秋の祭典(2)
「お願い?」俺が聞き返すと、早坂先輩は視線をゆっくりとキャンプファイヤーの方に動かす。
そして一呼吸置いてから、言った。
「次の部長、やって貰えない?」
口調自体はごく何気なく、息をするようにたやすく言われた。
だから俺は、危うく頷きかけた。
「はい……ええっ!?」
ぎょっとして先輩の顔を見る。
先輩は相変わらずキャンプファイヤーを見つめている。だけどその口元が、笑いを堪えるようにぴくぴく引き攣っていた。
「あの先輩、ま、マジっすか。本気で言ってます?」
当然だけど俺は慌てた。
俺が部長なんてあり得ない。
人の上に立てる器じゃないし、皆をまとめられるようなタイプでもないのに。
これまでは早坂先輩が部長を務めていた。実際、先輩はこの上なく部長に向いていたと思う。びしびし皆を統率したり指導したりするタイプではないけど、柔らかく、さりげなく、皆を動かす力がある。
そして俺にはそんな力はない。あるわけがない!
「うん」
造作もなく顎を引いた先輩は、その後たまらずといった様子で噴き出した。
「そんなに慌てなくてもいいじゃない。別に総理大臣になってって言ってるわけじゃないよ」
「い、いや、そうですけど」
そりゃ写真部は他のクラブと比べても規模は小さいし、部員も毎年ぎりぎり二桁だ。
それを束ねる部長なんて権力があるわけでもなし、一割程度の確率で回ってくるちゃっちいポストに違いないだろう。
だけど俺みたいな、無辜の民を地で行く人間にとってはおおごとだった。『長』の付くポストになんて就いたことがない。せいぜい小学校の修学旅行の時、ジャンケンで負けて副班長になったくらいだ。
「次の部長を選ぶに当たってね、他の子たちに聞いてみたの」
笑いをどうにか収めた後、早坂先輩は俺に言う。
「そしたら皆が口を揃えて、清田くんがいいって。君は真面目に部活をやっているし、出席率も一番いいからって」
「皆が……?」
あいつら、自分が面倒なポジションに就きたくないから言ったんじゃないだろうか。俺は不信に囚われた。
だって俺、別に真面目じゃない。
「私も同じように思ってたの。やっぱり清田くんは誰より真面目にやってくれてたよね」
おまけに早坂先輩は、俺を買い被っている。
「皆が部活に出て来ないような日も、君だけはちゃんと顔を出してくれたし」
それはそうだ。
今更言うまでもなく、俺の写真部に対するモチベーションを支えてきたのはひとえに早坂先輩の存在だった。
早坂先輩に誘われたからカメラを持つようになったし、先輩に会えるからなるべく部活に出ようと思ったし、先輩が見てるから真剣にやろうと思った。
他の連中がサボってる時でもサボらずにいたのは、先輩と二人きりになれるからだ。
自分でも言い切れる。こんな下心満載の奴が、真面目なはずもない。
冷や汗さえ掻き始めた俺に、だけど早坂先輩は言う。
「満場一致で推選されてるんだよ。後は本人の気持ち次第。どうかな?」
「どうって」
俺はぐっと言葉に詰まる。
先輩の前ではいい顔をしたい。でも、部長なんて荷が重過ぎる。
「お、俺なんかでいいんすか」
「うん」
「いや、その、即答されても……」
どうしよう。途方に暮れる俺を、早坂先輩は期待に満ちた眼差しで見つめてくる。
俺だって、早坂先輩のことを傍でずっと見つめてきたはずだ。その先輩が部長としてやってきたことを、同じように俺もできるだろうか――答えは、考えなくてもわかる。
頭を抱えて悩む俺を見かねたんだろうか。
「本当はね」
ぽつりと、早坂先輩が呟くように言った。
「君にお願いしたい理由、他にもあるの」
俺は思わず顔を上げる。
隣に立つ先輩が、その時小さく微笑んだ。
「私、もうじき引退だけど、まだ実感が湧いてないんだ」
「実感、ですか」
「うん。部活の引退も、大学受験も、卒業も、全部本当のことじゃないみたいな気がするの」
三年生の先輩が、奇妙なことを口にする。
指先にくるりと髪一房を巻きつけてから、続けた。
「クラスの友達はね、事あるごとに『これが最後だね』って言うの。最後の一学期、最後の夏休み、最後の期末テストに最後の文化祭、最後の高校生活一年間――だけど皆が言うほど、私は、何もかも最後だなんて思えない」
俺は、声を出せなかった。
「まだ私にはもう一年、残ってるんじゃないかって気がして。私はこの高校に残って、写真部でもう一年過ごせるんじゃないかって、そんな気持ちになってるの」
何も言えないまま、いたずらっぽく笑う早坂先輩を見ていた。
「おかしいよね。別に留年の予定はないんだけど」
その顔を見て、俺は無性に切なくなる。
本当に、先輩が卒業しなきゃいいのに。
もう一年、この高校にいてくれたらいいのに。
それで来年も一緒に写真部で過ごせたら最高だ。
だけど、そうはならない。
早坂先輩だってわかっているから言うんだろう。
「私がそんなだから、うちの部の空気もいつものんびりしてたでしょう」
先輩は尚も言葉を続ける。
いつだってマイペースな人だった。ちょっと天然だとも思っていた。
だけどそれ以上に、温かい人だった。
「最後の文化祭だから特別なことしよう、なんて思わなかった。今年も、写真部の皆と一緒に、いつも通りのんびりやろうと思ってたの」
俺を見上げて、柔らかい口調で言う。
「だからね。これからものんびりしてて欲しいの」
のんびり屋の先輩が、言う。
「これからもずっと変わりなく、のんびりしてて、皆が好きな時に顔を出して、好きなように活動できるような部であって欲しいの」
そうして恐る恐る手を伸ばしてきて、俺の肘を掴んだ。
縋るようにぎゅっと力を込めた先輩が、俺に言う。
「清田くんだったら、それができると思って」
「俺が?」
「うん。だって私と君って、似てるもの」
早坂先輩の言葉に、俺はますますびっくりした。
「似てます? 俺と先輩……」
「似てるよ。のんびりしたところも、マイペースなところも、すごく似てると思った」
そう、かなあ……。
確かに今まで、早坂先輩と俺には似たところがあるな、と思ったことがあった。
幸せだなあと思う瞬間とか、他のことがどうでもよくなるような温かい時間とか、食べたくなる物の好みとか、ふと考えついたことの、その中身とか。
でもだからって、部長なんてやっていけるだろうか。
俺と先輩は決定的なところが違う。
「できるよ、清田くんなら」
内心を読んだみたいなタイミングで、先輩は俺の肘から手を離した。
代わりに俺の肩をぽんと叩く。
「入部したての頃はケータイでしか写真撮ったことなかった清田くんが、今じゃあんなに素敵な写真を撮れるようになったじゃない」
「――でもそれは、先輩のお蔭で!」
思わず声を上げれば、早坂先輩はまた少し笑った。
「だとしたら、嬉しいな。清田くんを写真部に誘ったのは私だから」
そうだ。
早坂先輩に勧誘されていなければ、そもそもカメラを始めることもなかった。
「前に清田くんが写真部楽しいって言ってくれた時も、すごく嬉しかったの」
先程までの感傷を振り切るように、先輩は明るく語る。
「私も写真、大好き。私、マイペースでのんびり屋だから、楽しい瞬間も幸せな時間も味わい切れないことも多いけど、写真に残せばいつでも思い出を振り返って、味わい返すことができるから」
それを聞きながら、俺は部室に展示されている先輩の写真を思い出す。
四季の思い出。
早坂先輩の、一年間の思い出。あんまん、わたあめ、プリン、そしてみかん――どれも覚えがある。確かにそれを食べてる時、先輩は幸せそうだった。
「清田くんの写真もそうなのかなって、見た時に思った」
「俺は……そうですね。確かに、思い出です」
きれいなものを撮ってやろうとか、上手く撮りたいとか、思ったことも何度もある。
だけど手元に残っているのは、結局思い出深い写真だけだ。
春夏秋冬。俺にとっての、一年間の大切な思い出。
「清田くんの写真、素敵でした」
早坂先輩は優しい声で言ってくれた。
「だから君に、写真部のことをお願いしたいの。うちの部の、今ののんびりした空気、なくならないように。清田くんならきっと、私の分まで写真部を大切にしてくれると思うから」
長い髪が揺れて、長い睫毛が瞬きをした。
「そして、私がOG訪問する時は歓迎して欲しいな。多分、帰ってきたくなっちゃうと思うんだ。私、まだ実感ないから……卒業してからも、間違ってこの学校に来ちゃうかもしれないし」
先輩はそこでおかしそうに笑った。
だけど俺は、唇を引き結んだ。
言わなくちゃいけないと思っていた言葉を思い出しつつも、それよりも強い感情の波が押し寄せてきて、思い留まる。
早坂先輩がどれほど写真部を、ここで過ごす時間を大切に思っていたか。
それが痛いほど伝わってきた。
先輩にとっての写真は記憶そのものだ。幸せそのものといってもいい。
俺は今まで、もっと邪な気持ちでシャッターを切り続けてきたけど――早坂先輩に誉められたい、認められたいなんて思って部活を続けてきたけど、急にそれが恥ずかしくなってきた。
俺は、早坂先輩みたいになりたい。
もっと純粋な気持ちで写真を楽しんで、そして先輩が大切に思っている写真部を守りたい。
ずっと、早坂先輩が好きだった。
今日はその気持ちを打ち明けようと思っていた。
だけど今は思う。このままの俺じゃ、先輩とは全然釣り合わない。先輩の物寂しさを和らげるのは、俺や他の誰かの言葉なんかじゃなくて、うちの部に存在しているようなのんびりした空気そのものだ。
先輩が何よりも大切にしている写真部の、あの空気を守ること。それから、先輩が『OG突撃訪問』を敢行した時に、何も変わらない空気で迎えてあげること。そういうことこそが、何よりも先輩の心を和ませるだろう。
だったら俺が、早坂先輩を大切に思う俺がすべきことは、たった一つだ。
「俺、やります」
意を決して、そう告げた。
「次の部長、俺がやります。新部長になりますよ」
「本当?」
途端に先輩の表情が輝く。キャンプファイヤーの色が映えて、より明々として見えた。
「はい」
俺もここぞとばかり、大きく、力強く頷いた。
「先輩の後を継ぐんです、頑張りますよ。頑張ってのんびりします。のんびりしたいい空気のままでこれから先も部活動に励みます。先輩がいつ来られてもいいように、毎日欠かさずのんびりやります!」
「何か、矛盾してるね」
ふふ、と先輩が笑いを漏らす。
俺は至極真面目に言ったつもりだったから、笑われて少し拗ねたくなった。
「笑わなくたっていいと思うんすけど」
「ごめんなさい。でも後を継いで貰えて嬉しいです、ありがとう」
先輩は笑いながら言って、それには俺も笑って応じた。
「こちらこそ、今までありがとうございます。でも、これで最後じゃないっすよね」
そうだ、最後じゃない。
先輩にはそんな実感なんてまだ必要ないんだ。
写真部のあの空気は俺が守る。早坂先輩がいつでも戻って来られるように。
「いつでも来てください。俺が部長でいるうちは、誰にも文句なんて言わせませんから。部長命令で黙らせます。だから――」
だから、俺は言う。
「これからも時々、一緒に写真部、やりましょう」
受験勉強が落ち着いたら。
あるいは卒業してからでも、飛び入り参加大歓迎だ。もともとのんびり気楽にやってるうちの部だ、一人や二人部員が増えたって構わない。むしろ大人数でやる方が楽しいに決まってるんだから。
そして先輩がいてくれたら、皆だって楽しいし、先輩も楽しいに決まってる。
早坂先輩は幸せそうに笑っていた。
大きな目でじっと俺を見たまま、やがてこう切り出した。
「ありがとう。じゃあ……」
ほっそりした手を差し出して、
「これからもよろしくお願いしますね、――新部長さん」
俺は迷わずその手を握る。
「よろしくお願いします、先輩」
前に繋いだ時と同じく、早坂先輩の手は柔らかくて、すべすべしていた。
この手に触れたいと、いつも思っていた。
今日は特に、後夜祭の最後には手を繋いでいられたらなんて邪なことを思っていたけど、その願いは全く違う形で叶ってしまった。
でも、これでいい。
大好きな人の大好きなものを守る。俺はまず、それをやり遂げるつもりだ。いつかもっと大きくなって、この手をしっかり包めるように――でもそれが叶うのは、一体いつだろう。
途方もない気持ちになりつつ、俺は想いを再確認していた。
早坂先輩が好きだ。先輩に釣り合うようになりたい。
その気持ちを口にしたい衝動を、先輩の手を握り返すことで堪えた。
ずっと勇気が出なかったくせに、言うべきじゃない時に言いたくなるなんて勝手な奴だ。
押し黙る俺に、早坂先輩も何か言いたそうな顔をする。
変な沈黙が落ちて、俺が笑い飛ばそうとした時だ。
「……しばらくは、引き継ぎがあるからね」
先輩が、なぜか笑いを堪えるような顔で言った。
「引き継ぎ?」
「そう。前部長として、君に教えることはたくさんあります」
そして得意げに胸を張ってみせる。
「わからないことは何でも聞いてくださいね、清田くん」
「はい。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」
「むしろこの先一年間、私がずっと一緒にいるものと思ってください」
「はは、頼もしいっす」
先輩のお言葉に、俺もすっかりやる気になった。
部長になるに当たって、これほど心強いサポーターがいるだろうか。
でも、とそこで思い直して告げる。
「でも先輩、俺が引退してからだって先輩は立派なOGですからね。この先もずっと、先輩が残してくれたのんびりの精神を受け継ぐよう、後輩たちを指導していきますから。ですから先輩はこの先一年と言わず、いつ来てくれたって構いませんよ」
「……うん」
短く答えた先輩が、その後で呟く。
「清田くんにお願いしてよかったです」
「この先もそう思ってもらえるよう頑張りますよ」
「思います、だって……」
一度言葉を区切った後、早坂先輩は何か言いたそうに唇だけを動かす。
それから急に俯いて、俺の手をぎゅっと握った。
「早速ですが、新部長さんに宿題があります」
「え、何ですか」
いきなりの宿題に俺は戸惑う。
「文化祭用に私が撮った写真、あとでじっくり見ておいてください」
でも先輩が言ったのは、それほど難しくないことだった。
ひとまず部長として、写真の撮り方から学んどけって意味かな。そうだよな、部長がいつまでも下手なままじゃ後輩に示しがつかない。
「了解っす。勉強させていただきます!」
俺の返答に、先輩はちらりと上目遣いになる。
やっぱり何か言いたそうにしながら、でもまた俯く。
「私にとってすごく大事なことですから……お願いします」
「わかってますって! 先輩の写真、とてもいいお手本ですから」
「……うん」
その後で顔を上げた早坂先輩は、急に早口になってこう言った。
「あ、喉が渇きました。先輩命令です。ジュースを買いに行くのでついて来なさい」
そう言うなり、俺の返事も聞かずすたすた歩き出す。
あろうことか俺の手はまだ握ったままだ。
「先輩、あの――まあ、いいか……」
これは新部長の役得ってやつかな。
グラウンドの隅をぐるりと回り、まだ赤々と燃え上がるキャンプファイヤーを遠目に、俺たちは手を繋いで歩く。
先輩の手の柔らかさと温かさに、胸が締めつけられるようだった。
一刻も早く、この手を包み込めるようになりたかった。