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まだ、愛しています(5)

 葬儀の後、クラリッサたちは借り受けた邸宅に戻ってきた。
 そして予定通り、バートラムはメイベルと何か話をするつもりのようだ。クラリッサに向かって席を外すよう告げてきた。
「君を除け者にしたいわけではないが、まずは奥様と二人で話をさせてくれ」
 バートラムは宥めるような声音でそう言い、目を瞬かせるクラリッサの頬を撫でた。
「全てが済んだら君にも包み隠さず話す。信じて待っていて欲しい」
 彼の口調は穏やかだったが、大きな一歩を踏み出す決意のようなものも窺えた。それがどのようなものかはわからなかったものの、クラリッサは黙って頷いた。
 おぼろげに、自分がまだ立ち入れないものが彼の中に存在していることも察していた。
 だがそれも全て明かしてくれると言うなら、信じているべきだろう。

 二人が邸宅の居間で話し合う間、クラリッサは外に出て、庭先の掃除を始めていた。
 この地を近々離れることはもう決まっていた。今から掃除を始めておけば、あとで手間取ることもないだろうという心算があった。もっともそれ以上に、何か余計なことを考えなくても済むような作業に没頭していたいという気持ちもなかったとは言えない。
 バートラムとメイベルが何を話しているのか、当然ながら気になる。だからクラリッサは箒を手にし、ひたすら周辺の掃除に心を注いだ。
 それでも、合間合間に手を止めて、考え込みたくなった。
 クラリッサはまだバートラムのことをよく知らない。将来を誓い合う段階まで至っても尚、教えてもらっていないことは山のようにうず高く積み上げられていた。彼の本当の名前も、彼の家族に何が起きたのかも、どういう経緯でレスターと出会い、救われたのかも――それらの話をどうしても知りたいわけではなく、彼が語る気がないのなら教えてもらえなくてもいいとクラリッサは思っている。誰にでも人には打ち明けがたい過去があるものだ。クラリッサもそうだった。
 ただ、少しだけ不思議に思っていたことがある。
 バートラムは放浪生活の途中でレスターに拾われ、新しい人生を歩むようにと二つ目の名を与えられた。そして先代の執事の下で仕事を教わり、老いた先代の引退後に次の執事として務めることとなったらしい。これらは彼の口から直接聞いた話だ。クラリッサにとっては知りえぬ話で、疑う余地もない。不自然なところもないだろう。クラリッサが孤児院でたまたま彼と出会ったように、彼もまたレスターと運命的に出会い、救われたのだと考えてもおかしなことはないはずだ。
 だが労働力を求めて十六歳の孤児院育ちの娘を雇い入れるのと、彷徨える年齢不詳、身元不詳の少年を拾い、執事として使い物になるよう育て上げるのとは訳が違う。クラリッサはふと、そこに別の意味があるような気がしたのだ。
 レスターは愛妻家で、クラリッサにも優しく温厚な好人物だったが、決して慈善家ではなかった。商人らしく金の使い方は堅実で、寄付を求められても話を聞いて納得がいかなければ決して財布の紐を緩めなかった。そして何より、時に善良なメイベルがたしなめにかかるほど用心深い人物でもあった。そんなレスターがただの親切心から身元はおろか実年齢すらはっきりしない少年の世話をするとは思えない。クラリッサの時とは違う、もっと深い理由があって彼を引き取ったと考える方が自然だろう。
 その理由がもしかすると、クラリッサの知らないバートラムの過去に関わっているのかもしれない。
 そしてそれゆえに、今、バートラムはメイベルと二人だけで話をしているのだろう。
 クラリッサは箒を抱きかかえるようにして、地面に視線を落として物思いに耽った。今となってはバートラムを心から信じていると言える。だから彼がどんな過去を、経緯を、そして未来への展望を打ち明けてこようとも気が変わることはないだろう。だがそれを聞かされた時、自分は堂々としていられるだろうか。彼の過去も秘密も受け止めることが、自分にできるだろうか。
 本当は、教えてもらわなくてもいいと思っているわけではなく、聞くのが怖いのかもしれない。
 恋に落ちたら、その相手のことをより知りたいと思う。それは恐らくごく自然な心の動きだ。その流れに逆らって耳を塞ごうとしていては、彼のことを理解する機会は永遠に失われてしまう――。

 がさりと、傍で草木の揺れる音がした。
 はっとして振り向くと、森の小道を抜けてきたらしいサイラスの姿が見えた。少年は今日は一人きりで、目が合うとやんちゃそうな笑みを浮かべた。
「あ、お姉さん。こんにちは」
 意外な訪問にクラリッサは目を瞠ったが、すぐに微笑を返した。
「こんにちは。さっきお会いしたばかりですけど」
 二人は葬儀でも顔を合わせていた。その時はそれなりに神妙にしていたサイラスだったが、今はすっかり普段通りの顔つきに戻っている。後ろ手に隠していたかごをぐいとクラリッサに差し出し、子供らしい照れ笑いで言った。
「これ、お礼。シェリルを助けてもらったから」
 簡潔な物言いと共に手渡されたかごの中には、手のひらより大きいサイズの丸い焼き菓子が入っていた。硬めの生地の上にリンゴの砂糖漬けをたっぷりと乗せ、更に格子状に生地を乗せて焼き上げたその菓子は、どうやら焼きたてらしくほんのりといい香りがする。
 美味しそうなできばえの菓子にクラリッサが思わず喉を鳴らすと、サイラスがぼそっと言った。
「本当は今日のおやつだったんだけど……」
「そ、それでしたらこちらはいただけません。どうぞお召し上がりください」
 子供から菓子を取り上げるのは許されざる重罪である。クラリッサは慌ててかごを返そうとした。
 しかし少年は迷わず首を横に振った。
「ううん。シェリルとも話して、何かお礼しようってことになったんだ。それにお姉さんたち、もうすぐここを離れちゃうんだろ?」
 この地を去ることは既にホリスに伝えてあると、バートラムは言っていた。子供たちの耳にもその話が入っていたのだろう。
「お礼できるうちにしたいから、貰って」
 サイラスは決意を翻すつもりもないようだ。
 そこでクラリッサは改めて微笑み、そのかごを受け取った。
「ありがとうございます。皆でいただきます」
「うん。あのお兄さん……おじさん? いや、お兄さんなのかな? とにかく、あの人にもあげて」
 サイラスが首を捻りながら言ったので、クラリッサは堪らず吹き出した。
 バートラムを指すのにどちらの形容が正しいのかはクラリッサにもわかりかねるところだが、案外本人もわからないと言うかもしれない。
 ともあれクラリッサが笑い出したからか、サイラスもつられたように明るく笑った。
「あの人、すごいよな。ロープ一本でお姉さんとシェリルを穴から引っ張り上げた時、どんなに力があるんだろうってびっくりしたよ」
「何でもできる人なんです。あの人は」
 クラリッサは頷いた。
 あれほどまでに何もかも恵まれた人物などそうそういないだろう。機転が利き、弁も立ち、身体能力にも優れ、いざという時に的確に状況を見る冷静さまで持ち合わせている。彼がいなければ昨日、クラリッサはシェリルを救うことができなかっただろう。
 彼はその優れた力で、多くの危機を乗り越え、常に誰かを救ってきた。
 クラリッサもまた彼に救われたものの一人だ。これまで何度彼に救われたか、手を差し伸べてもらったかわからない。苦境に立たされた時、縋りつくことを許してくれた彼の優しさそのものがクラリッサにとっての救いだった。
 彼が何者だろうと、どんな過去を背負っていようと、その事実が揺らぐわけではない。
「俺も、あんな人になりたいな……」
 ぽつりと、サイラスが呟いた。憧憬の眼差しは今はここにいない人物へと向けられている。この純朴そうな少年がバートラムのようになったら、彼のきょうだいは何と思うか気になるところだったが――彼もバートラムの言動ではなく、誰かを助けられるその力に憧れているのだろうから、余計なことは言わないことにした。
 それにクラリッサも同じだった。バートラムの、そういうところに惹かれたのだ。
 それから少年は顔を上げ、かごと箒を抱えるクラリッサに向かって言った。
「お姉さん。またいつか、ここに来てくれる?」
「ええ。いつかまた、奥様のお供ができたらと思っております」
 クラリッサが答えると、少年はすかさずにんまり笑んで、
「新婚旅行でもいいと思うよ。ここ、そういう人よく来るんだ」
 と言い残してから、脱兎の如く駆け出した。
 小道を駆けていく後ろ姿はあっという間に鬱蒼と茂る針葉樹林の向こうへと消えていき、クラリッサはそれをぽかんとして見送っていた。
 もしかすると――またしても、彼に冷やかされたのだろうか?
 クラリッサは眉間に皺を寄せて考え込み、あの少年は将来、本当にバートラムのようになるかもしれないと密かに思った。

 サイラスが立ち去ってから程なくして、邸宅の玄関のドアが開いた。
 箒をかけていたクラリッサが手を止め、そちらに顔を向ける。ドアをくぐって外へ出てきたのはバートラム一人きりだった。彼の表情は晴れ晴れとしており、どこか肩の荷が下りたような顔つきにも見えた。
「待たせたな、クラリッサ。話が済んだよ」
 彼はそう声をかけてきた後で、ドアのすぐ前に置かれていたかごに目をやる。サイラスが持ってきた焼き菓子入りのかごだった。掃除をするのに持ち歩くのも何なので、そこに置いておいたのだ。
「来客があったのかな。話し声がしていたようだが」
「ええ。農場主のお坊ちゃんがお見えでした」
 クラリッサは頷き、正直に続ける。
「昨日のお礼に、お二人の今日のおやつをくださるとのことです」
「それは……よかったのかな。子供たちにひもじい思いをさせてしまう」
 バートラムもさすがに困ったような笑みを浮かべたが、クラリッサはサイラスの代わりにかぶりを振った。
「いえ、お礼ができるうちにしたい、貰って欲しいとのことでしたので」
「そうか、では本日の茶菓子にしよう。奥様も喉が渇いておいでのようだからな」
「かしこまりました。すぐにお茶の用意をいたします」
 どうやらクラリッサが中に立ち入ってもいいようだ。いろいろと聞きたいことはあったが、胸の高鳴りを抑えて箒を片づけようと歩き出した時だ。
 急に腕を、バートラムに掴まれた。
 ぎょっとする間もなく彼はクラリッサの腕を引いて抱き寄せ、真正面から瞳を覗き込んでくる。いつになく真剣な双眸がクラリッサを捉え、思わず呼吸が止まった。
「クラリッサ。中へ入る前に言っておきたいことがある」
「な……何でしょう?」
 突然の抱擁、しかもまだ箒を抱えたままのクラリッサが息も絶え絶え聞き返す。
 バートラムは一言一言を噛み締めるように、慎重に続けた。
「君を酷く驚かせてしまうかもしれない。だが悪い知らせではない。聞いてくれるか?」
「ええ……もちろんです」
 クラリッサはどぎまぎしながらも首肯した。
 だが何を聞かされたとしても驚くまいと思っていた。彼にどんな過去があろうと、秘密があろうと、彼は彼だ。自分が受けた恩の数々がそれで曇ってしまうようなことにはならない。自分は彼を信じている。何があっても、共に歩むつもりでいる。
 バートラムはそれでも、珍しく少しだけ躊躇ったようだ。ふっと一度だけ睫毛を伏せ、
「名前を呼んでくれ、クラリッサ」
 クラリッサも乞われるがままに告げた。
「バートラム。あなたを、信じております」
 それでバートラムはクラリッサの唇に軽く自分の唇を合わせてから、表情を和らげた。
「奥様に我々の結婚の許可をいただいた。この旅が終わったら、結婚しよう」
 その言葉をクラリッサは微睡むような気持ちで聞いていた。今もって実感が湧かないというのが正直な内心だった。
 しかしクラリッサの内心をよそに、バートラムは更なる言葉を投げかけてきた。
「そして私は奥様の養子となる。我々は家族となるのだ、クラリッサ」
「――……えっ?」
 間の抜けた声が、口づけられたばかりの唇から零れ落ちた。
 彼に言われたことが耳から耳へとすり抜けていくように、頭の中に留まらない。掴めない。
「養子?」
「ああ」
「家族?」
「ああ」
「ど、どなたと、どなたがです?」
「まずは私と奥様が親子になる。そしてその私と君が結婚すれば――」
 意味のわからない単語がぽろぽろと足元へ落ちていく。それらを拾い集める余裕もなく、クラリッサはこれ以上ないほど大きく目を開いてバートラムを見返した。
「旦那様と奥様からのたってのご要望だったが、ずっとお断りし続けてきたのだ。もうかれこれ、十年以上も」
 バートラムは魂ごと抜け落ちそうなほど深い息をついた。
「だがようやく決心がついた。君を幸せにする為にも、そして奥様をお守りする為にも、これが最善の策だということだ」
 彼がしみじみと続けたので、どうやら悪い冗談でないことだけは理解できた。
 それにしてもクラリッサには飲み込みきれない事実だったが――何を聞かされても驚くものかと思っていたのが遥か遠い昔のことのようだ。いくらも経たぬうちにクラリッサはその決意を翻し、これ以上ないほどうろたえた。
「あ……あの、よろしいですか」
 ひとまず落ち着かなければとクラリッサは片手を挙げ、
「お水を飲んで参ります」
 と言うと、バートラムはきょとんとしてから微笑んだ。
「ああ。どうぞ」
 それでクラリッサは抱えていた箒を放り出し、裏手にある井戸へと駆けた。そして無我夢中で冷たい水を汲み、両手で掬って一口、二口と飲んだ。手が震えていたので水が零れ、少しばかり服を濡らしてしまったが、頓着している余裕はなかった。
 そして水を飲んだ後も、まだ呆然とするばかりだった。
「落ち着いたかな、クラリッサ」
 やがてバートラムが、拾った箒を手に追い駆けてきた。彼は随分と落ち着き払っているようで、狼狽するクラリッサに笑いかける顔は相変わらず余裕たっぷりだ。
「いいえ、ちっともです。だって……」
 クラリッサは言い返そうとしたが頭の中で言葉がまとまらず、最も聞きたいことだけを彼にぶつける羽目となった。
「あなたは一体、どういう方なのです?」
 するとバートラムはクラリッサに歩み寄り、濡れた服にも構わず今度は優しく抱きとめてから答えた。
「今はまだ、一介の執事だよ。そして君の恋人だ」
「はあ……」
 もはや、溜息のような声しか出ない。
 そんなクラリッサの背を、バートラムは手のひらでそっと撫でる。
「まずは中へ入ろう、奥様がお待ちだ。詳しい話も追ってする」
 彼に半ば支えられるようにして、クラリッサはメイベルの元へと歩き出した。
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