Tiny garden

ダスト・トレイル(2)

 思えば、迂闊だったのだろう。
 最初に手紙を貰った時、非常に面映く感じた。それは手紙の文中で丁重に礼を言われたことへの困惑ももちろんだったが、二通の手紙が勤務先に届けられてしまったことについてもそうだった。雄輝もあかりも、早良の住所を知らなかったのだから当然のことだ。しかし職場の連中の目も気になる。出来れば止めて欲しいと思い、もしかしたらあるかもしれない次に備えて、返事を出した際のリターンアドレスには自宅の住所を記していた。あかりたちに、自宅の住所を教えていた。
 まさか、と思っていた。この家で自分宛てに届けられた郵便物が、自分の手に渡らないことがあるなどと、推測すら出来なかった。自分の権利はよそほど自由ではなくとも、確かに保証されているのだと思っていた。独善的な父親も、そこまで踏み込んでは来ないだろうと思っていた。ある意味で早良は父親を信用していたのだ。秘書におかしなことを吹き込んでも、史子との結婚を強引に推し進めようとしても、将来への選択権をまるで与えようとしなくても、この家にいる限りは息子らしい扱いをしてくれるのだろうと――信じていた、ようだった。現に仕事以外のことにはあまり干渉せず、早良が何を趣味にしようと、どんな車を買おうと気にも留めなかった。外出の際にもどこへ行くのかと詮索してくることはなかった。それは、どうやら、表面的なものに過ぎなかったのだろう。

 もう一つ、悔やみたいことがあった。
 あかりは早良に対して、手紙のことを何も言わなかった。住所は知っている、と言っただけだ。
 彼女なら、早良の返事に対してもう少し言及してきたのではないかと、今になって思う。彼女なら返事を貰っておいて、礼の一つも言わないなどということはないはずだった。あるいは更に折り目正しく、返事に対する返事が出来ずに申し訳ないと頭を下げてきたかもしれない。もし手紙のやり取りが一往復で終わっていたなら、彼女は恐らくそうしていただろう。どうして彼女がそうはせず、手紙のこともほとんど言及しなかったのか、気付けていればよかったと深く悔やんだ。
 現実には一往復ではなかった。酷いやり口で打ち切られていただけだった。彼女の手紙は早良の元には届かず、それを早良もあかりもお互いに知らずにいた。返事もせず、手紙について全く言及しない早良を、あかりはどう思っただろう。
 彼女の存在を守れなかった。父親に暴き立てられてしまった。その事実に早良は打ちのめされていた。
 手の中で、淡いピンクの封筒がまだ震えている。中に綴られた文面は知らない。早良の知らない、しかし父親の目に触れてしまったあかりが、そこにいる。

「よくもこんな真似を」
 怒りの声を上げる早良を、父親はかぶりを振って押し留めた。
「こんな真似をと言うなら、お前の方こそだろう。せっかく史子さんという素晴らしい女性がいながら、よその女に目を向けるとは。近頃は夜間の外出もしているようだしな、早めに釘を刺しておこうと思ったまでだ」
 恩着せがましいくらいの物言いだった。神経を逆撫でされた早良は唇を噛み、父親へ鋭い視線を向ける。
 息子の視線を意に介さず、父親は尚も続けた。
「性質の悪い女に引っ掛かった訳ではないらしいな。そうだとしても縁を切っておくのに越したことはないが……まあ、お前がよそ見をするのもわかる。史子さんほどではないが、いいお嬢さんのようじゃないか」
 父親の目が手紙へと向けられる。
 反射的に、早良は手紙を隠した。両手で覆い隠し、支配者の視線を逃れようとする。それを見た父親はおかしそうに笑った。
「しかしな、克明。そのお嬢さんは若過ぎる。まだ大学に入りたてだという話だろう。お前があちこち連れ歩いて、振り回していい相手じゃない。今のお前が騒げばその子にまで飛び火する。迷惑が掛かるんだ。違うか?」
 噛み締める奥歯が音を立てる。
 悔しかった。反論の出来ないことが。彼女について知られてしまったことが。
「それに、史子さんのことはどうなる? あんなにきれいで、よく出来た女性はよそにもいない。お前がおかしな真似をすれば史子さんだっていい思いはしないはずだ。せっかくのいい話が破談になってしまってはもったいない。くれぐれも弁えておくようにな」
 一体何を弁えろと言うのだろう。ろくに選択肢も与えずに、ひたすら自分の敷いたレールの上を辿れという父親に対し、早良は何を弁えるべきなのだろう。この上望まない結婚までさせられるのなら、早良の手元に残るものなどなくなってしまうのに。初めて抱いた想いすら取り上げられてしまうのなら。
 そこまで考えを巡らせると、不意に史子のことが思い浮かんだ。彼女もまた敷かれたレールの上だけを歩く人間であり、そして初めて、レールを敷く人間に対して反意を示そうとした存在でもあった。彼女が反意を持ったのは早良よりも先だった。それがなければ早良の意識の変革もなかったのかもしれない。史子があの時、彼女の父親に対する違和感を口にしなければ、自分も反意を持とうとは思わなかったかもしれない。

 深く息を吸い込んだ。
「――嫌です」
 早良は、きっぱりと告げた。
「志筑さんは、俺にとってはただの友人です。結婚する気にはなれません」
 その言葉に居間の空気が変質した。張り詰めていたものにひびが入り、冷たい風が吹き込んできたようだった。現に母親が身を震わせ、父親はすっと眉を潜めてみせた。
「どうしたんだ、克明。まさか本当に、性質の悪い女に引っ掛かったんじゃないだろうな?」
「違います」
 尚も鋭く切り込んでいく。怒りのせいか、それとも別の感情のせいか、一度浮かんだ言葉を止めることは出来なかった。
「志筑さんと二人で話をしたんです。父さんたちの思惑は知っていましたから、何度か話をしました。そして、お互いにそういう気持ちもないのに結婚するのはおかしいと、同じ結論に達しました。俺も志筑さんも、望まない形で未来を決められるのは嫌だと考えています」
 早良が史子のことを口にすると、父親は長く息をついた。あからさまな不快さがうかがえたが話を遮ろうとした訳ではないらしく、更に続けることが出来た。
「大体、父さんの言う『いい話』とは何ですか? 俺たちがこの先の未来のことを勝手に、望みもしないような形に定められてしまうことが『いい話』だと言うんですか? 俺は嫌です。自分でそうしたいと思うことがあれば、そのくらいは自分で決めて、掴み取りたい」
 欲しいものがあった。
 望みさえすれば、大抵のものは手に入るはずの早良でも、どうしても欲しくて堪らないものがあった。父親から許されないもののうちの一つであり、それだけは望む通りにさうえいかないものでもあった。手を伸ばせば指先だけをかすめてゆき、ふと目を逸らした瞬間に見えなくなってしまう。追い駆けていくだけで掴み取れるのかどうかはわからず、しかしどうしても、許されなくても、望む通りにいかなくても、欲しくて欲しくてしょうがないものがあった。いくら制しようとしても無理だった、心はいつもそちらを向いていた。いつしか意識をも強く引きつけるように、心でそれを求めていた。
 あかりの存在を欲していた。
 彼女と共にある未来が欲しいと望んでいた。
 早良が父に対して反意を明確に示したのは、今日が初めてだった。
「お前も口答えをするようになったか」
 父親は不快感を隠さなかった。しかし語調にはまだ余裕が垣間見えていた。微かに笑んで、応じてきた。
「『いい話』とは何か、教えてやろう。――それはお前の為になることだ」
「そうは思えませんが」
 言い返しかけた早良を御すように、父親が片手を振ってみせる。
「お前はまだ若いからそれがわからず、一時の感情に流されているだけだ。もっと大局的に眺めてみるといい。史子さんとの結婚で何が手に入るか。お前にどれだけの利点があるか。そして会社にもどれほどのプラスになることか、冷静に考えてみればわかるはずだ。あれほど熱心に働いてきたお前なら、わかってしかるべきだ」
 わからない訳ではない。史子の父親は国会議員、早良の父親は早良の勤める会社の社長だ。その子ども同士の結婚がどういう意味を持ち、どれほどの人間に利益を齎すか、早良も考えたことはあった。かつてはそれすら飲み込んでしまおうかと思っていた。
 しかしどうしても、不可能だった。確かに一時の感情なのかもしれない。今はあかりを想っているから、冷静になれていないだけなのかもしれない。だからと言ってこの気持ちが消えうせてしまうことは今の早良には想像もつかない。まして抑え込む気などさらさらなかった。
 大人になるにつれ、早良は多くのものを失った。心は摩滅し、鈍くなり、ただ漠然とした苛立ちと不信とを抱き続けてきた。その心を呼び覚ましたのは感情だった。一時の感情がいつしか膨れ上がって、心を揺り動かし、衝き動かして、向かうべき先を教えてくれた。感情に、心に従わずにいるのは不可能だった。そうあるのが自分にとって最も正しいのだと、最も自然なのだとわかっていた。
「父さんの言うこと、わからなくはありません」
 早良は更に語を継いだ。
 父親の言う、『お前の為だ』という言葉が嘘ではないことも知っていた。少なくとも父はそう思い込んでいる。きっと史子の父親もそうなのだろう。
「でも、俺は志筑さんといることが俺の為になるとは思えません。確かに会社の為にはなるでしょう。ですが、その為に自分と、志筑さんの心とを犠牲にするつもりはありません」
 いつになく強い語気で続けた。
「お互いに話し合ったんです。俺も志筑さんも、どうしても結婚なんて考えられないと思っています。お互いにです。俺たちは二人揃って、父さんたちが決めようとしている未来を望んではいないんです」
 居間に、風が吹き込んでいた。膠着していた何かを打ち崩し、破壊していく強い風が吹いていた。そうして入ったひびは広がってゆき、やがて接ぎ合わせることさえ出来なくなる。
 家族らしく装われた時間は、もうどこにもなかった。
 一瞬の間を置いて、父親が鼻白んだ様子で言った。
「史子さんはお前との結婚を承諾したと言っていたぞ」
 早良に対し、高圧的な口調で告げてきた。
「あの子は聞き分けのいい、よく出来た子だ。お前は口答えばかりするようになった、どうしようもない奴だが」
 自分に対する非難はどうでもよかった。これまで通りに飲み込めた。しかし――。
 思わず、息を呑んでいた。
「まさか」
 呟くように言った。まさか。
 志筑史子が、承諾したというのは。
「本当に、志筑さんがそう言ったんですか」
 驚きに顔が強張っていくのがわかる。父親の方も仏頂面で応じてきた。
「さっき、ついさっきだ。先方から電話があった。お前と結婚する気があると史子さんが言ったそうだ。だからこちらさえよければ、七月のうちにでもお披露目の集まりをしようと」
「嘘でしょう。だって彼女は」
「疑うのなら自分で確かめてくるといい。私もお前の気が変わるまで、お前の顔など見たくない」
 吐き捨てられた父親の言葉に、早良はすぐに従った。
 確かめてみなくてはなるまい。そう考え、居間を飛び出していた。手の中にあかりからの手紙を隠したまま、信じがたい思いで自室へと駆け込んだ。
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