夢の終わり、現の始まり(1)
静かなる湖畔に別れを告げる日がやってきた。掃除を終え、まとめた荷物を外へ出した後、邸宅の扉にはしっかりと鍵が掛けられた。
外套を羽織ったクラリッサは、一週間を過ごしたその邸宅の外観をぼんやりと見上げた。ここで過ごした時間はクラリッサにとって激動の日々と呼ぶにふさわしく、胸裏を過ぎる思い出もいいものから少し怖いもの、面映いものまで多岐に及ぶ。そういった記憶の全てが一つの結論へと行き着き、今まさにクラリッサの人生を変えようとしていた。
「思い出がまたたくさん増えたわね」
メイベルもクラリッサと同じように、森の中に建つ邸宅を眺めていた。どこか感慨深げな横顔をしていた。
「前に来た時と違って、あんまりたくさんは歩き回れなかったけどね。それでも十分楽しく過ごせたわ」
そう言うとメイベルはクラリッサの方を向き、皺の深い顔で微笑んだ。
「クラリッサ、あなたはどう? いい思い出ができたかしら」
「はい、奥様。とても充実した毎日でした」
心からクラリッサは頷いた。
それから嬉しそうにしているメイベルの顔をしばし見つめた。この湖畔での滞在中、メイベルは常に上機嫌ではしゃいでみせることさえあったが、今は笑顔の影にどこかくたびれたような気配が潜んでいた。そしてそういった夫人の表情の変化を、クラリッサは今まで以上に気にかけるようになっていた。
「奥様も外套をお召しになってください。今日は風があるようです」
クラリッサはそっと声をかけ、荷物の中からメイベルの外套を取り出して彼女に差し出した。メイベルはそれをクラリッサの手を借りて羽織ると、なぜか苦笑いを浮かべた。
「そうね。わたくしもそろそろ、おばあちゃんだってことを受け入れなくてはいけないわね」
「十分お若いです、奥様は」
即座にクラリッサは反論した。お世辞ではなく、本当にそう思っていた。
そして、胸に潜めた願望でもあった。メイベルにはずっと若々しく、元気であって欲しい。はっきりとそう願うようになった今、それが永遠に約束されるものではないこともクラリッサは気づき始めていた。
二人が邸宅を眺めている間、バートラムは森の小道へ出て、迎えの馬車が来るのを見に行っていた。ホリスが親切にも三人を街まで送り届けてくれるというのだ。ホリスの馬車は屋根もなければ幌もないただの荷馬車で、乗り心地は保証できませんがという断りつきではあったが、メイベルは大喜びでその申し出を受け入れた。
程なくしてバートラムが駆け足で戻ってきた。
「馬車が来たようです。参りましょう、奥様」
メイベルの養子になると決めた彼は、それでも現在のところはメイベルを『奥様』と呼んでいた。いつか『お母様』と呼び出すのではないかとクラリッサは興味を持って彼の動向を観察していたのだが、どうやらその機会はまだ先のようだ。
もっともクラリッサにとっても他人事ではないらしい。その日が来たらメイベルを何と呼ぶか、クラリッサはまだ考えることすらできていない。結婚をするのも、家族ができるのも、初めてのことだった。
目下クラリッサの婚約者という立場であるバートラムは、いつものように笑いかけてクラリッサも促した。
「忘れ物はないかな、クラリッサ。そろそろここを離れるよ」
「荷物はここにある分で全てです。忘れ物は間違いなくございません」
地面に並んだ鞄などを指差し、クラリッサは生真面目に答える。
それを満足げに聞いたバートラムが、手を伸ばしてクラリッサの赤褐色の髪を梳くように撫でた。もう触れられても避けたり手を払い除けたりすることはなくなった。心地よいとさえ感じるようになっていたが、同時にそう思うことに気恥ずかしさも覚える。
「思い出も置いていかず、全て持っていくように。――では行こうか」
「ええ」
馬車が小道をゆっくりと進んでくる。御者台のホリスと、荷台に座る二人の子供達がそれぞれ手を挙げる。シェリルとサイラスも見送りに来てくれたようだ。
やがて馬車は邸宅の前で一度停まり、三人と荷物を乗せて再び走り始めた。
屋根のない荷馬車の上で、風に吹き晒されながらクラリッサは美しい景色との別れを惜しんだ。
大きな湖は少し波立ち、日差しにちかちかと光っていた。羽を休める水鳥の群れが車輪の音を聞きつけて、一斉に空へ飛び立つと、馬車が走り抜ける小道の先へと羽ばたきの音と共に消えていった。針葉樹の森は枝葉を揺らしてざわめき、去っていく旅人へ口々に別れの言葉を告げてきた。風に乗って漂う土の匂いすら今はいとおしく、クラリッサは黙って景色に見入っていた。
森を抜けると馬車は湖からも離れ、そこから流れ出す川沿いの道をしばし進んだ。その道はなだらかな丘陵地帯と草原を通っており、川の清らかな流れとぽつぽつと点在する針葉樹の小さな林が湖畔の名残りをかろうじて留めていた。
昼過ぎに一旦馬車を停め、木陰に敷物を広げて昼食を取った。その間、シェリルとサイラスは出会ったばかりの頃のように無口だった。別れを寂しがっているのでしょうとホリスは困ったように笑っていたが、それは事実だったようだ。
夕刻前に大きな街へと馬車が辿り着き、クラリッサたちだけが降りると、二人の子供達は荷台から身を乗り出すようにして手を振ってきた。
「助けてくれてありがとう。また来てね!」
叫ぶシェリルは緑色の瞳を潤ませていて、サイラスがそれを服の袖でごしごし拭うと、それがおかしいというように少しだけ笑った。
「次に来た時は俺が、馬の乗り方教えてあげるよ!」
サイラスにはそう言われて、クラリッサはいつぞやの騒動を思い出し赤面した。
しかし子供達の挨拶にどう応じればいいかは迷った。再会の約束をするのはたやすいが、はたしてそれを守ることはできるだろうか。あの屋敷へ戻ったら、もうこんなふうに旅へ出る機会はないかもしれない。当然あの湖畔を訪ねていくことも――。
返事をためらうクラリッサに、バートラムが肩に手を置いて囁く。
「また会えると言えばいい。君が望むならまた来よう、いつか」
クラリッサは驚いて彼の顔を見る。
バートラムは微笑みながら頷いた。クラリッサの内心、ためらいなどお見通しだというように、優しい眼差しを向けてくる。
それでクラリッサもようやく笑み、荷台の子供達に向かって告げた。
「ええ、またいつか! その時はどうぞよろしくお願いいたします!」
シェリルとサイラスがぱっと顔を輝かせ、一段と大きく手を振った。そのうちに荷馬車は旋回して来た道を戻っていく。街を出ていく馬車を見えなくなるまで見送って、それからクラリッサは息をつく。
バートラムがどこまで本気であの言葉を言ってくれたのかはわからない。
だがクラリッサの人生は本当に大きく変わってしまったようだ。今までは自分の為に旅行をする日がやってくることなど考えもしなかったが、そういう機会もいつか訪れるのかもしれない。
とは言えこの旅もまだ終わりではなく、馬車を見送った三人はその足でまず宿へと向かった。
街道が十字に交差して通り抜けるこの街は、以前メイベルから聞いていたように、交易が盛んだということだった。
現に宿を目指して歩く間、脇道の向こうや建物の陰に色とりどりの天幕がいくつも覗いていたのをクラリッサは目撃していた。あれは何かと尋ねる前に、バートラムが教えてくれた。
「向こうに市場がある。ああやって表に品物を並べて、通りかかる者を呼び止めてはお喋りのついでに買い物をさせる場所さ」
「ええ、とっても賑やかなところよ。前に来た時もレスターと二人でいろいろ見て歩いたの」
メイベルがその話を引き継いで、懐かしそうに続けた。
「レスターったら、いくつか気に入ったものがあったみたいで、ここで買い付けをするって言い出して……わたくしを長いこと待たせてずっと交渉を続けていたのよ」
行商から身を立てたレスターらしい逸話だ。クラリッサは微笑ましい思いでメイベルの横顔を見つめていたが、ふと不安になって眉を顰めた。
ゆっくりと歩きながら思い出を語るメイベルの顔に、疲労の色が濃く出始めていたからだ。
「奥様、お疲れですか? 顔色が優れないようですが……」
思わずそう声をかけると、メイベルは穏やかに応じた。
「少しだけね。でも平気よ、宿まで歩いていくくらいは」
ホリスの厚意はありがたかったが、荷馬車そのものは決して乗り心地がいいとは言えなかった。若いクラリッサならまだしも、メイベルには少々辛い道程だったのかもしれない。
「それに、この街も少し歩いてみたかったの」
メイベルは夕刻でも人通りの多い街並みを眺めながら、わずかに声を弾ませた。
クラリッサにとっては初めて見る、新鮮な街並みが夕日の色に染められていく。宿の建ち並ぶ辺りまで来ると、付近は一層賑わいを増し、客引きの声と温かいスープの美味しそうな匂いが旅人達を次々に呼び止める。
そんな中を歩きながら、メイベルはぽつりと呟いた。
「ここに来た時にね。旅が終わってしまうんだって、ふと思ったの」
「……なぜです?」
とっさにクラリッサが聞き返すと、女主人は溜息と共に答える。
「なぜかは、わからないわ。レスターが仕事を始めたせいかもしれないし、街道が通っている街だから、ここからどこへでも帰れるような気がしたからかもしれない。でも直感みたいに思ったのよ。わたくしたちの新婚旅行はこれでおしまい。これからは家に帰って、そして夫婦としての新しい生活が始まるんだって……」
そして瞬きをするクラリッサと黙って傍に立つバートラムに向かって、静かな表情で告げた。
「この旅もそろそろ終わりね。今も、そんな気がしたの」
宿に部屋を取ると、メイベルは夕食も食べずに寝入ってしまった。
これまでどんなに疲れていても食事を取らないことはないのがメイベルだった。クラリッサは不安を募らせ、案じる思いをバートラムへと告げた。
「奥様はこれまでになくお疲れのようですね……」
「ああ。心配の種が一つ減って、気が緩んだのかもしれない」
バートラムはそんなふうに答えた。
彼の言う心配の種とは、養子についての一件だろうか。メイベルはバートラムに無理強いをしないつもりでいたようだから、そこまで抱え込むような心配事とも思えないのだが――クラリッサは釈然としないながらも話を続ける。
「奥様にはできるだけ長生きをしていただきたいのです」
クラリッサはそう口にすることで、逆に現実と向き合う羽目になっていた。
全てのことには終わりがある。この旅がもうじき終わりを迎えようとしているのと同じように。
人の生涯にもまた、必ず終わりがあるはずだった。
レスターとは唐突な別れになった。クラリッサは彼の為に、何もすることができなかった。
メイベルにはせめて尽くしたい。旅を終えても彼女の日々が平和で穏やかなものであるように。いつまでも傍にあることができないのなら、それまでにできる限りのことをと思う。
「そうだな。せっかく家族になるのだから、親孝行をさせてもらわなくては」
珍しく真面目な顔でバートラムは言い、それからクラリッサをちらりと見て、
「孫の顔も見せなくてはならないしな」
「孫、ですか?」
聞き慣れない単語を機械的に繰り返すと、バートラムは爽やかに笑んだ。
「相変わらず他人事のような顔をする。我々の子供ということだよ」
「子供!?」
クラリッサは夜だというのに素っ頓狂な声を上げ、慌てて口を噤んだ。
しかし結婚をするということは、そういった可能性も考えられるということでもある。自分が結婚をして家族を得るという事実だけでもクラリッサには途方もないのに、まさか自分が母親になる日がやってくるとは――。
「まあ、その話は帰ってからじっくりすればいい。覚悟しておくように」
バートラムは言い含めるように告げると、混乱しかけて反論に出ようとするクラリッサの唇に指を置き、更に言った。
「だがひとまずはこの旅を無事に終わらせるところから始めなくてはな。何せ長い旅をしてきたのだ。今頃疲れが出るのも当然と言えば当然だろう」
言葉を封じられたクラリッサは黙ってバートラムを見上げる。
彼はいつでも優しい笑顔を向けてくれる。心配事を取り払い、不安を和らげてくれるような笑い方をする。
「奥様は明日にでも市場を見て歩きたいと仰るだろうが、あまりはしゃぎすぎないよう、くたびれてしまわれないよう、我々で見守っておこう」
その提案にクラリッサは目で頷いた。
するとバートラムはクラリッサの唇から指を外し、代わりに軽いキスをくれた。
「旅もそろそろ終わりだ。忘れ物はないかな、クラリッサ」
「忘れ物がないよう、重々気をつけます」
クラリッサが答えると彼は青い目を瞠り、それから首を竦めた。
「そういう意味ではないよ。荷物のことを案じているわけではない」
「では、心残りはないか、とお尋ねになりたいのですか?」
「わかっているじゃないか。やり残したことがあるなら、済ませておくといい」
バートラムはそう言ったが、クラリッサには思い当たる節もなかった。
元々この旅はメイベルに付き従うことだけが目的だった。自分のやりたいこと、行きたい場所があったわけではない。だから心残りもないと言っていい。
あえて言うなら、結婚について覚悟や実感のまだない今の心境が心残りと言ってもいいかもしれない。
あの屋敷へ戻ったら、まずはレスターの墓前で報告をすると決めている。その時、自分があんまり自信がなかったり、実感も持てないままで『結婚をする』と言うのでは格好がつかないだろう。どうせなら胸を張れるようになっておきたい。
愛する人と結婚をして、家族を得て、幸せになるのだと言えるようになりたい。
「そうですね。旅が終わるまでに済ませておきます」
クラリッサは考え直してから答えた。
するとバートラムは薄く笑みながらこちらを睨み、すぐさま問い返してきた。
「君の心残りとは何か、私に教えてはくれないのかな」
「内緒です」
「もうじき夫となる相手にも言えないことか。気になるな」
あなただから言えないのです、という本心を、クラリッサは照れ笑いで押し隠した。
旅の終わりに向けて、その心も少しずつ前を向き始めていた。