二度目の冬の現実(1)
「部長さんっ」「え?」
呼ばれ慣れない名前の後に、ぽんと肩を叩かれた。
振り向けば背後には、明るい笑顔の早坂先輩がいた。
毛先がくるりとカールした、つややかな黒髪は今日もきれいだ。制服の上に羽織った白いコートもよく似合っていた。
そして俺はその顔を見た途端、口元が嬉しさに緩んでしまう。
それを必死に押し隠しながら答えた。
「部長なんて呼ぶから、誰かと思いましたよ」
「だって部長さんじゃない。新部長」
平然と言う先代の部長殿が、写真部に顔を出さなくなってから久しい。
OG訪問したいとは言っていたものの、今の早坂先輩は受験生でもある。それが一段落するまでは先輩らしいのんびりもできないらしい。
もっともそんな十二月にも、俺と早坂先輩はちょくちょく話をしていた。
もちろん前部長と新部長の引き継ぎという用件ではあったけど――メールしたり電話したりと今まで以上に密に連絡を取り合っていて、正直なところめちゃくちゃ楽しかったし、嬉しかった。『写真部通信』の編集の仕方も、来年度の新入生歓迎会用の例文も、新入部員勧誘のやり方もじっくり教えてもらっていた。
ただ、顔を合わせたのは本当に久し振りだ。同じ高校に通っていても、二年と三年は教室の場所も違うし、部活でもない限り意外と会わないものだった。
「肩書上は確かに部長、なんですけどね」
俺は先輩に首を竦める。
「どうも呼ばれ慣れなくて。部の連中に呼ばれても、ぴんと来ないんすよ」
「あらら。まだ後輩気分が抜けてないと見えるなあ」
そう言って笑う先輩は、二人きりで話した文化祭の夜から変わりないように見えた。
今は、卒業を控えてるって実感は持てたんだろうか。れっきとした受験生なはずの早坂先輩だけど、他の先輩がたと違ってプレッシャーを背負っているようにも見えない。成績もいいと聞くし、きっとすんなり通るんだろう。
そうこうしている間にも季節は冬になり、外では雪がちらつくようになった。
カレンダーはもう残り少なく、来年の話をしても鬼が笑わない時期だ。そしてこの冬が終わり、春がやってきたら、先輩は高校を卒業してしまう。
放課後の廊下も学期末と年の瀬を控え、どこかそわそわしているように見える。
そんな中で早坂先輩だけが、いつも通りのマイペースを貫いているようだ。きっと先輩は卒業したって、こんなふうに笑っていられるんだろうな。
何だか俺の方が、妙な感慨に囚われてしまった。
言葉が出なくなって黙っていると、先輩が尋ねてきた。
「ところで清田くん、クリスマスパーティの計画は進んでる?」
「え? ああ、はい」
唐突な話題の振られ方に、俺はぎこちなく頷いた。
部員の少ない写真部でも、一応クリスマスには皆でパーティらしきものをやるのが通例だ。
何の因果か寂しい連中ばかり集まる部だから、例年出席率もすこぶるいいらしい。まあ、俺も他人のこと言えないけど。
「こういう時こそ、先代の部長に頼る時でしょう!」
早坂先輩は得意げに胸を張った。
「もしもわからないことがあったら、何でも気軽に聞いてね。どのお店が穴場かとか、予約する時のコツとか、美味しいケーキのお店とかもアドバイスできます!」
それはすごい、さすが早坂先輩だ。
だけど俺は頭を下げなければいけなかった。
「すみません、パーティの計画はほぼ決まっちゃってて」
「え? そうなの?」
意外そうな顔をされたけど、もう十二月も半ばってところだ。なのにクリスマスパーティの予定が経ってないなんて、さすがに遅い。予約するなら早めにしないと間に合わないんだから。
「はい。ケーキもチキンもきっちり予約済みっす」
今度は俺が得意げに言った。
早坂先輩は目を瞬かせている。
「全部予約できてるの?」
「ええ!」
「計画も全部ばっちり?」
「もちろんっすよ!」
「会場はどこにするか決めた?」
「ああそれ、俺の部屋でやることにしたんです。お金かかんないし、今の部員数なら余裕っすから」
まあ、余裕ってのは言い過ぎかもしれない。ちょっときちきちかな、ってレベル。
だけどいいんだ、その分のお金を浮かせて飲み食いしまくるって決めたんだ。美味しいものを食べてれば、部屋の狭さなんて気にならなくなる。クリスマスっていうのはそういうもんだ。
「そうだったんですか……」
相当びっくりした様子の早坂先輩が唸る。
それからぱっと笑顔になってくれた。
「さすがは新部長さん。手際がよくて頼りになる!」
「い、いえいえ、それほどでも」
面と向かって誉められると照れる。
しかも相手はあの先輩だ。少しの間会わなくたって、まるで変わったところなく接してくれる先輩の、明るさや優しさ、可愛いところが好きだ。
俺の気持ちも何一つ変わりなく、早坂先輩が好きだった。
誉められて嬉しかったのは事実だけど、まだまだこんなもんじゃ先輩と釣り合わないのもわかっている。早くそうなりたいって逸る気持ちを抑えつつ、新部長としての十二月を過ごしていた。
「そっかあ。先代部長の敏腕ぶりを見せつけるチャンスでしたのに」
早坂先輩は、今度は何だか悔しそうに溜息をつく。忙しい人だ。
俺は笑いながら尋ねてみた。
「ところで先輩はクリスマスイブ、空いてます?」
すぐに先輩はにっこり笑って頷いた。
「お蔭様でフリーです」
「なら、一緒にパーティしません? 部の連中も先輩のこと呼びたがってたんすよ」
「本当? 遠慮せずお邪魔しちゃうね。受験勉強の息抜きに」
迷わず答えてくれた先輩が、その後で呟く。
「しかも清田くんのお部屋ですから。絶対行かなければです」
「ああ、こたつもありますよ」
今年は写真を撮る為に、少し早めに出していた。
せっかくだから早坂先輩にも入りに来てもらいたい。何と言ってもこたつ大好きな人だからな。
「楽しみにしています」
先輩はそう言うと、くるりと身軽に踵を返す。
「じゃあ、詳しく決まったら連絡してください! 部活、頑張ってね!」
手を振りながら去っていく先輩の、白いコート姿から目が離せなかった。
こうして学校で会えるのもあと少し、か。
せめて同い年だったらよかったのにな。後輩って難しいよな。たった一つしか違わないのに、それだけで何もかも違ってしまう。
卒業してもOG訪問するって、早坂先輩は言ってくれた。
だけど現実にはどうだろう。引退後、まだ一度も写真部に来ていない先輩に、ほんの少しの不安があるのも事実だった。受験が済んで大学生になったら、先輩は今以上に忙しくなるんじゃないだろうか。
この先ずっと会えなくなるわけじゃない――それは、わかっているけど。
俺の複雑な思いはさておき、パーティの準備は滞りなく進んだ。
そして迎えた、クリスマスイブ当日。
俺の六畳の部屋には予定通り、写真部の連中、そして早坂先輩がやってきた。
こたつの上にチキンとケーキを置くと、それだけでもう容量オーバー気味だった。床の上に並んで座れば肩がぶつかる狭さだったけど、誰も文句を言わずにクラッカー鳴らして、シャンメリー開けてと大はしゃぎだった。予約していたチキンもケーキも、とびきり美味しかった。
早坂先輩は誰より一番楽しそうにしていた。シャンメリーの蓋が勢いよく飛び出して、天井にぶつかった時のびっくりした顔。ケーキを口に運ぶ時の幸せそうな顔。写真部の連中と思い出話に花を咲かせる、懐かしそうな顔――その一つ一つが目に留まる度、何とも言えない気持ちになった。
嬉しいんだけど、幸せなんだけど、やっぱり寂しかった。
もうすぐ、早坂先輩がいるのが当たり前じゃなくなってしまう。
部活に出て、部の連中と顔を合わせた時、そこに先輩の笑顔がないのが現実になってしまう。
そうして先輩は写真部からも、高校からもいなくなって、そう簡単には会えない人になってしまう。
ケーキをのろのろ食べながら、俺はずっとそんなことを考えていた。
お蔭でふと気づいた時、ケーキの上に乗っていた真っ赤ないちごが消えていた。変だなと思って視線を向けたら、先輩が笑いを堪えていたので、犯人はすぐにわかった。
――ちゃんと言ってくれれば、快くあげたんだけどな。
パーティは二時間ほどで終了した。その後は順次解散、帰宅と相成る。
帰る必要のない俺と、後片づけを買って出てくれた早坂先輩とが最後まで残っていた。先輩はごみの分別やら、食器洗いやら、残ったケーキの処分やらを手伝ってくれた。お蔭で食べ物はちっとも残らなかった。
それも全て終わってしまうと――、
「もうちょっとだけ、いてもいいかな」
言うが早いか、早坂先輩はこたつの中に滑り込んだ。
俺が答える暇もないほど、あっと驚くスピードだった。
そして呆然とする俺を見ながら小首を傾げてみせる。
「寒いから暖まってから帰ろうと思って。駄目?」
そんなふうに聞かれて、駄目と言えるはずがありません。
俺はすぐに頷いた。
「いいすよ。お茶でも淹れましょうか」
「ありがとう、お願い。ちょっと温めでね」
「わかってますって」
何でもないように答えたけど、内心はそう穏やかでもない。
だって、日が暮れてしまった。
カーテンの隙間から見える外はもう真っ暗で、おまけに雪がちらついている。二人きりになった部屋は妙に静かで、そこに先輩の明るい声が響くと、否応なくどぎまぎする。
今日はクリスマスイブだ。
イブの夜に俺の部屋で二人きりだ。
何というか、いろいろと期待しちゃうじゃないか。いや、期待よりもむしろ、不安の方がでかい。この期に及んで俺は、先輩への気持ちを抑え切れる自信がない。
今の俺じゃ釣り合わないってわかってるのに、雰囲気に呑まれるみたいにうっかり伝えてしまいたくなったら、どうしようか。
好きな人と二人きりの空間で、意識していることを悟られないように、自然に接することなんてできるだろうか。
あれこれ葛藤しつつ、温めのお茶を淹れてこたつまで持っていく。
「はあ、暖かーい」
早坂先輩はこたつテーブルの上に突っ伏して、至福の表情を浮かべている。テーブルの上には緩くカールがかった黒髪が、流れるように広がっていた。
「お茶、どうぞ」
「ありがと」
「いえ」
俺は湯呑みを置いてから、そのつややかな髪と、先輩の表情とを盗み見る。
こんなに近くにあるのに直視することもできない。自分の部屋にいるのに、まるでくつろげる気分じゃなかった。
ふと先輩が顔を上げ、ぼんやり突っ立っている俺に尋ねた。
「清田くん、座らないの?」
「え? いや、その」
俺がまごつけば、微かな苦笑を向けてくる。
「自分の部屋なんだから、楽にしたらいいのに」
俺は上手い断り文句が見つからず、結局こたつの傍に座った。膝から下だけを突っ込んで、先輩の脚とぶつからないようにする。
早坂先輩はどう思ったのだろう。少し、怪訝そうにしていた。
「もしかして、疲れてる? ごめんね、長居しちゃって」
「い、いえ、そんなことないっす。ちょっとお腹がいっぱいで」
「眠くなっちゃった? いいよ、寝ても」
あっけらかんと言う先輩に、俺は慌てて首を横に振る。
「まさかそんな、先輩の前でそんなことはできませんって!」
「私の前で寝たことあったじゃない。部室で」
まあ、ありましたけど。あれはあれ、今は今。
早坂先輩が傍にいるのに、眠くなるなんてことはもはやあり得ない。
「あんま気にしないでください。ほら、お茶どうぞ」
俺が早口になって湯呑みを勧めると、先輩は眉根を寄せながらもそれを受け取った。
しばらく、静かになる。