ダスト・トレイル(3)
自室で携帯電話を手にした時、早良は少し逡巡した。些細な迷いだった。――どこへ掛けようか、と思った。
選択肢はないはずだったが、声を聞きたい相手がいた。こんな時だからこそ声を聞いて、今の思いを聞いて、少しでも不安を晴らしたいと思った。早良がどれほど想おうと、既に拒絶された相手だ。おまけに深く傷つけてしまった相手だ。どうにもならないかもしれない。早良の心があかりの方を向いていようと、あかりの心は早良へとは向かわないかもしれない。
それでも、声が聞きたかった。
もう一人、真意を確かめなくてはならない相手がいる。そのこともわかっていたが、早良はよすがを求めていた。先にあかりへと電話を掛けたかった。
アドレス帳の中の、すっかり覚えてしまった番号を選び取り、発信キーを押す。携帯電話を耳元に添えた早良の、視線の先には淡いピンク色をした手紙があった。早良ではない人間の手で開封されたその手紙を、複雑な胸中で捉える。小さく丸い、少女らしい筆跡で綴られた彼女の名前を、指先でそっとなぞる。宮下あかり。とうに忘れられなくなった彼女の有する名前。
あかりの部屋の電話は、五度のコール音の後に留守番電話へと切り替わる。三回掛けて、三回とも留守番電話に応答された。早良は嘆息し、彼女への電話を諦めた。よすがとなるものは得られないまま、今ある心だけに縋りつきながら現実と向き合うことにした。
史子は、二度のコールで電話に出た。
『――早良くん』
ぴんと張り詰めた声が呼んでくる。早良は嫌な予感を抱きながら、努めて冷静に話しかけた。
「志筑さん。たった今、うちの父から話を聞いた」
『そう……』
吐息交じりの言葉が落ちる。生気の見えないトーンだった。
さしもの早良も一瞬だけためらった。史子の様子がおかしい。問い詰めるような真似をしても平気だろうかと迷う。
結局は尋ねない訳にいかないのだが。
「あれは、本当なのか? 君が結婚を承諾したというのは」
早良が問うと、ほんの僅かな間があって、
『ええ』
短い答えが返ってきた。
事実なのか、と絶望的な思いがした。既に父親によって踏み荒らされた領域に、今度は別の、もっと強大な存在が忍び寄っている。直にそれにより蹂躙されることとなるだろう。その時も早良は、心を強く持っていられるだろうか。電話を握る手に力が加わる。
「どうしてなんだ」
思わず、追及した。
「この間は君だって言っていたじゃないか。こんなのは馬鹿げたことだって。お互いに望まないことをする必要なんかないって」
早良が続けると、史子もぽつりと応じた。
『ええ、言ったわ』
今にも崩れ落ちそうな、弱々しい口調で継いできた。
『私、今でもそう思ってるの』
「それなら、どうしてあんなことを」
『気持ちだけはこの間言ったように、早良くんと同じように思ってるわ。でも……』
「でも?」
促す早良に、答えは返らない。ただ溜息だけが聞こえ、逆にそのそぶりでおぼろげに察することが出来た。
恐らく史子は、父親に反論することが出来なかったのだろう。父親の意思に逆らうことが叶わなかったのだろう。高圧的に告げられて話し合いの余地もなかったのかもしれないし、あるいは反論こそ試みたものの上手い具合に言い含められたのかもしれない。もしくは強固な理論武装の前に敗れ去ったのかもしれない。
早良の知る志筑議員はやや強引な男だった。愛想のよさと社交性を武器にしながら、思うことは全て叶えてしまうような人間だった。こと娘に関しては全ての面で自らの意向を反映させ、史子の意思など気に掛けてもいないように見えていた。――もっとも、他人から見た親子関係にどれほどの正確さがあるものか、早良にはわからない。志筑家にもそこの人間しか知れない家族だけの顔があるかもしれない。ちょうど早良と早良の両親が、家族らしさを装うことすら出来ないように。
正直に言えば、史子が父親と話をするといった時点で疑わしくはあった。彼女の言葉は信用に値するものだったが、彼女にそれが出来るとは到底思えなかった。彼女は人がよく、また気弱過ぎる。いざとなれば従わされてしまうだろうと思っていた。
「お父さんに何か、言われたのか」
どう尋ねようか迷い、早良はそんな風に問いかけた。
やはり返答までには間があった。史子も逡巡し、言葉を選んでいるのかもしれない。黙っていた。表情が見えない以上、早良も急かすことは出来なかった。
沈黙が続き、微かなノイズが耳障りになってきた、その時だった。
『――早良くん』
史子が再び、早良を呼んだ。
電話を掛けた際、初めに聞いたのと同様に、ぴんと張り詰めた声だった。
「どうした?」
聞き返した早良に、史子は潜めた言葉で告げてくる。
『今から、外で会えない?』
「今から?」
早良はとっさに時計を見た。部屋の壁掛け時計は八時過ぎを差していた。時間的には問題ない。ただ、酒を飲んでいるので車は出せない。
「構わないが、どこで会う?」
『この間のお店、覚えてる? 私たちの後輩がやっているところよ』
史子が口にしたのは、あのバーのことだろう。郊外の雑居ビルでひっそりと営業するバーへ、以前招かれたことがあった。あれは五月のことだった。
「ああ。そこへ行けばいいのか」
『お願い出来る?』
史子は言って、そこから更に声のトーンを落とした。
『家で話すと、たとえ電話でも聞かれてしまうかもしれないから……』
「わかった」
彼女の家の事情は漠然と理解していた。警戒する気持ちも十分にわかる。
早良にも他人事ではなかった。今夜まではまるで知らなかったが、自分宛ての手紙を自分以外の人間に取り上げられ、中まで覗かれていたのだ。以後は警戒しておくに越したことはない。家族であろうとも、かけらも信用してはならないということだろう。
信じられるものは僅かだ。あるだけましなくらいかもしれない。
だから早良は、まだ心をしっかりと持っていられた。
「これから、すぐに向かっていいのか?」
『そうね。一時間以内に行くわ』
「じゃあ俺も、この後出る」
『ええ。もし早良くんの方が先に着いたら、お店の中に入ってて。向こうに連絡しておくから』
そう言った後で、史子は少し笑ったようだ。自嘲めいた笑い方だった。
『今は、私……酷い顔をしてるから。早良くんはきっとびっくりするでしょうけど、気にしないでおいてね』
意味深長な物言いをされ、早良も内心訝しがった。これからすぐに会う相手にどうかしたのかと尋ねる気は起こらなかったが、何かはあったのだろうと思う。
早良の父親の言葉と、史子の今の態度。そこに至る何かが、彼女と彼女の家に起こってしまったのだろう。そしてそのせいで、早良もまた追い詰められている。めまぐるしいスピードで押し流されようとしている。
縋るものは自分の気持ちしかない。この心しかなかった。それでも、それだけは手放さずにいられたらと思う。
心すらなくなってしまえば、早良の手元には何も残らなくなる。せっかく、初めて手に入れた想いだ。たとえこの先よすがにすらならなくとも、失くさないよう、大切にしておきたかった。
身支度を整えた早良は、両親に何も告げず、家を出た。両親も早良の外出には気付いたはずだが、行き先を尋ねるどころか玄関へも出て来ようとしなかった。恐らく、行き先に心当たりでもあるのだろう。
だらだらと続いた梅雨が明け、からりと晴れた夏の夜だった。早良は大きな通りまで歩みを進め、空車のタクシーを拾った。件のバーの名前とおおよその位置を告げる。愛想のない運転手がタクシーを流れに乗せると、早良は鞄から手紙を取り出した。
淡いピンクの封筒だ。中の便箋も同じ色をしていた。切手に押された消印は五月の日付。綴られていた文面は早良の見たことのないもので、しかしそれを記した文字はかつて目にした、最早懐かしい印象のあるあかりの字だった。
いかにも少女らしい字を、早良はゆっくりと追い始める。
『早良さん、こんにちは。先日はとても丁寧なお返事をありがとうございました。また返事を差し上げたらご迷惑かなとも思ったのですが、どうしてもお礼がしたくて、こうして手紙を書き始めている次第です』
五月の頃を思い起こし、懐かしい気持ちに囚われる。あの頃、あかりは既に故郷を恋しがっていたはずだった。史子に招かれてバーへ行ったその帰り、早良はあかりと出会っていた。涙を零す彼女と、道で偶然行き会っていた。
しかし、今ならわかる。あれはきっと偶然ではなかった。酒に酔った頭が、途方に暮れた心が、彼女を求めていたのだと思う。
『早良さんのお返事、とってもうれしかったです。早良さんには何だかご面倒ばかりお掛けしているようで、申し訳ないなと思っています。でも早良さんが優しくしてくださって、私のことを心配してくださっているのだとわかって、強い気持ちにもなれたんです。こっちにいても私は、一人ぼっちじゃないんだって、すごくすごく思えたんです』
手紙の中には、強がりで嘘つきで、なのに真っ直ぐな眼差しを早良へと向けてくる彼女がいた。
五月の宮下あかりがそこにいた。