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夢の終わり、現の始まり(2)

 翌朝、客室に朝食が運ばれてくる時刻になっても、メイベルは起きてこなかった。
 心配になったクラリッサが女主人の寝室へ立ち入ると、寝台に横たわった彼女はうっすら目を開けていた。目覚めてはいたようだった。そして部屋に入ってきたクラリッサと視線が合うと、済まなさそうに口を開いた。
「ごめんなさいね。今朝は少しだるくて……お水だけ貰えるかしら?」
 その声に力はなく、かすれていた。
 クラリッサは一瞬立ち竦み、すぐに我に返って寝台に駆け寄った。
「お加減がよろしくないのですか?」
「ええ。そんなに酷くはないと思うのだけど……」
 メイベルは熱に浮かされた目をしており、頬は赤く、額には汗が滲んでいた。どうやら発熱しているようだ。見たところそれほど高くはないようだが、身体を起こそうとしないそぶりから察するに具合もよくないのだろう。
 ふと、まだ古くない記憶が蘇る。レスターが倒れた日のことを思い出す。彼が熱を出したのも朝の、早い時分のことだった。メイベルが彼を起こしに行って、そして寝間着のまま部屋の外で倒れ呻いているレスターを見つけたのだと聞いていた。バートラムから知らせを受けたクラリッサが駆けつけた時、レスターの意識はほとんどなく、メイベルが必死に呼びかけ続けていたのも覚えている。
 あの時と同じように、メイベルもまた――氷が背筋を滑り落ちていくような不快な予感に、クラリッサは慌ててかぶりを振った。
「バートラムさんを呼んで参ります。それからお水も」
 慌てて客室へと取って返し、朝食を卓上に並べていたバートラムに呼びかける。
「奥様が! 奥様が、熱がおありのようで!」
 振り向くより早く、バートラムは主の寝室へと駆け寄った。そして開けっ放しの扉を一度叩いてから室内へと立ち入る。
 クラリッサはその後に続きかけて、ふと気づいて水差しとコップを手に取り、それから寝室に舞い戻った。
 バートラムは寝台の傍に膝をつき、メイベルの手を取っていくつか質問をしている。
「起き上がれないのですか?」
「いえ、できなくはないと思うの。でも頭がぐらぐらして、起きたくないのよ」
「頭が痛んだりということは?」
「少しだけ。痛いのか、目眩がするのか、よくわからないのだけどね」
「わかりました。他に具合の悪いところは?」
「手足がだるいくらいかしら……それと酷く喉が渇いたわ」
 メイベルがバートラムの肩越しに、クラリッサと水差しを見る。
 それでバートラムも振り返り、すぐにメイベルへと尋ねた。
「水は飲めそうですか? 熱があるなら、水分は取っておくべきです」
「ええ……」
 メイベルが頷いたので、クラリッサはコップに水を注いだ。その間にバートラムはメイベルの上体を起こし、更に背中の後ろに枕を立てて身体を支える。
 コップに注がれた水を、メイベルは立て続けに二杯飲んだ。そして長く息をつくと弱々しく微笑む。
「もう少しだけ、眠っていてもいいかしら」
「その方がよろしいでしょう」
 バートラムが即座に同意した。彼は懐中時計で現在の時刻を確かめると、再び夫人の身体を寝台に横たえてから告げる。
「後程、医者を呼んで参ります」
「そう? 大したことはないと思うのだけど」
 医者と聞くとメイベルは困ったような顔をした。
 だがバートラムはきっぱりと首を振る。
「疲れが出たのだとは思いますが、念の為です。旅先では用心に越したことはありません」
「……そうね」
 メイベルも納得したのだろう。仰向けになったままやがて目を閉じ、こう言った。
「ではお願いするわ。ごめんなさいね、面倒をかけてしまって」
「当然のことです。お気になさらず」
 優しい声で応じたバートラムが立ち上がる。
 そしてクラリッサに仕種で寝室を出るよう促し、クラリッサがそれに従うと、彼も後からついてきた。
 寝室の扉をしっかりと閉ざしてから、二人はどちらからともなく嘆息した。
 ただし溜息の意味合いは全く異なっていたようだ。
「思ったより悪くはなさそうだ。やはり疲れが出たのだろう」
 バートラムはメイベルをの様子を直に見て安心したらしい。クラリッサに向かって微笑む余裕さえあった。
「少し休めばすぐによくなられるはずだ。君も心配しすぎないことだ」
 しかしクラリッサはすっかり不安になっており、彼の言葉も素直に受け入れられない。
「本当にすぐよくなりますか?」
 思わず聞き返すと、バートラムは気遣うような目でクラリッサを見た。言葉を選ぶような短い沈黙があり、それから彼は答える。
「私はそう思っているよ。だが医者でもない私が保証をしても、君は安心できないだろう?」
 クラリッサも少しためらい、答える。
「あなたを信じていないわけではないのです。でも……」
「なら、信用できそうな医者を呼んでこよう。医者の口からはっきりと聞けば、君の不安も晴れるに違いない」
 バートラムは諭すように言うと、尚も気を揉むクラリッサをそっと抱き寄せた。
 こんな時に黙って抱き締められているのは居心地が悪い。そう思ったクラリッサは早々に彼の腕から逃れようとしたが、彼の方はすぐに離す気はないようだった。
「いいから。落ち着くまでここにいるといい」
 まるでここにいれば、抱き締めてもらっていればクラリッサの気分が落ち着くとわかっているような言い方をする。それがあながち的外れでもないのが、クラリッサには少し悔しい。
 だがクラリッサの求めてきたものはまさにこういった時に与えられる温もりに他ならない。不安な時、何かに縋りたい時、手を差し伸べてくれる誰かがいるのは幸いなことだ。おかげでクラリッサはいくらか冷静になり、バートラムに向かって尋ねた。
「奥様に早くよくなっていただく為に、わたくしにできることはあるでしょうか」
 するとバートラムは明るく笑い、
「もちろんあるとも。しかしまずは朝食にしよう。空腹では満足な仕事もできないからな」
 と言って、支度だけはとうに済んでいた食卓を指差した。
「奥様にはあとでスープでも運んでいくとして、三人分の食事を片づけてしまわなくてはならない。手伝ってくれるかな、クラリッサ」
 あえて冗談めかした口調で言ったのは、クラリッサを元気づけようとしたからだろう。
 クラリッサもどうにか笑んで、ひとまずは彼の言葉に従った。

 朝食の後で、バートラムは医者を呼びに出かけた。
 旅先の見知らぬ街で医者を探すのはさぞかし困難なことだろう。留守番を仰せつかったクラリッサは案じていたのだが、彼はそう時間もかけずに医者を探し当て、その足で宿まで連れてきた。
「宿の人間に口利きを頼んだ。知らない土地のことは、その土地の人間に聞くのが一番だからな」
 バートラムはそう言って、早い帰りに驚くクラリッサを愉快がった。
 医者は温厚そうな初老の男で、どこから来たとも知れぬ旅の者であっても快く診てくれた。メイベルの病状はバートラムの見立て通り重いものではなく、やはり疲れが出たのだろうということだった。ゆっくり身体を休めて栄養のある食事を取っていれば、程なくして元気になるでしょうと医者は言った。
「どのくらいよくなったら、外を歩き回っても平気でしょうか。帰る前にここの市場を見て行きたいのです」
 メイベルは寝台に横たわったままそんなことを尋ね、医者に苦笑されていた。
「治った気になって無理を押してしまうのが一番よくないのです。まずは養生にお努めなさい」
 それからバートラムの方を振り返り、
「旅を終えてお帰りになるご予定だったのですか?」
「ええ。近々帰途に着くつもりでおりました」
 バートラムが正直に答えると、医者はどこかほっとした表情になって続けた。
「それならよくなり次第、お帰りになった方がよろしいでしょう。傍目にはわかりにくいでしょうが随分と疲労が溜まっているようでしたから、これからはお家で、ご家族と共にゆっくり過ごされるのがいい」
 医者が帰っていった後、メイベルは枕元にバートラムとクラリッサを呼んだ。
 そしていささか寂しげにしながらも、二人に向かってこう言った。
「お医者様が仰ったなら仕方がないわ。帰り支度を始めましょう、二人とも」
「ここから程近いところに港があるようです。今日のうちに船便を確認して参ります」
 バートラムの打てば響くような返答に、メイベルは残念そうな顔をしている。
「予感した通りだわ。本当に終わりになってしまうのね、この旅も」
 クラリッサも、昨日聞いたばかりのメイベルの言葉を覚えていた。
 もしかするとあの時から、メイベルは自身の変調を察していたのかもしれない。
「ええ」
 頷くバートラムは、その後で嬉しそうに続けた。
「しかしお言葉ですが、奥様。我々には帰宅後にも楽しみがございます」
 そう言ってから彼の青い目は傍らのクラリッサを捉え、メイベルもまた熱に潤む目でクラリッサを見上げた。
「そうね、そうだったわね。あなた達の結婚と、それからわたくしに家族ができるのと。帰ったら新しい生活が待っているんですものね。そちらの方が、確かに楽しみだわ」
 何事にも終わりはあるものだが、終わってしまったその後に、何もないとは限らない。
 終わりが訪れた後で新しく始まるものもあるのだろう。それは必ずしも幸せであったり、喜ばしいことであるとは限らないが、それでも人は新しい始まりに希望を抱き、胸を躍らせる。
 クラリッサも旅の終わりが待ち遠しくなってきた。その時にはメイベルも元気になっているのだろうし、それに――。

 その後、昼過ぎまでメイベルの様子を見ていたバートラムは、大丈夫そうだと踏んだのか再び外出すると言い出した。
「君に留守番ばかりさせて済まないが、港まで行ってくるよ」
 帰りの船がいつ出るかを確かめてくるつもりらしい。クラリッサは留守番をすることに不満はなかったし、医者に診てもらった後でもメイベルの傍を離れることに抵抗があったから、彼の言葉にはかぶりを振った。
「いいえ。むしろあなたにばかり大変なことを任せてしまって、ごめんなさい」
「これが私の仕事だからな。君には君の、もっと適した仕事がある」
 バートラムはクラリッサの頬に手を添えると、ふと真剣な表情になって言った。
「あの人を……奥様を頼む」
「お任せください」
 こればかりはためらいもなく、クラリッサは顎を引く。メイベルの傍にいて世話を焼くこと、それは自分に合った仕事だと思っている。『仕事』ではなくなってしまってもいいくらいに。
 そして、朝から忙しく立ち働くバートラムの為にも何か言いたくて、間を置かずに口を開いた。
「あなたもお気をつけください。これが済んだらきちんとお休みを取ってくださいね」
「私は疲れないんだよ。君さえいてくれればな」
 バートラムがうそぶく。実際、彼がくたびれた表情を見せることは滅多になかった。特にクラリッサが落ち込んだり、不安に怯えたり、疲れ果ててどうしようもなくなっている時、彼はいつも元気づけるように笑いかけてくれていた。
 それが自分の為の笑顔であったと、今のクラリッサは知っている。
 自分にも同じように、彼の為に何かできないかと思う。
「わたくしにも、あなたを元気づけることができるでしょうか?」
 クラリッサはバートラムの胸に手を置き、問いかけた。
 すかさず彼はクラリッサの手を、大切なものを包むように握った。
「もちろん、できる。君はいつもしてくれているじゃないか」
「いつも、わたくしが……?」
「ああ。しかし、あえて他に何かしたいと言うなら……」
 そしてもう片方の手でクラリッサの薄く開いた唇に触れ、
「見送りのキスを、君の方からして欲しいな」
 絆されかけたところにすぐこれだ。彼は本当にこればかりだ。クラリッサは内心呆れたが、呆れてでもみせないと恥ずかしさに潰れてしまいそうだというのも事実だった。
「あ、あなたは……そういうことばかり仰るの、どうかと思います」
「不満は時間のある時にゆっくり聞こう。私はそろそろ出なくてはならない」
 バートラムはクラリッサの退路を断つのも上手い。そう言ってから屈み込んできたので、クラリッサも自棄気味に唇を寄せ、彼の頬に口づけた。口にしなかったのはせめてもの抵抗でもあり、精一杯勇気を振り絞ってもまだできなかっただけのことでもある。
 途端に彼は、満足げに口角を上げた。
「ありがとう。これはお返しだ」
 そう言うと彼の方はクラリッサの唇にいともたやすくキスをして、クラリッサが動揺の声を上げる前に部屋を出て行った。
 全く。
 全く彼は、こういう人だから困る。
 すっかり真っ赤になったクラリッサは客室の扉を閉めてから、まずはメイベルの様子を見ようと彼女の眠る寝室の扉を開けた。朝からずっと寝たり起きたりを繰り返していたメイベルだったが、昼下がりの今はすっかり目も冴えてしまっていたらしい。クラリッサが扉を開けると、横たわったままこちらを向いた。
「バートラムさんは出かけたの?」
「はい。港まで行くとのことです」
「仲がいいのね、あなた達」
 メイベルは病人らしからぬ冷やかしを口にして、クラリッサを慌てさせた。
 まさか先程の会話が聞こえていたわけでは――全く、つくづく彼はああいう人だから。
「でも、仲がよくなくてはいけないわよね。結婚をするんですもの」
 クラリッサの狼狽をよそに、メイベルはさも当然のように呟く。
 そして朝方よりは元気な声で切り出した。
「ねえ、少しだけ話をしない? 朝からずっと寝ていたから、目が冴えてしまって」
 頬の赤みはまだ残っていたが、体調がいいのは事実なのだろう。表情まで随分と朗らかだ。
 クラリッサは胸を撫で下ろしながら答えた。
「はい、奥様」
 寝室に備えつけの椅子を寝台の横まで引いていき、そこに姿勢よく腰を下ろす。
 メイベルは寝台に横たわったまま、眩しそうにクラリッサを見上げた。心なしか、羨むようでも、懐かしむようでもある眼差しをしていた。
「クラリッサ、あなたはきれいね。とても幸せそうだわ」
 讃える言葉にクラリッサは戸惑い、大いに照れた。メイベルに誉められると、いつもなぜかくすぐったい気持ちになる。嬉しくないわけではないのに、胸に広がる甘酸っぱい感情が素直に喜ばせてくれない。
 ただ、幸せなのは本当のことだ。あとはメイベルが元気になってくれれば、そして三人で無事に家へ帰ることができたら、もう言うこともない。
「それにバートラムさんも。ずっとそうだったけど、ここ最近は特に幸せそう」
 メイベルは何かを思い出すように遠い目をしてから、ふと悪戯っ子の顔つきを覗かせる。
「ねえ。あなたの知らないバートラムさんのこと、教えてあげましょうか」
「……どういうことですか?」
 クラリッサは反射的に聞き返した。彼について知らないことはまだたくさんあるが、クラリッサは彼が語り教えてくれることだけを知りたいと思っている。彼がまだ語りたがらないことを、無理に暴きたくはなかった。
 そんな胸中はメイベルも察していたのだろう。即座に言い添えた。
「あの人があなたにどんな恋をしてきたか。そういう話よ、クラリッサ」
「えっ……あの」
「わたくしはそれをずっと見てきたんですもの。わたくしと、レスターはね」
 メイベルは亡き夫の名前を、いとおしそうに口にした。
 その時、睫毛を伏せた夫人の表情ははっとするほど美しく、クラリッサは何か神聖なものに触れたように感じて息を呑んだ。
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