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まだ、愛しています(4)

 夜が明けると、世界は光で満たされる。
 その眩しさは重い瞼を抉じ開け、クラリッサの意識を夢見心地から引き戻す。
 どんな夜を過ごそうとも、その後に朝は必ずやって来る。そして浅い眠りの間、夜に高揚していた気分は鳴りを潜め、冷静さが戻ってくる。朝の光は残酷なまでに全てを白々と照らし出す。昨夜の出来事の記憶も、その時自分が何を思っていたかも――。
 この湖畔を訪れてからというもの、メイベルが寝ついてからの時間をほぼ毎夜バートラムと過ごしてきた。そしてその後には決まって憂鬱な朝を迎えていた。
 彼と過ごす時間が楽しくないわけではない。嫌々付き合ってきたというわけでもない。ただいつも後悔はしている。夜のうちは妙に素直な気持ちになって、胸中の本音をつい打ち明けたくなってしまう。
 そしてついに昨夜は、思いの丈を洗いざらい告白していた。
 後悔は、もうしないつもりでいた。言うべきことを言い、彼の八年越しの想いに応えた。それがクラリッサ自身の望みであり、恩人たる彼に対して誠実であるということだからだ。
 だが後悔はしていなくても、やはりどうしても気恥ずかしい。

 朝食の支度の為に台所に立つクラリッサを、バートラムが早速訪ねてきた。
「おはよう、クラリッサ。昨夜は少しでも眠れたかな」
 戸口に立っているらしい彼が背後から声をかけてくる。朝の光に長く伸びた彼の影が、小さな台所の床に差しかかるのが見えた。
 クラリッサは顔を上げる気も振り返る気も起こらず、それでも一応、スープを掻き混ぜる手を止めて応じた。
「おはようございます……」
「こっちを向いて。私は君の顔を見るのを楽しみに、今朝はこうして起きてきたのだ」
 彼の声はうきうきと弾んでいた。どうやら機嫌はいいらしい。もっともクラリッサの前でバートラムが機嫌を損ねてみせたことなど、これまでほとんどなかったが。
 渋々クラリッサは振り向き、台所の戸口で微笑んでいるバートラムに目をやった。彼の表情も声と同様に上機嫌のようで、視線が合うと口角を吊り上げて一層笑んだ。
「おはよう。今日の君は一段と可愛いよ、クラリッサ」
「あ、ありがとうございます」
 よく聞かされているはずの誉め言葉が、今朝は妙に耳をくすぐる。クラリッサがはにかむと、間髪入れず彼は続けた。
「特にそのはにかむ表情。色気があってとてもいい」
「何を仰るんですか、急に」
 そう言われてどんな反応をしろと言うのか。クラリッサは頬を赤らめ慌てたが、彼は気にするそぶりもない。
「それにその目元。昨夜はあまり眠っていないのだろう」
「ええ、まあ……」
 あんなことがあってよく眠れているはずがない。寝台で何度寝返りを打ち、枕に顔を埋めては胸の高鳴りを鎮めようとしていたか――そんなことを逐一説明したところでかえって面映いのはわかっていたから、クラリッサは曖昧に頷くだけに留めた。
 するとバートラムは台所に立ち入り、鍋の前でもじもじするクラリッサに近づいた。手を伸ばして、腫れぼったくなっているはずの下瞼を指の腹で撫でてくる。
「一晩中、私のことを考えていてくれたと思っていいのかな」
 随分と嬉しそうなバートラムの確認は誤りではないのだが、朝は夜ほど素直ではいられない。クラリッサは口ごもりながら目の前で微笑む恋人の顔を見つめ、逃げを打つように聞き返した。
「あなたは……それほど眠そうではありませんね」
 昨朝とは違い、今朝のバートラムはしっかり睡眠を取った後の顔つきをしていた。目をしょぼつかせることもなく、皮膚や唇の艶もよく、表情は活力と喜びに溢れている。
 クラリッサがじろじろと視線を送ったからか、彼は心外そうに肩を竦めた。
「誤解しないで欲しい。私だって君のことを存分に考えながら眠りに就いたとも」
「いえ、別に誤解をしているつもりはありませんけど」
 彼にも同じように眠れぬ夜を味わって欲しかった、などと言うつもりはない。
 ただ、あんな時間を過ごした後でぐっすり眠れる方法があるのなら知りたいものだと、クラリッサは切実に思う。
「おかげでいい夢が見られたよ。夢の中でも君と楽しい一時を過ごせた。詳細を聞かせようか?」
「遠慮いたします」
「そう言わずに。夢では我々は既に夫婦でね、甘い甘い蜜月期間を堪能していたのだ」
 クラリッサは対応に困り、再び鍋を掻き混ぜ始めた。今日の朝食には柔らかく煮込んだキャベツとジャガイモのスープを用意するつもりだった。昨日はメイベルもくたびれていた様子だったから、食べやすく栄養のあるものをと考えたのだ。
 鍋を掻き回すクラリッサの隣に、バートラムが並び立つ。そうして横から顔を覗き込んでくる。熱っぽい視線に絡めとられると耳朶にその熱がうつり、燃えるように熱くなる。
 彼の瞳は湖水のように深い青色をしているのに、その眼差しには熱があるのが不思議だった。それこそ昨晩思ったみたいに、蝋燭に灯る炎の青さでできているようだ。
 クラリッサがこわごわとその瞳を見返すと、バートラムは目で微笑みかけた後、間隙を突くように短いキスを唇にくれた。
 心臓が大きく跳ね、クラリッサ自身もまた跳び上がりそうになる。
「なっ……何をなさるんですか!」
「おはようのキスだよ。恋人同士なら当然の挨拶だ」
 こちらの狼狽をよそに、バートラムは至って落ち着いている。クラリッサが瞠目するのをにこにこと見下ろし、人差し指で唇を撫でてくる。そのそぶりが純粋に幸せそうで、内心どぎまぎしている様子が見えないのが今でも悔しい。彼はどうしてこんなにも、こういう局面で平然としていられるのだろう。
「お言葉ですが、わたくしは既に仕事を始めておりますので」
 クラリッサは悔し紛れに言ったが、以前のように彼を突き放すことはもうできなくなっていた。恋人を悲しませたくはない一心で、声を落として言い添える。
「こういうことは、その、お仕事が済んでしまってからにしていただきたいです」
 それを聞いたバートラムは満足したようにうっすらと笑んだ。
「ではまた今夜にでも。――忘れないでくれよ、クラリッサ」
 念を押す言葉にクラリッサは顎を引いたが、その顎を彼の長い指が捉えたかと思うとぐっと引き寄せられ、また唇を奪われた。柔らかくて生温かい感触が、今度はじっくりと唇に与えられていく。クラリッサは一瞬遅れて目を閉じたが、その直前に見たバートラムの表情が瞼の裏に焼きついていた。唇が触れる瞬間まで彼は目を開けていて、じっと貪欲にこちらを見据えていたから、深い青の瞳に飲み込まれてしまうようだと思った。黒い前髪は自分の赤褐色の前髪と触れ合って、かさりと微かな音を立てながら交ざり合ったのも見えた。
 目眩がするような感覚が駆け上り、唇が離れた瞬間、クラリッサは声を上げた。
「バートラム!」
 彼の行動を咎めたつもりだったのだが、彼はむしろそう呼ばれたことを喜んだようだった。恭しく一礼して、余裕綽々の態度で返事をする。
「何かな、クラリッサ。何でも言ってくれたまえ、君の望みなら叶えてあげよう」
「今は特にございません。わたくしは忙しいのです!」
 クラリッサは言い放ち、そっぽを向いた。実のところスープはもうできあがっていて、キャベツはくたくたになるまでよく煮込まれていたし、その中に悠然とたゆたうジャガイモにも十分火が通っていた。だが尚も鍋を掻き混ぜ続けていたのは、手を休めればまた彼にちょっかいをかけられそうな気がしていたからだ。
 しかしバートラムはクラリッサの内心も知らず、その会話の後もずっと台所に留まっていた。鍋の前に立つクラリッサをじっと注視してくるので、気が散って仕方がない。
「何か、他に御用ですか」
 しびれを切らしたクラリッサが尋ねると、バートラムはこちらを見つめながら応じた。
「いいや。私の可愛い恋人に見とれていただけだ」
「は……!?」
「君はいつでも可愛らしいが、ついに私のものになったのだと思うと一段といとおしくなる」
 もはやクラリッサは言い返すこともできず、口を魚のようにぱくぱくさせるばかりだった。髪に負けじと赤くなった頬を隠しきれずに俯いた時、台所に新たな人影が現れた。
「――おはよう、二人とも。今朝も早いのね」
 ガウンを羽織ったメイベルだった。
「お、おはようございます、奥様」
 慌てふためくクラリッサとは対照的に、バートラムは落ち着き払って挨拶をする。
「おはようございます。よくお休みになれましたか?」
「ええ。本当はもう少し寝ていようかと思ったのだけど……」
 真っ白な髪をざっとまとめたメイベルは、台所を覗き込んでまだ眠そうな目を細めた。
「とてもいい匂いがするから、頭よりお腹の方が先に起きてしまったみたい。今朝はキャベツのスープね?」
 メイベルの顔色はとてもよく、そのことにクラリッサはまず安堵した。昨日は――夜の出来事を除いたとしても本当にいろいろなことがあった一日だった。ゆっくりと休んで彼女の疲れが癒えたのなら、言うこともない。
 そのメイベルはクラリッサとバートラムの顔を見比べて、羨むように口元を綻ばせた。
「それにしても。朝から仲睦まじいことね、何だか眩しいくらいよ」
 主からの冷やかしにクラリッサは息を呑むばかりで、慌ててバートラムに視線をやると、彼は楽しげに片目をつむってきた。
 もう誤解だと、心の中で言い訳をすることもできない。
 クラリッサは本当に、彼と恋仲になってしまったのだ。

 メイベルは調子も悪くないようで、できたてのスープを喜んで食べてくれた。
 そして朝食を食べながら、給仕をする二人の従者に向かって告げた。
「ホリスさんのお父様の葬儀を見届けたら、そろそろここを発とうと思うの」
 クラリッサは黙ってメイベルを見つめた。主の発言に驚いたわけではない。そろそろ頃合いだろうとクラリッサ自身も思っていた。
 ただレスターの死以来、初めての葬儀に立ち会う主の胸中を慮らずにはいられなかった。
「次の行き先ももう決めてあるのよ。ここから程近い街でね」
 メイベルはクラリッサの憂慮を吹き飛ばすかのように、至って朗らかに語を継いだ。
「交易が盛んな街だから、とても賑やかなはずよ。新婚旅行で訪ねたきりだから今は趣が変わっているかもしれないけど……」
 それから、まだ何か続けようとしたようだ。口を軽く開けたまま考え込むようなそぶりを見せた。
 しかし結局何も言わず、口もすぐに閉ざされて微笑みに変わった。
「我々は奥様のご要望通りに。ご意向に従いますとも」
 バートラムも異を唱えることなく一礼した。
 その後で夫人に歩み寄り、ひざまずいて切り出す。
「畏れながら奥様。お話ししたいことがございます、後程お時間をいただけますでしょうか」
 今度はクラリッサもぎょっとした。
 昨夜のことではないかと直感していた。
 メイベルもおおよその内容は察していたのかもしれない。ちらりとクラリッサを見てから笑みを零し、そして問い返した。
「もちろん構わないわ。それはお二人からのお話と思っていいのかしら?」
 だがバートラムは控えめな微笑でかぶりを振る。
「いえ、まずは私と奥様の二人だけで。その後、改めてクラリッサにも話をいたします」
 彼がそう主張したことに、クラリッサはわずかな違和感を覚えた。
 確かに昨夜、彼は『自分が奥様に話をしておく』と言っていた。結婚に当たり、先にやっておくべきことがある、とも。
 それがメイベルとの二人だけの会談だったということなのかもしれないが――少しだけ引っかかるのは、メイベルがその時顔を強張らせたせいかもしれない。
 柔和な顔に珍しく緊張を走らせた夫人は、それでも真摯に頷いた。
「わかったわ。後で必ず伺いましょう」
「ありがとうございます、奥様」
 頭を下げるバートラムに、メイベルがいくらか緊張を解き、温かな眼差しを送る。
 クラリッサはそんな二人の姿に違和感を拭いきれずにいた。何が、というわけではない。だが何かが、とても気になっている。

 朝食の後、三人は改めてホリスの家を訪ねた。
 ホリスは夜明けと共に馬車を駆って街へ出向き、聖堂の司祭に渡りをつけてきたらしい。程なくして司祭を伴い戻ってきた。
 そしてホリス一家と近隣の農場主たち、そしてクラリッサたちの同席の元、簡素でしめやかな葬儀が執り行われた。新しい着衣を着せられた遺体は簡素な木の棺に納められ、儀式の後にホリス家に程近い場所に埋められた。司祭が手にした振り香炉から乳香の煙が立ち昇ると、クラリッサはやはりかつて同じように立ち会った葬儀を――レスターの死を思い出さずにはいられなかった。
 人は死んだ後、どうなるのだろう。司祭たちは口を揃えて『天上の楽園に行くのだ』と言うが、はたして本当だろうか。クラリッサには確かめようもないし、真実を知る日が訪れたとしても誰かに伝えることは不可能だろう。
 だがレスターは、まだあの片田舎の大地にて眠っているように思えるのだ。
 農園が点在する小さな村落に建てられた、まだ真新しい屋敷のすぐ傍に。屋敷を見下ろせる小高い丘の上に立てられた墓碑のその足元に。そうして静かに眠りながら、今も尚メイベルを想い、彼女の旅の無事を祈り、そしてその帰りを待ち続けているような気がしてならないのだ。
 にわかに帰りたい気持ちが湧き起こったのも、そんな想像をしていたからかもしれない。
 帰るべき家も故郷もないクラリッサだが、レスターがメイベルの為に立てたあの屋敷は唯一、帰っていくことのできる場所だった。
 もしあの屋敷へ帰る日が来たら、すぐにレスターの墓前へと飛んでいこう。メイベルの無事と帰還を報告しなくてはならない。
 それから、今は実感が湧かないがもしかすると帰る頃には――結婚をすると報告できるような心持に、なっているかもしれない。
 香炉から細く立ち昇る煙が空へと真っ直ぐ伸びていく。
 けれどその煙は木々の梢に囲まれた高い空には届かず、やがて溶けてしまうから、やはり人は天上ではなく大地に眠るではないだろうか。この香りの届くところで、家族の暮らすすぐ傍で安らかな眠りに就いているのだと、クラリッサはそう思えてならなかった。
 葬儀に立ち会う人々の顔は沈んでいたが、一方で安堵しているようにも映った。足首に湿布を貼ったシェリルも、その傍で守るように立っているサイラスも、涙を見せることはなかった。
 そしてメイベルも、生前の顔も知らぬ相手に深い祈りを捧げながら、慈愛に満ちた穏やかな顔をしていた。
 クラリッサはその横顔を盗み見ながら、何かの終わりが近づいてくる微かな予感を抱いていた。
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