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相手にとって不足なし(4)

 それからしばらく、仕事に明け暮れる日々が続いた。
 日中は店でクリスターとランベルト家の娘たちが着るドレスを縫い、日が落ちた後はひとりで花嫁衣裳の仕立てを行う。こんなにも忙しいのは『フロリア衣料品店』が開店して以来初めてのことで、ロックはあわただしく毎日を過ごしていた。
 幸い仕事は行き詰まることもなく順調だった。ランベルト家の娘たちは仮縫いの際も賑々しく朗らかで、作業中は無口になりがちなロックたちの心を華やがせた。ドレスの型も要望どおりに作られて、三人とも仕上がりが楽しみだと口々に言っていた。

 そしてそんな忙しない日々を、周りの人たちが支えてくれた。
 フィービは細々した作業を手伝いながらたまに冗談を言って場を和ませてくれたし、エベルもちょくちょく顔を出してはヨハンナお手製のお菓子を振る舞ってくれた。ジャスティアがパンを差し入れに来てくれたことも何度かあったし、ニーシャが手料理を届けてくれたこともあった。
「あたしの故郷でよく食べられてる料理だよ」
 そう言ってニーシャが差し出してきた器は、夕陽よりも真っ赤なスープで満たされていた。具材は葉物野菜と白身魚で、嗅いだことのない香辛料の匂いがする。
 匙を取って口に運べば、舌先にちりっと来るような酸味と後からじわじわ効いてくる辛さがある。魚の身は口の中でほろほろ崩れるほど柔らかく、淡白な味が独特なスープに不思議とよく合った。
「おいしい!」
 ロックが声を上げると、隣でフィービがうなづく。
「これはいい味ね。上手じゃない、ニーシャ」
「へへ、褒められた」
 はにかむニーシャがクリスターの肩に手を置くと、彼女の夫は得意げに続けた。
「ニーシャは南方料理が得意なんだよ。俺も食べ慣れる前はびっくりしたけどな」
「帝都って辛い料理あんまりないもんね」
 帝都の市場には広い領土から集められた様々な食材や香辛料が並んでいるが、多くの市民に好まれているのは素材の味を活かした素朴な料理だ。たとえば肉はただ焼いて塩で食べるのがうまい、という考え方が一般的で、ロックもそう思っていた。もちろんヨハンナが作るような、砂糖やバターをたっぷり使った高級菓子もそれはそれで好きなのだが。
 しかしニーシャの手料理はそのどちらにも当てはまらない斬新な味わいだった。ロックも気づけばぺろりと平らげ、ニーシャに感謝を告げる。
「おいしかったよ。ありがとう、ニーシャ」
「どういたしまして。お仕事、引き続きがんばってね」
 ニーシャの励ましを受け、ロックもフィービも、そしてもちろんクリスターも大いに張り切った。

 そして月がふたつ変わる頃、まずは三着のドレスができあがった。
 ロックは早速ランベルト家に手紙を出し、数日後にランベルトと三人の娘たちが店へやってきた。娘たちはそれぞれの注文どおりのドレスに袖を通し、喜びに頬を染めながら姿見の前に立った。

『虹のように色とりどりのドレス』は、八枚接ぎのスカートの全てを違う色の生地にすることで表現した。色彩の差が派手になりすぎないよう柔らかく淡い色味の生地ばかりを使い、さらに紗をかぶせることで儚くも美しい虹のようなドレスに仕上がった。
『肌を見せるドレス』は娘の要望と父の要望を折り合わせることから始まった。結果、露出させるのは鎖骨まで、肩はだめというランベルトの意思を尊重し、短い袖と控えめな襟ぐりの意匠でドレスを仕立てた。ただ娘の希望も踏まえて身体の線を映えさせるように仕立てたし、鎖骨の美しさを損なわぬようビスチェの胸元は美しい花の刺繍で飾りたてた。
『薔薇の花のようなドレス』はたっぷりとした生地を幾重にも重ねて、花びらのように仕立てた。くるくる回ってみたいとのご要望にも答えるため、下地以外は重くならない平織りの透ける絹を用いた。下地の色はこっくりとした上品な赤色で、そこに透ける生地を重ねると本物の薔薇のような陰影が浮かんだ。

「素敵! 本物の虹を身にまとってるみたいよ!」
「これを着て颯爽と出ていったらきっと注目の的ね!」
「見て見て! 回ったら薔薇の花みたいでしょう?」
 姿見の前に代わる代わる立ちながらはしゃぐ娘たちに、サッシュを結ぶロックも微笑ましい気持ちになる。
 時間をかけて仕立てたドレスを喜んでもらえるのは、やはり仕立て屋として格別のうれしさだ。
「ね、仕立て屋さん! わたくしたちどうかしら?」
「ちゃんと似合っていて? 正直に言ってちょうだいね」
「まるで本物の貴婦人のようだと思わない?」
 満足するまで姿見を眺め終えた後、娘たちはロックにそう尋ねてきた。
 もちろん、心から答えた。
「ええ、皆さんとてもお美しいです。貴婦人のようではなく、貴婦人そのものでいらっしゃいます」
「まあ、お上手ですこと」
 それで三人の娘はそろってはにかんだが、ロックとしては世辞のつもりはなかった。ドレスに袖を通した瞬間から、娘たちの背筋はしゃんと伸び、鏡を覗く瞳は潤んできらきらと輝いている。
 着るものが人を変える瞬間をこれまでに何度も見てきたロックだったが、今この時もはっきりと実感させられた。初めて袖を通すドレスが、あどけない娘たちを凛とした貴婦人に変えたようだ。
「ではランベルト卿にも見ていただきましょう」
 ロックは三人を促し、試着室を出た。
 そして店内で待っていたランベルトに引き合わせると、彼は娘たちの華やかな姿に絶句したようだ。
「なんと……きれいになったものだ……」
 震える声でそう漏らしたきり黙り込んでしまったため、娘たちは父親を取り囲んだ。
「お父様、それしか仰ってくださらないの?」
「せっかくのドレスなのよ、もっと褒めていただきたいわ!」
「あら……お父様、泣いていらっしゃるの!?」
 その言葉どおり、ランベルトは感極まったか濡れた目元を手巾で拭っていた。しかし拭うだけでは止まらぬようで、しまいには両手で顔を覆ってしまう。
「よかった……お前たちの晴れ姿が見られて……!」
 泣きじゃくる声で、彼は言った。
「一時期は諦めてすらいた。お前たちにドレスも用意してやれず、皇女殿下のご婚礼が済むのを待つしかないのかと……だがこうして着飾る姿を見られて、ほっとしたら込み上げてきてしまって……」
 そんなランベルトを、娘たちが肩を覆い、背中をさすり、手を握って慰めようとする。
「お父様、そんなに背負い込んでいらっしゃったなんて」
「でももう大丈夫、この仕立て屋さんがやってくれたわ」
「さあお父様、一緒にお礼を言いましょう」
 娘たちに励まされ、ランベルトは改めて涙を拭った。
 そして真っ赤な目をロックへ向けると、泣き笑いの表情を浮かべる。
「ありがとうございます、なんとお礼を言っていいやら……」
 その姿にはロックも胸を打たれた。
 だから、万感の思いを込めてお辞儀をした。
「お役に立てて何よりです、ランベルト卿」

 ランベルトと三人の娘たちはドレスを引き取り、幸せそうに帰っていった。
「なんだか僕、すごい善行を積んだ気分だよ」
 急に静かになった店内でロックがつぶやくと、フィービが訳知り顔で応じる。
「ランベルト卿が責任を感じるのもわかるわ、親ってのは子供の期待に応えたいものだからね」
「僕は娘さんたちの気持ちのほうがわかるけどな」
 ロックももちろん父には期待しているし、尊敬もしているが、ひとりで背負い込むようなことはして欲しくない。
 ランベルトの娘たちはこれからもっと頼もしくなることだろう。泣き伏せる父親を慰めようとするその姿が、すっかり目に焼きついていた。
 彼女たちのためにドレスを完成させられて、本当によかったと思う。
「ま、誰しも自分の立場のことだけはよくわかるってことだな」
 クリスターが肩をすくめて混ぜっ返した。
 彼はあの三人娘たちに圧倒されていたようで、彼女たちがいるといつもの軽口が嘘のように寡黙になる。彼もまた、これで肩の荷が下りるというものだろう。
 ロックが感謝を告げようとした時、クリスターがいち早く口を開いた。
「で、こっちが片づいたところで……花嫁衣裳のほうはどうなってる?」
「まだ途中だよ」
 聞かれたので、ロックは花嫁衣裳をまとわせた人台を引っ張り出してきてクリスターに見せた。
 本縫いに入ってからだいぶ経ち、身頃とスカート部分はまだ縫い合わせてはいないものの、ひとまず形になっている。とはいえこれから手の込んだ刺繍を施さなければいけないのもあり、完成まではもう少し時間がかかりそうだ。

 先日訪ねてきたエベルの話では、帝都の有名店『フォーティス服飾店』がついに花嫁衣裳を完成させたと公表したそうだ。すでに皇帝陛下の元へ献上したとの噂もあり、競合する他の仕立て屋たちが焦りはじめているとのことだ。
 それを聞いたロックとしても焦りがないわけではないが、こちらは仕立て屋がひとりきり。どんなに急いだところでたかが知れているし、それで仕上がりの質を落とすわけにもいかない。エベルも『早く出せば有利というわけでもない』と慰めてくれたので、それを支えにこつこつ作業を続けているところだった。

「この分だとまだまだかかりそうだな」
 クリスターは人台がまとうまだ簡素なドレスを眺めた後、こう言った。
「手が足りないなら貸してやろうか?」
「いいの?」
 その申し出にロックは目を剥いた。
 今日まででもう二月ほどクリスターの手を借りている。脚を悪くして仕事が減ったとはいえ得意客はいただろうし、これ以上の拘束は悪いと思っていた折だった。
「そりゃ貸してもらえるならありがたいけど、そっちも仕事あるだろ?」
「あったら申し出てねえよ」
 ロックの問いに、クリスターは情けない笑みを浮かべる。
「最近じゃ仕事が遅くなったってんで、昔なじみの客がとんと減っちまったんだ。まあ買い叩いてくるような客ばかりだったから、入れ替えるいい機会と言やそうなんだが」
 一時期は粗悪な仕事に不当廉売と悪評を馳せていたクリスターも、近頃ではすっかり心を入れ替えたようだ。実際、ランベルト家の娘たちのドレスに関しては予想外に丁寧な仕事をしてくれた。ロックとしても彼が手伝ってくれるなら心強いというものだ。
「もちろん日当はもらうぜ。ニーシャだけに稼がせるのも悪いしな」
 クリスターが指を立てて強調してくる。
 ロックとしてもその点に異存はないし、フィービも納得した様子で微笑んだ。
「ランベルト卿にはずいぶんと弾んでもらったし、もうしばらく雇わせてもらうのもいいんじゃない?」
 それでロックはうなづき、手を差し出した。
「ありがとう、クリスター。今後ともよろしく頼むよ」
「任せとけ」
 クリスターがその手を握り返す。
 いつだったかニーシャが言っていたように、彼の手にもロックのと同じ縫いだこがある。
「じゃ、何からやればいいか指示をくれよ。お前にしかできない工程もあるだろうしな」
「了解。まずはサッシュを縫ってもらおうかな」
 ロックたちは一息入れる間もなく、次の仕事に取りかかった。
 しかしその仕事にも、ようやく終着点が見えてきたようだ。

 クリスターの手を借りると、花嫁衣裳の仕立ては驚くほど早く進んだ。
 これまでロックひとりで、しかも店を閉めた後に行っていたから当然といえば当然だが、花嫁衣裳は日を追うごとに図案に描いた姿に近づいてきた。
 薄い灰青色のドレスの身頃に、星空を連想させる刺繍と宝石を縫いつける。見上げる夜空にいつもあるような一面の星々だ。きっといつぞやの夜もこんなふうだったのだろうと、ロックはこの頃夜空をよく眺めるようになっていた。
 スカートにかぶせる紗やサッシュ、それに手袋などはクリスターが縫ってくれた。スカート部分の刺繍は少し特殊な仕事になるため、ロックがひとりで行わなければならなかった。
 母が遺していったドレスには透かし模様の刺繍があった。鉤編みのように穴が開いたその刺繍は縁を丁寧に糸でかがってあり、美しい上に模様を浮かび上がらせ、より印象深く見せることに長けていた。ロックはそれをよく覚えていて、この花嫁衣裳で真似てみようと考えていた。
 事前に練習もしたとはいえ初めての工程で、最初のうちはいくらか戸惑った。だが仕立て屋として経験を積んできたロックは、とうとうその刺繍の技法も我がものとした。

 そして――尚も続く忙しない日々の果てに、ついにその日がやってきた。
 花嫁衣裳が完成したのだ。
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