二人分/前編
週末は、爽やかな秋晴れで幕を開けた。車の窓ガラスの向こう、あかりの住むアパートが見える。彼女の後ろ姿が見える。ドアの前に立ち、鍵を掛けている。
白いワンピースの上にカーディガンを羽織った彼女が、やがてくるりと振り向いた。切りたての髪が揺れる。早良の乗る車まで、敏捷な足取りで駆けてくる。
「お待たせしました、早良さん」
助手席に乗り込んだあかりが笑う。シートベルトを締めるのを横目で見守り、早良は会釈だけを返した。挨拶一つにしても面映いのは、彼女の服装のせいだけではない。
久方ぶりの休日デート。行き先は史子が一人暮らしを始めたというマンションだ。彼女は早良たちの訪問を心待ちにしているらしい。出掛けに連絡を入れたら、うきうきとした声で言っていた。
『こちらの準備は出来てるから、いつでも来てね。写真も用意してるのよ』
史子の用意しているという写真がどんなものなのか、早良にも察しはついている。既に大人になった自分が、遠い昔、かつて子どもだった自分に会うというのはくすぐったいものだ。ましてやそれを、今の自分しか知らないあかりにも知られてしまうのだから、余計に憂鬱だった。その上、当のあかりは早良の写真を見るのをとても楽しみにしているらしい。
「この間、志筑さんからお手紙をいただいたんです」
動き出した車の中、あかりは切り出した。
「八月、早良さんが上郷に来てくださった時に、志筑さんからの写真とお手紙をいただきましたよね? あの時のお礼状をお送りしたら、お返事をくださったんです」
嬉々とした口調には史子への好意がうかがえる。どうもあかりと史子は波長が合うようだ。早良からすれば、身近な相手同士の繋がりは安堵出来るものでもあるし、自分とは違う繋がり方をする二人がいささか羨ましくもある。
「志筑さんって、早良さんのことをたくさんご存知なんですよね。お手紙の中で少しだけですけど、伺いました」
早良の内心も知らず、あかりはあかりで、どこか羨ましげに語ってみせる。
「そういうお付き合いも素敵ですよね。小さかった頃からずっと仲が良くて、お互いにいろんな思い出を知っていて、覚えていて……大人になってからもお友達でいられるって、いいなあと思います」
しみじみと言うあかりは、やはり知らない。早良と史子がどうやって、今の関係を築いたか。友人同士としてすらまだぎこちなく、始まったばかりの関係だった。かつて早良にとって、史子は疎ましいだけの存在だった。自分を見ているような気がして嫌気が差した――もしかすると史子にとっての自分もそうだったのかもしれない。
ただ、今は穏やかな関係でいる。不思議なくらいにあっさりと、部屋を訪ねていく間柄にまで辿り着いた。恋人の紹介も済ませているし、これから、長い付き合いになるのかもしれない。さして気負いもなく早良は思っている。
「けど、君には雄輝くんがいるじゃないか」
ハンドルを握りながら、早良はそう口にする。これも以前ほどの気負いはなかった。
「雄輝くんと君だって昔からの思い出を共有してるはずだ。俺には兄弟はいないから、君たちが仲良さそうにしているのを見ると、何だか眩しく見える」
じゃれ合うようなやり取りも、一見鋭い言葉の応酬も、共に過ごしてきた時間があればこそ角の立たないものだ。そこにあるのは上辺だけではない付き合い。早良にとって眩しくないはずがない。
「仲がいいってほどではないんですよ」
この時のあかりの反応は、いつもよりもやや素早かった。
「会えばしょっちゅう喧嘩してますから。あの子、昔は素直で可愛かったんですけど、いつの間にか生意気になっちゃって……きっとお互いに歳を取っても、喧嘩ばかりしてると思います」
弟のことを話す時は、口調が顕著にあどけなくなる。気付いた早良が笑いを零すと、たちまち助手席から声が飛んできた。
「どうして笑うんですか。笑わないでください」
「済まない。……兄弟がいるのもいいな、やっぱり」
からかうつもりはなかったが、愉快そうに聞こえてしまったのだろう。あかりは拗ねた様子で俯きかけた。視界の端に仕種が見えて、早良は笑いを堪えようとする。――難しかった。
「いいことばかりじゃないんです。本当に。それは、悪いことばかりだとも言えないですけど……」
言い訳でもするみたいに、あかりが続ける。
「この間帰った時だって、背ばかり伸びて、なのに子どもっぽいままで、手がかかってしょうがなかったんです。志筑さんからいただいたお菓子だって、一人で半分以上食べてしまったくらいなんですよ」
そうは言っても、食べ盛り、育ち盛りの少年だ。目の前にお菓子があれば手も出るだろう。一日三食では事足りなかった少年時代が早良にもあった。思い返しつつ雄輝に共感を寄せていると、ふと、あかりが口を開いた。
「そうだ、お菓子! 早良さん、志筑さんのおうちへ行く前に、どこかお菓子屋さんへ寄ってもらえませんか?」
「お菓子屋さん?」
問い返す早良に、彼女は素早く語を継ぐ。
「はい。お邪魔するのに、手ぶらで行くのもどうかと思って……。何かご迷惑にならない物を買っていこうと考えていたんです」
相手は史子だ、気を遣わなくてもいいのではないかと早良は思ったが、すぐに思い直した。自分だって史子には散々世話になっている。つい先日だって、あかりとの間に起きた小さないざこざに感づかれ、ありがたいアドバイスを賜ったばかりだ。何か手土産を携えていくべきかもしれない。
「それもそうだな。すっかり忘れていた」
早良は苦笑し、近場の店に向けてハンドルを切った。助手席からはほっとしたような言葉が聞こえてくる。
「私もです。思い出せてよかった……」
「君の部屋へ行く時はいつも空手だからな。同じ感覚でいた」
「あ、私のところはいいんですよ。お土産なんてなくても」
彼女がかぶりを振ったのがちらと見えた。それで早良も、笑いながら応じる。
「そういえば、何度もお茶をごちそうになってるのにな。毎回手ぶらでお邪魔しているのも悪い。次は何か買っていく」
会いに行く時はいつでも無我夢中で、ろくに気の回らないことが多かった。それは早良も自覚済みだ。
「あまり気を遣わないでください」
申し訳なさそうにあかりが言う。
「以前アイスクリームを買ってきてくださいましたよね? あの時のがまだ、少し残っているんです。ですから、大丈夫です」
「あれ、まだ残ってるのか?」
「はい。いつも美味しくいただいてます」
彼女の口調は屈託なかった。それでも早良は多少の気まずさを覚える。次の機会があったなら、まずは彼女の部屋の冷蔵庫、どのくらいの空きスペースがあるか尋ねてからにしようと思う。
ともあれ、今日は史子への手土産だ。
「志筑さんが言うには、お菓子は用意してあるそうだ」
早良はあかりにそう告げた。
「だから、買っていくなら日持ちのする物がいいだろうな」
「そうですね。クッキーとか、そういう物の方がご迷惑にもならないですよね」
「俺はあまり詳しくない。君が選んでくれると助かる」
「え?」
訝しげな声の後、僅かな間があった。それから彼女は、思い当たったように続けた。
「あ、私と早良さんとで、一緒のお土産にするってことですか?」
「その方がいい。二人でそれぞれ買っていったら、かえって迷惑になる。俺が払うから」
わざわざ二人分の手土産を用意するのも間が抜けている。早良はそう思ったが、あかりは納得していない様子だった。すぐに、おずおずと反論してきた。
「そんな……志筑さんにお菓子をいただいたのは私の方です。早良さんにお金を出していただくのは」
「気にしなくていい。俺も志筑さんには世話になったし、何かお礼がしたかった」
穏やかに諭しても、彼女はなかなか首を縦に振らない。ことこういう局面に関しては頑固だった。
「じゃあせめて、半分こにしてください」
「駄目だ。学生がそんなことにお金を使うものじゃない」
危うく『子どもが』と言いかけた。早良の認識からしても、あかりは既に子どもではない。しかし、社会人でもない。慎ましく仕送りでの生活をしている彼女に、どうしても金は出させたくなかった。
「でも、申し訳ないです」
言い募る彼女を見て取り、早良は嘆息する。本当に、頑固だ。
車のフロントガラスの向こうには、賑やかな商店街の通りが伸びていた。この並びに目当ての洋菓子店がある。もう五分もせずに着くだろう。
議論の方も、到着までに片をつけてしまいたいところだ。
「君には品物を選ぶ役を任せたい。どうせ俺はお菓子なんて明るくもないし、口は出せない。その分、お金は出す」
努めて軽い調子で早良は言った。
「役割分担しているだけだ。単純な話じゃないか」
あかりは少しの間黙り込んだ。分の不相応さは弁えているのだろう。それ以上の反論はしてこなかった。
やがて口を開いた時には、やはり済まなそうなそぶりでいた。
「すみません、早良さん」
洋菓子店の駐車場に辿り着き、車が停まる。彼女は小声で言葉を続けた。
「何だか、かえって気を遣わせてしまったみたいで……」
「遣ってない」
早良はあかりの言葉を一蹴する。その後でぼそりと添えた。
「それに、二人分ってことにしたかったんだ」
「え……?」
「二人で行くのに、お土産が別々っていうのもよそよそしいじゃないか」
相変わらず、遠回しな物言いになった。彼女にわかってもらえるかどうか、不安があった。早良がシートベルトを外しながら視線を向けると、きょとんとした顔のあかりが映る。
たどたどしい声が返ってきた。
「あの、それって」
発言の詳細を求められても困る。早良も頑として突っ撥ねることにした。
「いいんだ。出すと言ったら俺が出す。どうしてもと言うなら、出世払いでいいから」
「わ、わかりました。ありがとうございます」
慌てたようにあかりが頭を下げてくる。それからまだ申し訳なさそうに、しかし柔らかく笑んでみせた。
出世払いの支払いを、現物で済ませてもらった気分だった。その笑顔だけで十分だと早良は思っている。思っていても口に出せないのが何とも、厄介だった。