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夢の終わり、現の始まり(3)

「昔はね、あの人、もっとおとなしい人だったのよ」
 メイベルが口にした『あの人』が誰のことか、クラリッサはすぐにはわからなかった。
 思わず目を瞬かせると、メイベルはくすっと笑う。
「バートラムさんのことよ。意外でしょう?」
「お、おとなしい……? あの方がですか?」
 クラリッサの知る限り、バートラムはお喋りというほどではないが、決して寡黙というわけでもない。二人でいる時は彼の方がよく話しているし、言い合いになった時はクラリッサが一つ言えば三つも四つも返してくるほど弁の立つ男だ。その彼がおとなしいと評されるとは意外にも程がある。
「そう。と言っても、内気だったというわけではなくてね」
 記憶を手繰り寄せるように、メイベルは天井へ視線を投げる。
「前にも言ったけど、あの人はわたくし達と初めて会った時から、とてもお行儀がよくて賢い子だったの。わたくしたちが何か聞けば答えてくれたけど、自分からは必要以外のことは何も話そうとはしなかった」
 それは彼の、まだ失われる前の家庭環境がそうさせたものなのだろうか。それとも失われた後に彼を待ち受けていた、過酷な日々のせいなのだろうか。
 クラリッサにはおとなしいバートラムなど、髭面のバートラムと同じくらい想像するのが難しい。もちろんメイベルの言葉を疑うつもりはなかったから、そういう頃もあったのだろうと無理やり納得しておいた。
 ではそんな彼が、今のように人を煙に巻いては言いくるめるようになったのは一体いつからなのだろう。
「執事になってからも真面目に、よく働いてくれたわ。わたくし達に恩を返すのだと言ってね。でも……」
 そこでメイベルはわずかにだけ表情を陰らせた。
「わたくしには、そんな姿が時々酷く空ろに見えたの。よい執事であろうとはしてくれたけど、それ以外のことには何も興味がないようだった。養子の話を断られたのは仕方がないと思っていたけど、その理由も、何も持っていたくないからじゃないかって……そう見えてしまうくらい」
 クラリッサは黙って視線を床に落とした。
 バートラムが養子の話を断り続けてきた理由は彼自身から聞いていた。その時彼が言っていたこともまだ覚えている。
 いつか執事の務めも辞めて、どこかへ行ってしまおうかと、彼は考えていたそうだ。
 恐らくそれはメイベルの目にも明らかなほど、空ろで寂しい日々だったのだろう。
「レスターがお店を人に譲って、あの農村に家を建てた時もね。バートラムさんはわたくし達夫婦について行くと言ってくれたわ。でもいつかいなくなってしまうような気がしていた。そうなったとしても止められないだろうって、レスターも言っていたわ」
 メイベルが語る過去のバートラムの姿は、クラリッサには想像もつかないものばかりだ。
 だが彼が経てきた人生を思えば、苦難に満ちた年月と失くしたものの大きさを思えば、空ろになってしまうのも仕方がないのかもしれない。同じ家族を失くした者同士であっても、両親の記憶がまるでないクラリッサとは違い、バートラムはそれを一時は有していて、そして大人になってからも『愛していた』と言えるほど大切に思っていたのだ。
 クラリッサは自分の靴の爪先を見下ろしながら彼を思い、そして酷く切ない気分になっていた。
「でもね、あの日。あなたがわたくし達の家へやってきた日――」
 メイベルの記憶がクラリッサの存在する日まで辿り着くと、彼女の声が力を得たように明るくなったのがわかった。
 その声に呼ばれたように、クラリッサは面を上げた。
 こちらを向いたメイベルが、今度は真っ直ぐにクラリッサを捉える。
「全てが変わったの。バートラムさんの、何もかもがね」
 そこからの彼はクラリッサも知っている、普段通りのバートラムだろう。いつでも笑っていて、どんなに慌しい日であっても疲れの色など欠片も見せず、息をするようにクラリッサを口説いてきた彼。あの頃はそういう彼が疎ましかった。軽薄な彼を忌々しく思うばかりで、その裏側にどんな思いが潜んでいたかは考えもしなかった。
「本当に見違えたようだったのよ。表情は明るくなって、目も輝いて、まるで少年みたいな軽い足取りになって――何か大きな楽しみができたんだってすぐにわかったの。だって、毎日とても幸せそうにしているんですもの」
 メイベルは思い出し笑いで毛布に包まれた肩を揺らす。
「あなたが来る前から優秀な執事さんではあったけど、あなたが来てからは特に仕事が早くなったみたい。なぜだかわかる?」
 そしてそう尋ねてきたので、クラリッサは首を傾げた。
 打ち明けるのが待ちきれないというように、メイベルも素早く語を継いだ。
「あなたに会いに行く為よ。バートラムさん、手が空いたらすぐにあなたを捜しに行っていたの。知っていたかしら?」
 知らなかった。
 だが、思い当たる節はあった。お屋敷勤めの日々を振り返り、クラリッサは気まずさに顔を顰める。言われてみればあの頃は何かと言うとバートラムが近くをうろついていた。執事という仕事はよほど暇なのかと呆れるほどだったし、何度かそういう言葉もぶつけた覚えがある。それでも彼は懲りもせず、あれこれとクラリッサの神経を逆撫でするような甘い台詞で応戦してきた。
「あなたといる時はいつもにこにこして、機嫌よさそうにしていたしね。どういう気持ちでいるのかなんて、本人に問い質すまでもなかったわ」
 メイベルがやけに自信たっぷりに語るので、クラリッサはいたたまれなくなって椅子の上で縮こまった。
「レスターも言っていたわ。孤児院で暮らすお嬢さんに恋をして、そのお嬢さんが自分と同じような目に遭うかもしれないのが嫌で、それで雇うように決めたんだろうって。そのお嬢さんを自分の持てる力の全てで助けたいと思ったんだろうって」
 しかもレスターは、バートラムがクラリッサを雇うと決めた経緯までしっかり見抜いていたようだ。ご存知だったかもしれない、とはバートラムも言っていたが――あの屋敷で過ごした八年の間、バートラムにつれない態度を取り続けていたクラリッサは、レスターとメイベルの目にはどう映っていたのだろう。
「わたくし、何も知らないで、あの頃はバートラムさんに酷いことを……」
 クラリッサが反省を込めて口を開くと、メイベルは優しく笑みながら言った。
「そうだったの? あなたがたがどうやって恋人になったのかは知らないけど、やっぱり時間がかかっていたのかしら」
 普段は少女のように若々しい表情を取ることもあるメイベルだが、今は歳相応の、長い人生経験に裏打ちされたがゆえの穏やかな表情を浮かべていた。クラリッサの恋への戸惑いも後悔も、かつての拒絶さえ理解してみせるかのようだった。
「バートラムさんはとてもわかりやすかったけれど、あなたの気持ちはずっとわからなかったし、確かめようもなかった」
 メイベルは穏やかに続けた。
「わたくしは、いっそわたくし達で口添えしてあげるのもいいんじゃないかって言ったの。バートラムさんがあんなに明るくなったのも、幸せそうにしているのも全部あなたがいるからなんですもの。どうせなら叶って欲しいってわたくしは思ったわ。でも――」
 そこで少し疲れたのか、短く息を吐き出してからまた語り出した。
「レスターはね、黙って見守っているべきだって言ったのよ。これはあの子にとって生涯最大の、人生を変えてしまうような恋だから、外から手を出して掻き乱すような真似はよくないって。見守っていようって」
 メイベルは夫のその言葉に、素直に従ったようだ。また天井を見上げて、いとおしそうに目を微笑ませる。
「レスターの言うことはいつでも正しくて、言う通りにしていれば間違いはないの。だからその時もわたくしは言う通りに、黙って見守っているようにしたわ」
 見守られていた側としてはそわそわと落ち着かない気分にさせられる告白だった。まさかバートラムの包み隠しのない口説き文句や、彼にクラリッサが髪や手の甲に口づけられる姿まで全て見守られていたわけではないだろうが――いや、なくはないのかもしれない。クラリッサは心中密かに戦慄した。
「そう言って、レスターはバートラムさんと二人でお酒を飲んでは、恋の話を聞き出そうとしていたみたいだけどね」
 それはバートラムからも聞いていた話だ。クラリッサはレスターとバートラムが酒を酌み交わす姿を見たことがなく、信じがたい思いでもいたものの。
「わたくしから見ても、バートラムさんは幸せそうだったから。あまり悩んだりくよくよしたりしないでいつも楽しそうにしていたから、確かに口を出す必要はないのかもしれないって思うようになっていたわ」
 メイベルは懐かしむようにそこまで語ると、椅子に座るクラリッサに柔らかい眼差しを向けてきた。
「そうしたらあなたがた、本当に恋仲になったんですものね。わたくしはとても嬉しかったし、安心したわ。本当に、よかった」
 息をつくメイベルが心底から喜び、そして安堵しているのを見て、クラリッサはふと思った。
 奥様、そして旦那様は、随分前から彼のことを、本当の子供のように思っていたのだろう。
 養子の話が流れても、バートラムは二人からずっと慈しまれ、大切にされてきたのだろう。
 そうまでされても満たされなかった彼の心を、かつてのみすぼらしかった自分が変えてしまったのだと思うと妙な感じだ。
 しかし彼の心がクラリッサの存在に救われたように、クラリッサの人生もまた彼に救われたのだ。お互いに運命を変え合った間柄と思えば、似合いの夫婦と言えるのではないだろうか。
「ありがとうございます、奥様」
 温かな思いが胸に満ち、クラリッサはメイベルに感謝を告げた。
 メイベルが怪訝そうに目を瞠ったので、すかさず説明を添えた。
「お話を聞かせてくださったことと、結婚を許してくださったことに、とても感謝しております」
 たくさん話した後だからか、メイベルは疲れたように微笑んだ。しかしそれでも眼差しは優しく、そっと寄り添い見守るようだった。
「許すだなんて……むしろわたくしの方こそ、あなたにお礼を言いたいのよ」
 そして寝台から皺だらけの手を伸ばし、傍らのクラリッサの手を握った。夫人の手はやや熱っぽかったが、手のひらはなめらかで柔らかい。そう何度も触れたことがあるわけではないのに、不思議と懐かしささえ覚える。
「あの子を幸せにしてくれてありがとう。わたくし達にもできなかったことを、あなたがしてくれたのよ」
 けれどクラリッサはかぶりを振り、誓いを立てるように言った。
「これからもっと幸せにしてみせます。あの人のことも――奥様のこともです」
 バートラムの一途な想いに応え、レスターとメイベルの深い愛情に報いる為に、自分ができる限りのことをしよう。
 自分もまた愛情をもって二人に尽くそうと、クラリッサは思う。
 メイベルは満足そうに微笑んで、それからすっと瞼を閉じた。
「それなら、臥せってなんていられないわね。早く元気にならないと……」
 夫人の表情を見下ろすクラリッサも、その明るさにようやくほっとしていた。

 数日間の養生を経て、メイベルはすっかり快復していた。
 帰りの船が出るまで少しだけ猶予があるとわかると、市場を見に行きたいと言い出すほどの壮健ぶりで、クラリッサとバートラムをかえってはらはらさせた。
「旅もこれで終わりだからな。奥様には無理のない程度に堪能していただこう」
 バートラムが苦笑しつつそう言ったので、クラリッサもメイベルの体調に目を光らせつつ市場へと同行した。
 広い通りの両側に色とりどりの天幕が張られた市場は、その中を行き交う買い物客とそれを捕まえようと躍起になる客引き達とでごった返していた。メイベルも賑々しい中を跳ね回るように見て歩き、その度に品物に見とれたり歓声を上げたりとすっかり堪能しているようだった。美しい毛織物に描かれた鮮やかな紋様に溜息をつき、一つ一つ形や色づけの違うガラス製のボタンをためつすがめつして、珍しい果物があれば勧められるがままに味見をした上で購入する。市場は見るものも多くて目移りしてしまうほどなのに、メイベルもまた目まぐるしく歩き回るから、クラリッサはついていくのがやっとだった。
 何軒目かの天幕の前でメイベルは美しいリボンやビーズを扱う商人に呼び止められ、種類豊富な品々の中から自分の好みに合うものを選ぼうと熱心に吟味を始めた。
 クラリッサとバートラムは夫人の買い物を邪魔しないよう、少し離れたところから見守っていた。
「君は買わなくていいのか? ご婦人はああいうきれいな品が好きだろう」
 バートラムが気にかけるように言ってくれたものの、クラリッサは笑ってかぶりを振った。
「いいえ。わたくしはこの旅の間に、もう十分いろんなものをいただきましたから」
 そしてもうじき、生まれて初めて家族を得ることができる。これ以上望むものは何もない。
 その返答を聞いたバートラムが嬉しそうにしていたので、つられるようにクラリッサも嬉しくなる。
「バートラムさん……いえ、バートラム。一つ伺ってもよろしいですか?」
「何なりと」
「奥様のこと、いつ『お母様』と呼ばれるおつもりですか?」
 どうやらその問いは彼にとって重大な悩み事であったようだ。バートラムは微笑みながら思案するように髭のない顎を撫で擦る。
「いつにしようか考えているところだ。こういうことはあまり改まるのもよくないからな」
「では、その時を楽しみにしております」
「他人事のように言うが、君だって同じだろう。君はいつ言うつもりでいる?」
 逆に彼から尋ねられ、クラリッサはやはり考え込んだ。
 バートラムと結婚をすれば、メイベルはクラリッサにとっての義母となる。そうなるとやはり自分も、彼女を母と慕い、そしてそのように呼びかけるようでなくてはならないだろう。
 しかし、これまでずっと主として慕ってきた人を、母と呼ぶのはクラリッサにとって途方もないことだ。
 クラリッサが思案に暮れるのを見かねてか、バートラムがやがて口を開いた。
「では二人で呼ぶようにしようか。私も君と共になら、何でもできそうな気がするよ」
 こちらを見つめる彼の顔に、幸せそうな微笑が浮かんでいる。
 同じようにその顔を見つめ返したクラリッサは、やがて万感込めて頷いた。
「ええ。わたくしも、あなたとなら」
 途方もないことでさえ、できてしまいそうな気がする。
 人でごった返す市場の片隅で二人は自然と見つめ合っていたが――そこへメイベルの声が飛んできた。
「ねえ、クラリッサ! あなたも何か品物を選びましょうよ、旅の思い出に!」
「――は、はい。ただ今伺います!」
 はっとして、クラリッサは夫人の元へ急行した。
 後からバートラムもついてきたようだ。喉を鳴らしておかしそうに笑う彼の声が聞こえてくる。

 旅は終わり、三人はもうじき帰途に着く。
 帰ってからの日々が目まぐるしいものになることは想像に難くない。バートラムは新しい仕事を始めなくてはならないし、クラリッサにも今までとは別の仕事が増えていくはずだ。メイベルにはしばらく保養に努めてもらわなくてはならないし、その為に居心地のいい環境を作り出すのも肝要なことだ。何人か残っていたとは言え、ずっと留守にしていた屋敷の手入れもしなくてはならない。やり過ごした悪辣な連中が主の帰りを待ち構えていないとも限らない。やらなくてはならないこと、考えなくてはならないことはたくさんある。
 つまりこれからが三人にとっての始まりだ。
 クラリッサは今こそ胸を張って、その時を迎えようとしている。どんな困難も、面倒事も、乗り越えられると思っている。愛する人と共になら。
 そしてその思いを、あの静かな片田舎に建つ屋敷を見下ろす墓の前で、素直に打ち明けようと思っている。
 レスターもまた、三人の帰りを待っているはずだった。
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