二度目の冬の現実(2)
早坂先輩は何を考えてるんだろう。いくら見知った顔の後輩だとは言え、イブの夜に男の部屋で二人きりなんて――いや、うん、何も考えてないな先輩なら。
昨冬だってこんなふうに、この部屋に通ってきてたしな。何も考えてないに違いない。
鈍いっていうのもあるけど、先輩の感覚ってちょっとずれてるんだよな。クラスの女子なんかとは違って、結構いい加減なところもあるし、のんびりしてるし、おおらかだ。
そういうところが好きなんだけど。早坂先輩のちょっとのんびりした感覚と、その中にある優しさ、温かさが好きなんだ。子供みたいに拗ねたかと思えば、根本のところはしっかりしてて、やっぱり年上なんだなと思うこともある。
「パーティ、上手くいってよかったね」
不意に早坂先輩が口を開いた。
俺は顔を上げ、こたつに突っ伏したその顔を見る。
「何か、安心した」
先輩が続けた。
いつもの明るさとは少し違う、優しいけど、どこか寂しそうな表情と声だった。
「初めはね、手を貸してあげようって思ってたんだ。パーティのことも、ケーキの予約とか、お店の手配とか、手伝ってあげなきゃいけないかなって。清田くんのことだからうっかりして、忘れちゃうこともあるんじゃないかなって」
そんなふうに思われてたのか。
俺は内心へこみながら聞き返す。
「先輩、俺がそんなに頼りないって思ってました?」
すると先輩は笑いながら否定し出した。
「ううん、そうじゃなくて。ほら、初めてのことって誰でも戸惑うじゃない。私も部長になりたての頃はいろいろ戸惑うこととか、うっかりすることがあったから、君もそうかもって思ってたの」
「確かに戸惑うことも少しはありましたよ」
そこは正直に答える。
一番の戸惑いは、先輩がいなくなってしまったことだけど。
「でもパーティもちゃんと計画できたし、無事に終わったし、この分だと新部長さんについては何にも心配要らないかな」
笑う先輩が身を起こし、長い髪をかき上げる。
光沢のある黒髪が細い肩から滑り落ちた時、さらりと音がした気がした。
「写真部のこと、清田くんに任せて正解だったみたい」
真っ直ぐに向けられた言葉は、すとんと、俺の胸に落ちてきた。
先輩の優しくて、柔らかな眼差しと目が合う。
「先輩……」
俺は口を開いた。
開いたけど、こんな時に限って言葉が上手く出てこなくて、ぎくしゃく頭を下げただけだった。
でも本当はすごく、嬉しかった。
認めてもらえた。
他でもない先輩に、認めてもらうことができた。
これは本当にすごい、喜ぶべきことだ。
跳ね回りたいくらいの俺の喜びとは対照的に、早坂先輩は頬杖をつく。
「だけどちょっとだけ、悔しかったです」
「何がですか」
怪訝に思った俺に、先輩は溜息までついてみせる。
「だって私、頼りにされたかったんだもの」
そうして拗ねたように頬を膨らませてから続けた。
「先代部長として、先輩として、アドバイスできることもあるかなって思ってたし、清田くんに頼りにしてもらったら、何でもしてあげようって思ってた。なのにそういうチャンスもなくて、結局何にもしないまま、一緒になってパーティ楽しんでただけなんだもの。それだけはちょっと悔しくて」
「何言ってんですか。俺も皆も、先輩のこと頼りにしてますよ」
すかさず俺は言ったけど、先輩はゆっくりかぶりを振る。
「私、何もしてない。シャンメリーの蓋だって開けられなかったし」
「いや、あれはコツが要るもんですから」
「それ以外にも。せっかく先代部長のいいところを見せつけるチャンスだったのに、頑張り屋な新部長さんの前では出る幕なしでした」
それもまた最大限の賛辞だろう。
俺は照れながら、素直にお礼を言った。
「ありがとうございます。先輩にそう言ってもらえると嬉しいっす」
「そう? 私も、嬉しいかな」
早坂先輩がはにかんだ。
「いつまでも先輩面してるわけにいかないから……ちょうどよかったのかもしれない」
そこまで言った後で、不自然に言葉を止めた。
口を噤んで、表情から笑みも消える。
湯呑みでゆらめく湯気の上、早坂先輩の顔がこわばった。
その様子と沈黙とがあまりに唐突で、俺も思わず眉を顰めた。一体、どうしたんだろう。
先輩の目はゆっくりと、こたつテーブルの木目模様を追っている。
また沈黙が落ちかけた――と思った時、早坂先輩はそのまま、こちらも見ずに口を開いた。
「前に言ったこと、覚えてるかな……」
先輩の声の抑えたトーンにどきっとする。
何となく、深刻そうな口ぶりに思えた。
「私だって、いつまでも先輩でいるわけじゃありません、って」
先輩はまだ、テーブルの模様を見下ろしている。
湯呑みには手をつけていない。そこから立ちのぼる湯気も、こたつも、温かいはずなのに、どこかしんと冷え込んでいくのがわかる。外で雪が降っているせいかもしれない。
俺は笑おうとしたけど、口元が引きつった。
「いや、そんなことないって言ったじゃないすか、俺」
おまけに声までかすれた。
あの秋の日、早坂先輩に俺はそう言って、それで丸く収まったはずだった。
先輩は感傷的になってたらしくて、あの時ちょっと泣いてたようだけど、ちゃんと落ち着いた。
それから何も変わりなく、俺たちの先輩としていてくれた。
先輩が先輩でなくなることなんてない。不安に思うことは何もないのに。卒業したって、何年経ったってそうだ。
だけど、先輩は言う。
「もし、私がそうして欲しいって言ったら?」
ようやく俺の方を見て、真剣な表情になって、でも口調だけはたどたどしくなって言う。
「私が……君の、先輩のままではいたくないって、言ったら?」
――そう言われたら、俺はどう反応すればいいんだろう。
いいですよ、なんて軽く返せるはずがない。
大体なんだってそんなことを?
先輩は、先輩じゃいたくないのか。どうして?
混乱する俺に、早坂先輩は更に尋ねてきた。
「前に、私の写真を見てくれるようにお願いしましたよね?」
「あ……はい。それはばっちりです」
文化祭に提出された先輩の写真、『四季の思い出』を、俺は穴が開くほどじっくりと観察してきた。部長の特権でデータを持ち帰り、家に帰ってからパソコンでも眺めたりした。
立ちのぼる湯気までしっかり捉えたあんまん、光を透かして本物の雲のようなわたあめ、たくさん並んだお菓子の中で主役としてピントを合わせたプリン、そして光沢ある瑞々しいみかん――どれも優れたライティングと撮影技術によって撮られたものだ。
「お蔭様ですごく勉強になりました。俺も先輩みたいな写真が撮りたいです」
そう告げると、早坂先輩はぎくしゃくと首を振る。
「勉強、して欲しかったわけじゃないの」
妙に言いにくそうにしていた。
「あの、つまり……ただ見て欲しかったの、清田くんに」
「はあ」
我ながら間の抜けた声が出た。
先輩の言わんとしているところがよくわからない。
「私、あの写真に自分の気持ちを込めたから……」
一方、早坂先輩の声は震え始めていた。
声だけじゃない。その肩も、肩に流れ落ちている長い髪の先も、まるで寒いみたいに小刻みに震えている。
「先輩? どうしました?」
ただならぬ様子に見えて、俺は思わず声をかけた。
すると先輩は俯き、尚も小さく震えながら答え始める。
「あ……あの、違うんです。私、上手く言えなくて……」
言葉を選ぶところから迷っているような、頼りなくて覚束ない話し方だった。
「昔から、そうなんです。私、のんびりしてて、皆と同じペースでいられなくて……言おうと思ったことも上手く言えなくて、伝えられなくて……どうでもいいことは言えるんです。でも、本当に言いたいことは、自分の気持ちは口にするのがとても下手で……」
意外な言葉に思えた。
少なくとも普段の早坂先輩は口下手だとか、言いたいことが言えない人には見えなかったからだ。
「だから、あの写真を撮りました。でも……」
信じられないほど不器用に、先輩が語を継ぐ。
「でも私、わかってるんです。ちゃんと言葉にしないと伝わらないって。それは清田くんのせいじゃなくて、私のせいです」
「え……お、俺?」
急に俺の名前が出てきて、俺はますます混乱する。
本当に、早坂先輩は何が言いたいんだろう。
「清田くんはいつだって、温かくて優しかった」
先輩の震える言葉は続く。
「私が言いたいことを言えなくて一人で勝手に拗ねた時も、一つしか違わないのに先輩ぶって命令した時も、口実を作って寄り道をさせたり、家まで来させた時だって、君は文句も言わずに付き合ってくれました」
「文句なんてそんな、あり得ないっすよ」
俺はいつだって喜んで先輩に従っていた。
寄り道は余分に先輩といられるのが嬉しかったし、拗ねたり命令したりする様子も可愛いなと思っていたくらいだ。
「……本当に、優しい、から」
先輩の声がそこで、しゃくり上げるようにねじれた。
あ、と思った時にはこたつテーブルの上にぽたりと雫が落ちていて――、
「せ、先輩! どうして泣くんですか」
慌てる俺が駆け寄れば、早坂先輩は涙を止めようとするみたいに片腕で目元を覆う。
「ごめんなさい、違うんです。上手く言えないのがもどかしくて、苦しくて……」
そして乱暴に自ら涙を拭うと、まだ零れてきそうな目で俺を見上げた。
「でも私、ずっと言いたいことがあったんです。言いたいこと……言うのが怖いこと、言いたくないこと、でも言わなくちゃいけないことが、あったんです」
俺は早坂先輩のことを、まだ少ししか知らなかったのかもしれない。
先輩がこんなにも不器用で、口下手で、それなのに俺の前では強がって見せてて、そしてその裏側で泣いてしまうほど言いたいことがあったなんて――知らなかった。
一つ年上で、頼りになる、大人っぽい先輩だと思っていた。
わがままなことを言ったり、拗ねられたりしても、それはそれで可愛いって思っていた。
だけど本当は、『早坂ふゆ』という女の子は、もっと弱くて繊細で、それに――。
「言いたいことあるなら、言ってください」
俺は訳もわからないまま、先輩に向かって笑いかけた。
もっとも上手くなんて笑えてなかっただろうし、むしろ不自然すぎて引きつってたかもしれない。でも先輩の弱さも受け止めたくて、何を言われるにしてもひとまず聞いてあげなくちゃと思う。
「俺、ちゃんと聞いてますから」
「はい……」
先輩はこくんと頷き、それから言った。
「清田くんは、こたつみたいな人です」
これはいきなり何だ。
泣いてる女の子にそう言われて、どんなリアクションしていいのかわからない。先輩はこたつが好きだから、もしかしたら誉められたのかもしれないけど。
「優しくて暖かくて居心地がよくて……私はそれに甘えてばかりで」
やっぱり、誉められたんだろうか。
戸惑う俺に、先輩は悲しそうな顔を向けてくる。
「でも、甘えてちゃだめなんです。勇気を出さないと、こたつの外に出ないと――私、何も言えないまま終わってしまう」
言うって、何を。
この期に及んで、俺は先輩が何を伝えたいのかわからない。
「でも……」
先輩の瞳から、また涙が零れ落ちた。
「怖いんです……。言って、もしだめだったら、全部壊れちゃう。元の通りになんてなれない。それがすごく怖くて、私、ずっとずっと怯えてきたんです」
もう涙を拭うこともなく、紙のように真っ白な両手を胸の前で握り合わせる。
「言葉にして伝えるのって、本当に怖い……」
早坂先輩の唇は震えていて、心から怯えているのがわかった。
でも何に怯えているのかはわからなかった。
俺はどうしたらいいんだろう。
先輩は俺に言いたいことがあるみたいで、それはあの『四季の思い出』として撮られたもので、でも写真だけでは伝わらないと思っていて、口にするには勇気が出なくて――。
よほどの秘密、なんだろうか。
俺は、先輩に言いたいことがあるならいくらでも耳を貸すつもりでいる。言いにくいことでも、不器用でも構わない。時間がかかるならそれでもいい。
でも、怯えている先輩を見ているのも辛くて、胸が痛くなった。
「……そこまでして言わなくちゃいけないことなんですか?」
俺はつい、そう口にしていた。
「怖がるくらいなら、何も今言わなくてもいいじゃないですか」
先輩を泣き止ませる方法が思いつかなくて、怖い思いをしているのに何もできないのが苦しくて、必死になって止めたくなった。
「こたつも、入りたいならいつだって来てくださいよ。前に言った通り、やっぱり先輩はいつまでも俺の先輩です。この部屋も、いつでも歓迎しますから」
思いつく限りの優しい言葉をかけてみる。
だって先輩が言ってくれたんだ、俺はこたつみたいだって。
それなら先輩が辛い時、怯えている時、優しく包んであげるのが俺の役目じゃないか。
「清田くん……」
早坂先輩がぼんやりと俺を呼ぶ。
涙に濡れた頬と乾いた唇が痛々しくて、まだ震える肩を抱き締めたい衝動に駆られた。でもそんなことはとてもできなくて、宙に浮かせた手でせめて背中でもさすろうかと思った瞬間、先輩はまた俯いてしまった。
「やっぱり優しいんですね、君は」
そうしてもう一度涙を手の甲で拭うと、くたびれたような息をつく。
「私……だめみたいです。怖くて、やっぱり抜け出せなくて……こんなみっともない姿まで見せたのに」
「無理に抜け出さなくてもいいんですよ、先輩」
だめ押しみたいに告げると、早坂先輩は泣き顔で笑った。
「欲しいものが手に入らなくても、ですか」
それからふと尋ねられ、意味がわからず固まる俺の前で先輩は立ち上がる。
「ごめんなさい、清田くん。もう帰ります」
「えっ」
あまりにも唐突だった。
せめて涙くらい乾いてから帰ればいいのに。
「あ、じゃあ送っていきますよ」
「いいです、平気です」
「でも先輩、外は暗いですし」
「いいんです」
早坂先輩はきっぱりとかぶりを振る。
そして何も言えなくなる俺に、申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「ありがとう、清田くんの気持ちはすごく嬉しいです。でも私、また泣いちゃいそうだから」
「先輩……何があったんですか」
「何もなかったんです」
そう言うと、先輩は念を押すように言い添える。
「お願いがあります。どうか今日のこと、忘れてください。私が泣いたことも、みっともない姿見せたことも、全部」
「そんな……」
「これは先輩命令です」
最後の一言に力を込めた先輩が、再び動き出す。
俺がようやく立ち上がった時、先輩は、コートを着かけたままで外へ飛び出していった。
玄関のドアが、重い音を立てて閉まる。
そうして俺は一人、静かな部屋に取り残された。
残されたままの湯呑みと、先輩だけが掻き消えたようにめくれたままのこたつ布団を見下ろして、しばらくさっきのやり取りを反芻していた。
その後でふと思いついてパソコンを立ち上げ、持ち帰っていた早坂先輩の写真データを縋るようにまた観察して――。
そこでようやく気づいた。
先輩が言わんとしていたことと、俺がいかに馬鹿だったかということを。