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まだ、愛しています(3)

 初めて、唇に誰かの唇が触れた。
 ごく優しい、確かめるような触れるだけのキスだった。
 触れてきたその唇の柔らかい感触を、クラリッサは懐かしいと思った。

 考えてみれば奇妙なことだ。初めてなのに、懐かしい。
 もしかするとその懐かしさは、これまで彼から受けた身体的接触に対する記憶からくるものなのかもしれない。キスも抱擁も、初めてしてくれたのは彼だった。その時は何とも思わなかった記憶の積み重ねが、今になって芽吹くように懐かしく、幸せな感覚を呼び起こすのかもしれない。
 あるいは、これもまたクラリッサが欲してきた、見えない心の奥底で求めてきたものだったから、かもしれない。
 心から愛し合い、求め合える誰かの存在を、クラリッサはずっと待っていた。
 込み上げる懐かしさが胸をきつく締めつけて、そこから染み出すように別の感覚が広がっていく。嬉しい、恥ずかしい、とても心地がいい、そして――何と言っていいのかわからないけれど、目の前にいるこの人を、今、唇を重ね合わせているこの人を、同じように幸せにしてあげたいと願う切なる想い。
 それから思った。自分と唇を重ね合わせながら、彼は今、何を考えているのだろう。目を閉じているからその表情も姿も見えないが、感じることはできる。クラリッサの肩に手を置いて、もう片方の手は赤褐色の髪を優しく撫でている。その仕種から深い慈しみを読み取ることはできるが、何を考えているかまではわからない。だがそれを知りたい、手に取るようにわかりたいと思い始めている。
 本当に奇妙だ。求めるものを手に入れたかと思えば、更に深く欲しくなる。自分のどこにこれほどまでの貪欲さが眠っていたのだろう。
 そしてその飽くなき渇望は、唇が離れた瞬間に、身を切られるような寂しさまで呼び起こした。
「……あ」
 思わず吐息と共に声を漏らすと、まだすぐ傍にいるらしいバートラムが笑うのが聞こえた。
「足りない?」
 それでクラリッサはわざわざ目を開け、思いきり彼から視線を外した。この人は何を聞くのだろうと思う。
「変なことを聞かないでください」
「変? そうかな。私たちはおかしなことをしているわけじゃない」
 バートラムは宥める口調で言うと、クラリッサの頬に両手で触れた。彼の手はほんのりと温かかったが、触れられた頬は燃え盛るように熱くなっていた。その温度の違いに気づいて今更のようにどぎまぎし始めるクラリッサを、彼の手が再び彼の方へ向かせる。
 そのせいで、クラリッサは傍らに立つバートラムの姿を間近に見る羽目となった。
 彼はいつものように笑んでいる。ただその笑みはどこか意味ありげな、しっとりとした色気を帯びているようだった。クラリッサはその顔に見とれる一方で、未知の事柄に対するおぼろげな怯えも感じていた。
 この人は自分の知らない感情を、尚も事足りないというように引き出そうとしている。
「君が嫌じゃないのなら、もう一度。私もこれだけでは足りない」
 顔を覗き込み、額をぶつけるようにしてバートラムがねだった。
 クラリッサはその目に映り込む、自らの困惑しきった表情を見つめていた。本当は目を逸らしたかったのだが、頬を挟む彼の手がそれを制した。
「お願いですから、聞かないで」
 懇願するクラリッサを面白がるように、彼はまた笑った。
「答えなくてもいいと言ったはずだよ、クラリッサ。君は目を閉じればいいだけだ」
 まるでたやすいことのように言われたものの、クラリッサにとってはそれさえ非常に勇気の要ることだった。自分がどうしたいのかわからない。気恥ずかしさのあまり意識が吹き飛びそうになる。それでいて、何だか幸せで仕方がないのだから本当に訳がわからない。
「バートラムさん……」
 まだ目を閉じられずに彼の名を呼ぶと、待ちきれなくなったのか、バートラムが軽く口づけてきた。一瞬だけ触れた唇がすぐに離れ、それから彼も幸せそうに口を開く。
「もっと甘く。恋人の名を呼ぶのだから」
 そうは言われてもクラリッサに恋人の呼び方などわかるはずもない。黙って一度瞬きをすると、彼は丁寧に教える口調で言った。
「クラリッサ。私が君をどう呼んでいるか、よくよく考えてみるといい」
 彼がクラリッサを呼ぶ声は確かに甘い。宝物のように、とても大切な言葉のように口にしてくれる。クラリッサもかつては自らの名を、たった一つ親から与えられたものとして大切に思っていた。その頃の思いが今になって、かつて思い描いていたのとは別の形で報われたような気がした。
 それなら、彼の名前も同じように呼ぼう。彼にとっては二つ目だという、とても大切な贈り物である名前を。
「……バートラム」
 できるかぎりの心を込めて、クラリッサはその名を呼んだ。
 もっとも口にした後で、妙な面映さと罪悪感を覚えて首を竦めた。
「わたくしがあなたをこんなふうに呼んだら、不躾でしょうか」
 すると彼はかぶりを振り、幸せに浸るように目を細めた。
「嬉しいよ、クラリッサ。二人の時はそう呼んでくれ」
 そう言った後で、また唇を求めるように顔を近づけてくる。
「バートラム、わたくしは、あなたを……」
「その続きは、言葉以外で聞かせてくれ。もっと近くで――」
 クラリッサは慌てて目を閉じようとしたが、それよりも早くもどかしげに塞がれた。
 再び懐かしさにも似た渇望が込み上げてきて、いくらかの迷いやためらい、怯えなどは一気に押し流されていった。

 何度も、何度も、何度も唇を重ねた。
 呼吸が苦しくなって少しの間離すと、弾む吐息が居間に響いた。だが息を整える間もなく口づけが繰り返されるうち、次第に意識が朦朧としてくる。込み上げてくる幸福感さえも凌ぐような、心が痺れる奇妙な感覚がクラリッサを戸惑わせた。
 バートラムは狂おしいキスの合間に、クラリッサの髪に指を差し入れては掻き混ぜるように梳き、また肩や腕や腹などをいとおしむように撫でてきた。彼のそういう振る舞いを不快だとは思わなかったものの、何かこれまでになかった事態が起きつつあることには気がついていた。
 そして遂に椅子から引き剥がされるようにして身体を抱え上げられ、そのまま食卓の上に押し倒された時、若干の危機感を覚えてクラリッサは言った。
「あ、あの、バートラム。一つ伺ってもよろしいですか?」
 クラリッサに覆い被さるようにしてその髪に顔を埋めていたバートラムが、声をかけられて面を上げる。熱を帯びる青い瞳が、今は蝋燭の炎のように揺らめいていた。艶めいて光る唇が微かに笑んで、それから応じる。
「呼び方はそれでいいが、話し方はいつもと変わらないな」
「おかしい……ですか? お嫌なら、直すようにいたします」
「嫌ではないが、君から親しげに甘えられるのも悪くない」
 そう言って、バートラムはクラリッサの着衣越しに腰を撫でる。
 くすぐったさからクラリッサがその手を払おうとすると、すかさず彼が話を戻した。
「ところで何かな、クラリッサ」
「な、何と申しますか、これはその、一体どういうことかと――」
 質問を最後まで言うより先に、何度目になるかわからないキスが言葉を遮った。
「聞くまでもないだろう。我々は遂に想いを告げ合い、真実の恋人同士となったのだ」
 それからクラリッサを見下ろし、蜜を溶かしたようなとろりとした眼差しを向けてくる。
「ならばこれからはもう、君と愛を交わすのに言葉さえも要らないはずだ」
「そ、そんなことはありません。言葉は大切です。必要です」
 クラリッサは慌てて言い返すと、一旦身を起こそうと覆い被さる彼の肩を押し返した。バートラムはわずかにだけ上体を引いたが、クラリッサから離れる気はないようだった。
「ここまで来て押し退けようとするなんて酷いじゃないか」
「だって、そんな……こんなこと。何と申しますか、ふしだらでしょう?」
 困惑しながらもクラリッサは問いかける。
 途端、バートラムは思いがけないという顔になって、
「まさか。先にも言ったが、我々は既に恋仲だよ、クラリッサ」
「だとしてもです。わたくしたちはまだお互いに未婚です」
「それはそうだ。だが想い合っているという意味では夫婦も恋人も違いはあるまい」
「いいえ。未婚の男女がこんなことをするのは、はっきり申し上げると尚早かと」
 食卓に押し倒された状態で問答を続けるのも妙な気がしたが、クラリッサは切々と主張を続けた。はっきり言っておかなければ気を抜いた瞬間に押し流されてしまうような危うさが自分の心中にあることを、密かに認めてもいた。彼を想うがゆえに彼の望み通りにしたいという気持ちと、彼を大切に思うからこそ誰にも恥じない関係を築きたいという気持ちがせめぎ合い、クラリッサ自身もどうしていいのかわからなかった。
 それゆえに未知の事態への怯えの分だけ、今は拒みたい気持ちが先立ってしまう。
「はっきりと言う割に、君は随分迷っているようだ。どうにか押し切らせてくれないものか」
 バートラムはやはりクラリッサの心中を察しているらしい。目を眇めて眉を顰めた。
「そもそも我々は既に一度、寝床を共にしている。君の基準ではそれはいいのかな?」
 試すような彼の口調と視線に、クラリッサは昨夜の出来事を思い出し、気まずい思いで抗弁する。
「だ、だってあれは、酔っておりましたから……」
「酔っていれば何をしてもいいと?」
 一瞬だけ、彼の青い瞳に妖しい光が過ぎったようだった。
「そういうわけではありませんけど、でも」
「でも、そういうことだろう? 君が昨晩のことをなかったことにしたいと言うなら」
「なかったことなんて……ゆ、昨夜のことは、自分でも意外なくらいで、順序を違えたと思っております……」
 困り果てたクラリッサがもごもごと答えると、バートラムは苦笑してから短く息をつく。
「参ったな。いっそ君をもう一度、酔わせてしまった方が早そうだ」
 それから彼はクラリッサから身を離し、更にクラリッサの上体を抱え起こして食卓の上に座らせた。起き上がったことでいくらかほっとしたクラリッサだったが、目の前に立つバートラムの真剣な顔つきに思わず身を竦ませた。
 バートラムは屈んで、クラリッサに今一度口づけた。それから乱れた髪を手ぐしで直し、着衣の乱れを整えてくれた。胸元に手を伸ばされた時はびくりとしたが、彼は両手で、いつの間にか外れていたクラリッサのブラウスのボタンを一つ一つ留めてくれていた。
「あ、ご、ごめんなさい。ありがとうございます」
 反射的に詫びて礼も述べてから、なぜボタンが外れていたのかと奇妙に思う。
 バートラムはボタンを全て留め終えてから、優しく、しかし有無を言わさぬ顔で笑んだ。
「クラリッサ。君に言いたいことがある」
「な……何でしょう」
 まだ釈然とせずにブラウスの胸元を見下ろしていたクラリッサは、
「私と結婚して欲しい。君の答えは?」
 聞こえてきた彼の言葉に、弾かれたように顔を上げた。
「え……――えっ!?」
 視線の先にはやはり彼の笑顔がある。嘘もためらいもない笑み。自分だけに贈られる最高の笑みだとクラリッサはわかっている。
 だが告げられた言葉自体は、どう受け止めていいのやら。
「い、今ですか?」
 クラリッサが聞き返すと、彼はおかしそうに吹き出した。
「今ではないよ。そうしたいのはやまやまだが、立会人を用意しなくてはならないし、何より奥様にご報告をしなければならない」
 メイベルのことを考えると、クラリッサは別の気恥ずかしさに見舞われた。彼女はクラリッサとバートラムの関係を誤解したままだが、これで嘘をつく必要もなくなるのだと思うとほっとするような、かえって気まずいような。
「だが結婚をすれば、君は君の大切に思うものを全て失わず、手放さずに済む」
 バートラムはそう続けて、目を瞬かせるクラリッサの唇に指を置く。
「そして私も、欲しいものを全て手に入れられる。素晴らしい話だろう?」
 だがクラリッサにはいまいち実感の湧かない話だった。ついこの間も結婚式を見てきたばかりだが、ああいうことを自分もするのだろうか。彼と一緒に?
 その上で、彼と夫婦になるのだろうか。新しい家庭を築くことになるのだろうか。
 結婚、夫婦、家庭――全ての事柄と縁遠かったクラリッサは、ぼんやりとバートラムを見つめるばかりで言葉も出ない。
「何か気になることでも?」
 バートラムがそう尋ねてきたので、クラリッサは我に返って答えた。
「いいえ、ただ、あまりにも現実味がなくて……」
「そうかな。私には君の頬のように薔薇色の結婚生活が思い浮かぶようだよ」
 その言葉にクラリッサも少しだけ想像してみた。
 恐らく彼は共に歩む人生においてもクラリッサを幸せにしてくれるだろうし、心地よい安らぎをもくれることだろう。人生の途中で幾度となく訪れる艱難辛苦も、彼の知恵と機転があれば乗り越えられる気がしてならない。そして何より、クラリッサもまた彼と共にありたいと望んでいた。
 だがもっと具体的な想像をすることはできなかった。あのお屋敷に戻り、メイベルの為に働きながら、バートラムと夫婦として暮らすという想像がどうしてもできない。そもそも住み込みで働く小間使いに、同じく住み込みの執事との結婚が許されるものなのだろうか。メイベルなら案外すんなりと許しをくれるような気もするが、それならそれで妙な生活に思えてならない。
「奥様には折を見て、私から話をしておこう」
 畳みかけるようにバートラムは言う。
「君はただ頷いてくれるだけでいい。よもや今になって、私が相手では不満があるなどとは言わないだろう?」
「そんな、まさか! わたくしは……」
 クラリッサは強く首を振り、それから彼へと真っ直ぐに視線を返した。
「バートラム。わたくしはあなたを信じております。あなたの仰ることに間違いはないと」
「ありがとう」
「そのあなたが仰るのなら……わたくしはまだ、結婚なんて想像もつきませんけれど」
 だが恋仲のまま、気楽なばかりの付き合いができるような性格ではない。クラリッサは生真面目さゆえに頷いた。
「いつかその時が来たら、喜んであなたと共に歩みましょう」
 答えを聞いたバートラムは微笑んだ。
 端整な面立ちに、祝福のように幸福が差し込んで明るく、柔らかく変わっていく。笑い方一つとっても実に多彩な彼の笑顔を、クラリッサは好ましいと思う。昔はこうして笑いかけられる度、無性に悔しくて仕方がなかったのに。
「君らしい、控えめながらもいい答えだ。必ずや君を幸せにしよう」
 彼はそう言うと、まだほんのりと熱いクラリッサの頬に、ほつれた赤褐色の髪に、そして乾き始めた唇に次々とキスをする。
「本音を言えば私は、その時まで待てる気がしないくらいなのだが……」
 唇には名残りを惜しむように、二度、三度と口づけてきた。
「今夜だって、寝室に行くまで待てないと思ったほどだ。だが、私にも先にやっておくべきことができたからな」
 その言葉の前半と後半、どちらをより気にするべきか――迷ったがクラリッサは、結局尋ねた。
「やっておくべきこととは、一体?」
「直にわかるよ。君を驚かせるといけない、今は秘密にしておこう」
 至って軽い口調でバートラムは言った。
 クラリッサも深く追及する気はなかったのだが、少しだけ、先程唇が離れた後のような寂しさを覚えた。
 思わず自らの唇に指で触れる。指先の感触は、彼の唇とは明らかに違っていた。
 そんなクラリッサを見咎めて、バートラムが企み顔で尋ねる。
「……もう一度?」
「い、いえ……」
 慌てて否定したクラリッサは、その後で独り言のように呟いた。
「これ以上したら、止め時がわからなくなってしまいますから……」
 しかしバートラムは平然と、肩を竦めて応じた。
「わからなくなればいい」
「もう、そんなことを……!」
 クラリッサの抗議の声も、結局は彼によって素早く封じられてしまった。
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