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相手にとって不足なし(5)

 二月前にロックが描いたドレスの図面は、理想どおりの姿で仕上がった。
 高貴で若い花嫁のために、古風さと愛らしさを両立させたドレスだ。ほっそりした首を覆う詰襟とひかえめにふくらんだ袖、ふんわり丸みを帯びたスカートの裾は足首が隠れるくらいの長さだった。光沢ある薄灰青の生地はつやつやと美しく、星を模した金糸や宝石の刺繍がよく映える。スカートに重ねた紗は夜空を霞ませる薄雲のように透けて、生地やそこに施された刺繍の光をかすかな、儚いものにしていた。
 そして裾の刺繍は一番手間がかかった箇所だ。帝都の壁と城の刺繍を、ここだけは生地と近い色の糸で描いた。見る人が見ればきちんと帝都に映るだろうし、少し距離を置いても丁寧な連続模様の刺繍に見える。鉤編みのような透かし模様は光を当てると、床に同じ形の美しい影を落とす。
 記憶を失くす前のロックが、作りたいと思ったとおりの形にできた――はずだ。

 花嫁衣裳が完成する瞬間を、ロックはクリスターやフィービ、それにエベルとニーシャと共に迎えた。エベルには事前に『この日に完成させるので来てほしい』と手紙を送っていたし、ニーシャは夫から完成間近と聞いて、わざわざ見に来てくれたのだという。
「よし……図案どおりの仕上がりだな」
 一仕事終えた顔でクリスターが息をつく。
「素晴らしい出来映えじゃない! あたしもあと十歳若かったら着てみたかったわ」
 フィービは興奮気味にドレスを眺めまわしている。
「美しいドレスだ。これが帝都中の人々の目に留まるのかと思うと、実に感慨深い」
 そうつぶやくエベルの心は、すでに皇女の結婚式まで飛んでいっているようだ。
「いいなあ、これを着たら絶対きれいな花嫁さんになれるね!」
 はしゃぐニーシャが瞳を輝かせ、ロックのほうを振り返る。
「これはもうもらっちゃったようなものでしょ! ロックも自信あるよね?」
「え? ま、まあね」
 唐突に振られて、ロックはあわてながらうなづく。

 自信がないと言えば嘘になる。
 これまで時間を尽くし、経費と技術を尽くし、そして心をを尽くしてこの衣裳を縫い上げた。自分にとって最高傑作とも言えるドレスになったはずだ。
 ひとつだけ懸念があるとすれば、このドレスを着る人のことをまだよく知らないという点だろう。エベルは皇女についてたくさんの話をしてくれたが、それでも彼女についてはうすぼんやりとした想像しかできないくらいだ。何より顔も姿も知らない相手のドレスを縫うことは難しく、目の前のドレスをどんなふうに身にまとってもらえるのか、ロックは思い浮かべることすらできない。
 それでも、すでにドレスは完成した。
 もはや些末な不安にとらわれる暇はなく、ここからはあっという間に事が進むだろう。ここまで来れば他にできることもない。せいぜい皇女の目に留まるよう願うことくらいだ。

 ロックはわずかな懸念を拭い去り、胸を張った。
「皇女殿下にこのドレスを着ていただきたいって、心から思うよ」
「その意気だよ」
 ニーシャがぐっとこぶしを握る。
「ロックが選ばれたらあたしも鼻が高いなあ。あたしのドレスも縫ってもらったんだから、皇女様と同じ仕立て屋だよって自慢できるじゃない」
「今から自慢したっていいのよ」
 口を挟んだフィービはすでに誇らしげだ。
「あたしはもう決まったようなもんだって思ってるからね」
 父の表情はロック以上に自信ありげで、ロックも実に勇気づけられる。
 とは言え照れ隠しでこう応じた。
「気が早いなあ。そう言ってもらえるのはうれしいけどさ」
「いや、私もフィービと同意見だ」
 エベルが力強く語を継ぐ。
「皇女殿下はあなたがこのドレスに込めた心を必ずや感じ取られるはずだ。そしてこの美しさをお気に召していただけるはずだとも確信している」
 そう言い切ってから優しく目を細めて、さらに続けた。
「だから安心していい。一旦は肩の荷を下ろし、一息入れたらどうだろう」
 言われて初めて、ロックは今更のように積もり積もった疲労感に気づいた。
 花嫁衣裳が完成を見た今日まで、一日も休むことなく働き続けてきた。昨夜は完成に間に合わせようと少ししか寝ていなかったのもあり、ロックの顔もさぞかしくたびれているように見えるはずだ。
 そのことに少し恥じ入りつつ、ロックは笑った。
「ありがとうございます、エベル。そうします」
「ああ」
 彼の答えは短かったが、浮かべた微笑は慈しみに満ちている。
 思えばエベルにもたくさん世話になった。記憶を失くしてくじけかけた時、励まし奮い立たせてくれたのも彼だった。この件が落ち着いたら、彼にはちゃんと感謝と――それから改めての愛を伝えたい。ロックは強くそう思った。
 しかしひとまずは休息だ。
「じゃあどうする? 早速ジャスティアの店で打ち上げでもするか?」
 クリスターの言葉に、ロックは一瞬考えてから答えた。
「打ち上げは体調が万全の日にしようよ。僕もあんたも今はくたびれてるしさ」
「まあ、そうだな」
 指摘され、クリスターも疲労をあっさり認めた。
 彼も今朝は早くから来てくれて、最後の仕上げを手伝ってくれていた。労いたい気持ちは山ほどあるが、寝不足のところにご馳走を食べたところで十分に味わえまい。
 もっとも完成のお祝いはしたかったので、今日のところは軽く祝杯だけ挙げようという話になった。

 フィービがジャスティアの店までひとっ走り出かけて、パンやチーズや果物、それに飲み物を買ってきた。ジャスティアやカルガスもまた花嫁衣裳の完成を喜び、祝福してくれたそうで、酒の他に葡萄を絞った果汁をおまけしてくれた。酒を飲まないロックはありがたくそれで乾杯をすることにした。
 五人は店の床に車座になり、それぞれに酒や飲み物を飲み、食事を取った。一仕事終えた後ということもあり、皆の表情はどれも晴れやかで、酒を飲んでいないロックも実にいい気分だった。
「しかし、これでロックも帝都市民か」
 クリスターがからかうようにそう言い、ロックは苦笑する。
「まだそうなると決まったわけじゃないよ」
「皇女様が気にいりゃ、決まったようなもんだろ。皇女の仕立て屋が貧民街住まいじゃ格好つかないもんな」
 実を言えばロックも同じことを考えていて、仮にあの花嫁衣裳が採用されれば帝都の市民権を得ることはたやすくなるだろうと踏んでいる。皇女の結婚ともなれば仕立て屋にもそれなりの対面が必要となるはずで、その時点で自分の身分はある程度保証されるはずだ。
 もちろん実際に市民権を得られるかどうかはわからない。帝都の中に居住の許可を得たり、そこで新たに店を出したりといった権利がもらえるかはまた別の話で、ロックがまだ予想だにしない困難が待っているかもしれない。だとしても『皇女の花嫁衣裳を仕立てた』という実績は話をより良い方向へ進める何よりの足掛かりとなるはずだ。
 もちろん、選ばれればの話だが。
 真面目に考え込んでいたロックに、
「ロックは帝都で暮らすようになっても、男の子の格好をするの?」
 ニーシャがふと、唐突な疑問をぶつけてきた。
 それは全く考えていなかったことで、思わずロックはぽかんとした。
「ど……どうだろ。あんまり考えてなかったな」
「なんで? 大事なことじゃない、身を守るために男装してるんでしょ?」
 そう言ってニーシャはころころ笑ったが、男装を苦にしていなかったロックは、じゃあ不要になったら女の格好をするかと聞かれると悩んでしまうのだ。
 貧民街よりも治安のいい街角に店を出すようになったら、男のふりをする必要はなくなるだろう。だがフィービのようなドレスを着て店に立つ自分を想像してみると、なんだかしっくりこない気がして仕方がなかった。きっと袖をまくりたくなってしまうだろうし、長い裾も邪魔になりそうで、婦人らしいふるまいなどできる気がしない。
「悩むようなことでもないわよ。着たい服を着ればいいの」
 ロックの様子を見ていたフィービは、迷うことなく言い切った。
 栗色の髪を筋張った武骨な手でかき上げながら、つんと上を向いて続ける。
「あたしなんて、どこへ行っても着たい服を着るって決めてるんだから」
「フィービ、帝都の中でも女装する気かよ!」
「するわよ。何が悪いの?」
 クリスターの動揺をものともせず答えたフィービを、ロックはいっそ眩しい思いで見つめた。
 着たい服を着る。
 それは一番いいことだとロックも思うが、なら自分が着たい服とはなんだろう。
 やはり――。
「まあ閣下なら、あんたが何着ても似合うって言ってくれるでしょうけど」
 フィービが続けた言葉でロックの思考は中断し、追い打ちのようにエベルが言う。
「もちろんだ。私はどの格好のあなたも等しく素敵だと思っている」
「う……」
 褒められたにもかかわらず、ロックは言葉に詰まった。
 それを見て他の四人は思い思いに笑い出し、気恥ずかしさが増したロックは膝を抱えて黙るしかなかった。
 だが、わかってはいる。エベルなら何を着ても褒めてくれるだろうし、フィービはどこへ行っても着たい服を着ると言うだろう。
 だからロックも、今から考えておくべきなのかもしれない。
「そういや、お前ジャスティアたちには女だって明かしてないんだな」
 ひとしきり笑った後で、クリスターがふと思い出したように尋ねてきた。
「ああ、言ってない」
 カルガスとジャスティア夫妻は、ロックを未だに男だと思っている。
 ついでに言えばフィービのことも、ロックの父親の愛人だと思ったままのはずだった。
「こないだうっかり言いそうになって焦ったぜ。なんで黙ってんだ?」
「単に言う機会なかったからだよ」
 そもそもクリスターたちに知られたのだって彼の誘拐事件があったからで、そうでなければ明かしてもいなかったはずだ。貧民街の多くの人はロックの性別を知らないままだろうし、ロックもこの先いちいち触れ回るつもりはなかった。
 ただ、カルガスとジャスティアには本当に世話になった。父親であるフィービを除けば貧民街での一番の恩人と言えたし、何度かひどく心配もかけた。ここを離れることになったとして、嘘をついたままでいいのか、それとも真実を明かすのかは迷うところだ。
「黙っとくほうがいいならそうするけど」
「ね。その辺はあたしたち、ロックの意思を尊重するよ」
 クリスターとニーシャはそう言ってくれたが、これもすぐには答えの出ない問題だった。
「……考えとくよ」
 そう答えたロックは、ようやくおぼろげながらも感じ取っていた。
 自分の仕立てたドレスが皇女の花嫁衣裳に選ばれた時――それは慣れ親しんだ生活に、貧民街で過ごした日々に、別れを告げる時にもなるのだろう。

 軽い祝杯と食事の後、クリスターとニーシャは暗くなる前に帰っていった。
 ロックはフィービやエベルと後片付けをしていたのだが、途中でどうしても眠くなってしまった。もともと食事中から眠気を感じてはいたのだが、腹がふくれると一層瞼が重くなるものだ。
「子供みたいねえ。起きて、家で寝たらどう?」
 フィービには呆れられたが疲労感はいかんともしがたく、結局床に転がった。
「ごめん、夜更け前に起こして……」
「わかった、ゆっくり休むといい」
 エベルが優しく囁いて、何か布をかけてくれた。そこまでは意識があった。
 だがあっという間に遠のいて、そのままぐっすり寝入ってしまった。

 そしてどれくらい経ってからだろう。
 軽く揺すぶられたような気がして、ゆっくりと意識が戻ってくる。
 まだ重い瞼を開こうとしたが、部屋の中はいやに暗い。自分は布にくるまったまま、さらに抱きかかえられているようだ。その相手がエベルだということは、目が慣れる前に皮膚感覚でわかった。
「ん……?」
 まだ言葉にもならない疑問の声を上げかけた時、エベルが気づいて声を潜めた。
「しいっ。声を上げないでくれ」
「え……」
「不審な人物が外にいる。フィービが様子を見に行っている」
 その言葉で眠気は吹き飛び、ロックは慣れない目を凝らして辺りを見回す。
 ここは店の試着室のようだ。暗くても姿見と間仕切りの存在でわかる。エベルはその中に自分を抱えて隠れているらしく、だが外の様子を知ろうと耳をそばだてているようでもあった。目につくところにフィービの姿はなく、それに――。
「ドレスは無事ですか?」
 完成したばかりの花嫁衣裳について尋ねると、エベルは即座にうなづいた。
「無事だ。申し訳ないが、あなたより先に隠させてもらった」
「いえ、ありがとうございます」
「だが警戒しよう。たとえば火を放たれでもしたら、あれを持って逃げなくてはならない」
 小声でもわかるくらい、エベルの声は緊張をはらんでいた。
 ただならぬ事態であることを察し、ロックも身を固くする。
 不審者の狙いは花嫁衣裳なのだろうか。あれが完成した折も折のこの状況、関連づけて考えないほうが難しいが、果たして。

 試着室で息を殺すふたりの耳に、やがて扉の開く音が聞こえた。
 それがフィービのものか、来訪者のものか、ロックには判別つきかねた。だがエベルはロックを離すと、素早く試着室を飛び出した。
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