二人分/後編
洋菓子店で、クッキーの詰め合わせを購入した。宣言通りに早良は口を出さず、あかりが一人で選んでみせた。意見を求められたところでよくわからないだろうからそれでよかった。あかりが選んだのはバスケットの中に数種類の焼き菓子が詰めてある商品で、わざわざ店員に、サテンのリボンまで掛けてもらっていた。
「きれいな物の方が、お土産にはいいかなって思ったんです」
店を出てから彼女はそう語った。
もちろん、早良に異論があるはずもない。こういった感覚では若い娘に敵わない。
実際、そのお土産を目にした史子も、早良の予想以上に喜んだ。
「わあ、素敵! 可愛らしいお土産ね。本当にありがとう!」
弾むような声を立てた後、こうも言ってきた。
「あかりさんが選んだんでしょう?」
はい、と頷くあかりの隣で、早良は肩を竦める。
「どう見ても俺が選べる代物じゃないだろうな」
「そうね。早良くんはセンスはいいけど、こういう可愛らしいのは選ばないでしょう? 女心に疎いでしょうから」
史子はくすくす笑うと、閉口する早良を尻目にキッチンへと向かう。お茶の用意を始めたようだ、湯の沸く音が聞こえてくる。
対面式のダイニングといい、大きなテーブルを挟んで、二脚のソファーが置かれたリビングといい、一人暮らしには広過ぎる部屋だった。高層マンションの三十五階、眺めのよさそうなバルコニーのある史子の部屋は、あまり住みよいものではないらしい。
「通勤が面倒なのよね。毎朝、下までエレベーターに乗っていくのが」
ソファーに座る早良とあかりの前、手際よくお茶が並べられた。二人と差し向かいに腰掛けた史子は、自身もティーカップを持つ。
「どうぞ、召し上がって」
紅茶と一緒に出されたのは、いい焼き色のパウンドケーキだった。隣の大皿には、早良たちの持参した焼き菓子も顔を揃えている。
「お菓子は一人で食べるのは味気ないもの。一緒に食べてね」
史子がそう言って勧めるので、早良も素直に従った。あかりも割と遠慮せず、にこにことお菓子に手をつけている。
「こんなに広い部屋に住んでいたら、掃除が大変じゃないか」
室内に目をやり、早良は尋ねた。途端に史子が苦笑を浮かべる。
「そうなの。一人で住むのは寂しいくらい。私はもっと小さな部屋でもいいって言ったんだけどね」
「……君のお父さんが?」
「ええ」
溜息をつきつつ史子は頷く。
「家を出て行くなら好きにしろと言ったくせに、住むところにはあれこれと口を出してきたのよ。オートロックじゃないと駄目だ、防犯設備の充実してるところを探せって、うるさくて。お金は出してもらったから、私も文句は言えないんだけどね」
史子の父親は相変わらずのワンマンぶりらしい。それでも、父親について語る史子の声音は、以前より柔らかいように感じる。
「君のお父さんは、まだ君を子ども扱いしていたいんだろうな」
率直に早良が述べると、史子も小首を傾げてみせた。
「そうなんでしょうね。ずっと小さなままでいて欲しいのかもしれないけど、それじゃあ親孝行は出来ないものね。何が親孝行かなんて、まだわからないけど……」
独り言にも似た史子の言葉を、あかりは神妙な表情で聞いていた。二人の様子を見て、早良もまた神妙に思う。
――いつか、親孝行が出来るだろうか。そうすることに早良自身がきちんと意義を見出し、そして両親は、息子の息子らしい行動を受け入れてくれるだろうか。
今はまだわからない。今までの早良たちは、あまりにも家族らしくなかった。これからゆっくりと時間を掛け、家族らしくなっていくべきなのかもしれない。
沈黙が落ちる前に、史子の視線が動いた。あかりに目を留め、静かに口を開く。
「あかりさん」
「……はい」
名を呼ばれ、あかりはしゃきっと背筋を伸ばした。
その様子に史子の表情が和らぐ。一度、頭を下げた。
「以前は、父がご迷惑をお掛けしました」
「え……あの、そんな」
戸惑うあかりに対し、史子は尚も続ける。
「父のこと、許してもらおうとは思ってないわ。父はああいう人だから……考えを改めさせるには、まだ時間が掛かりそうなの。でも、きっといつか、わからせてやるつもりよ」
「私は大丈夫です。怒ってる訳でも、すごく辛い目に遭った訳でもありませんから」
とっさにあかりが応じた。ちらと早良の方を見て、控えめに笑う。その後でまた、史子へと視線を戻す。
「早良さんがいてくださったから、あの時も、怖いことなんてちっともなかったんです。ですから、志筑さんもお気になさらないでください」
その言葉を聞くと、史子も早良の方を見た。あかりよりもはっきりと笑んでみせる。早良は黙って目を逸らす。
何とも居心地が悪かった。うれしくない訳ではないから、尚のこと。
「そうよね。二人でいたら、きっと辛いこともないのよね」
腑に落ちた口調で史子は言った。声のトーンを明るくして言葉を継ぐ。
「私は応援するわ、あなたたちのこと。父が何と言っても……誰が何と言ってもよ。あなたたちは二人でいるととても幸せそうだもの。早良くんにはあかりさんが必要なんだって、わかるもの」
視界の端で、あかりが恥ずかしげに俯くのが見えた。早良は余計に反応に困り、とりあえず紅茶を飲んだ。味がよくわからない。
「だから、幸せになってね」
史子の言葉は、けれど真剣だった。祈るようだった。
うれしくない訳ではなかった。決して。
「――はい」
直後、あかりがそう答えてくれたのも、うれしかった。ただ、どうとも反応することが出来ず、早良は無言で紅茶を飲み干した。熱かった。
三人でいても広いくらいの室内。ベランダからは秋の陽射しが柔らかく滑り込んでくる。高い空に近づくこの部屋は、どこまでも静かで穏やかだった。
静寂だけが打ち破られたのは、史子がこう切り出した時だ。
「ところで、アルバムを見ましょうか」
早良とあかりはほぼ同時に面を上げた。ただし、答えたのはあかりだけだ。
「はい、是非拝見したいです」
驚くほど迅速な反応だった。楽しみにしていたらしいと如実にうかがえる。
「そうでしょう。早良くんの昔の写真、見せたいものがまだたくさんあるんだもの。――早良くん、いいわよね?」
言葉に詰まる早良に、史子はわざわざ確かめてきた。そう問われて、駄目だと言えるはずもない。
「あの、見てもいいですか?」
あかりも笑いながら尋ねてくる。やむを得ず、早良は承諾した。
「好きにすればいい。ただ、俺は見ないからな」
「どうしてですか? 以前に見せていただいた写真も、とっても可愛かったですよ」
「……どうしてもだ」
何と言われても、自分が幼かった頃の姿を目にするのは気恥ずかしい。失ってきたものを自覚しているからこそ、そう思う。
もう戻れはしないし、戻りたいとも思っていない。今の方がずっと幸せだと、ちゃんと捉えられている。だからこそ、今の幸せを知る前の、辛さも苦しさも知らない子どもの顔を見るのが面映い。十数年後にはこんなにも穏やかで、幸せな日々が待っているのだと、教えてやりたくて堪らなくなるから。
史子が奥の部屋から古びたアルバムを運んできた。そしてソファーに再び座ると、あかりを手招きする。あかりはぱっと立ち上がり、ためらいなく史子の隣に座った。
そうして二人でアルバムを広げ、中身を検め始める。
「これは私たちが小学校に入学した時の写真よ」
「わあ、可愛い! 早良さん、ランドセルが似合いますね」
「そうよね。でも扱いが乱暴で、六年間持たなくって、四年生の頃にはリュックサックで登校してたのよね」
「やんちゃだったんですね」
女性二人がくすくす笑う。早良は空のカップを手にしたまま、視線の逃げ場を探していた。
「こっちのは二年生の頃だったかしらね」
「この女の子、志筑さんですよね? どうして泣いているんですか?」
「それはね、早良くんが私の分のおやつまで食べてしまったからなの。あの頃の早良くんは食いしん坊だったのよね」
何となく覚えのあるような、むしろどこかで聞いたような話だ。気まずく思う早良へと、あかりもおかしそうな笑みを向けてくる。
「うちの弟みたいです」
「……小学生の頃の話だからな」
さすがに黙ってはいられず、早良はそう注釈した。しかし、その程度の事実ではあかりの印象を覆すことも出来なかったらしい。しみじみと言われた。
「早良さんにも雄輝みたいな頃があったんですね。そういう早良さんにも会ってみたかったです」
早良としては、あかりと出会ったのが今の自分でまだよかったと思う。
女の子のお菓子を取り上げて、食べてしまうような男は、さすがに恋人にはしてもらえなかっただろうから――彼女なら、そんな自分でも好きだと言ってくれたかもしれない。そう思うのはさすがに自惚れ過ぎだろうか。