックの着ていたシャツを引き裂いたものの、その下の丈夫なコルセットががっちりと受け止める。皮膚をわずかに裂かれ、血が飛び散った。
 そのままロックは柔らかい毛皮の上に着地し、すぐに裂かれた胸を見る。血がにじんだシャツは破れ、鎖骨の下には血を流す赤い切り傷ができていた。もちろん致命傷というほどではないが鋭い痛みがある。そして切られたシャツの裂け目から、コルセットで押さえつけた胸元が露わになっていた。
「いてて……」
 ロックがうめいたのと、血のついたナイフが床に落ちたのはほぼ同時だった。
「お、お前……」
 震える声に面を上げれば、ヴァレッドの顔が驚きに凍りついている。
 彼の灰色の目は、ロックの胸元を凝視していた。
「男ではない、だと……!?」
「え?」
 知らなかったのか。
 逆に驚くロックをよそに、下敷きにしていた毛皮がするりと抜けた。
 その正体はもちろんエベルで、彼はロックを優しく床に下ろすと、うろたえているヴァレッドを毛むくじゃらの剛腕で問答無用で突き倒し床に押さえつけた。
「うぐっ」
 今度はかわせなかったヴァレッドが、押さえつけられながらもロックをにらむ。
「ではお前は、男に化けてまでリウィアをたぶらかしたのか!」
 憎々しげに叫ぶ第四皇子を、ロックはきょとんとして見下ろしていた。
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