まだ、愛しています(2)
バートラムは湯気の立ち昇るカップを手に取ると、軽く掲げた。「今日はお疲れ様。お互いよく働いたな」
労いの言葉にクラリッサは微笑み、
「あなたの働きぶりに比べたら、わたくしなど大したことはございません」
と応じると、途端に彼にはかぶりを振られた。
「いいや。君がいなければあのお嬢さんを助けることはできなかった。それは誇りにしてもいい」
それも事実の一つではあるとクラリッサ自身も思っている。あの状況下で狭い洞穴へ下りていける者は自分しかいなかった。高齢のメイベルにそんな真似はさせられないし、サイラスはまだ幼く、その上怪我をしていた。
だが面と向かって誉められるとどうにも落ち着かない。孤児院時代には人から気にかけられるという機会すらなかったクラリッサは、レスターやメイベルからその仕事ぶりを誉められる度にくすぐったい気分になり、はにかむしかなかった。
そして今、バートラムから誉められていると、同じように落ち着かない気分になっていた。
「わたくしは、あなたがいてくださったから……」
クラリッサはそう言いかけて、頭の中でまだ言葉がまとまっていないことに気づき、考えながら言い直す。
「あなたを信じていれば間違いはないと思った上で、あなたの策に従ったまでです」
バートラムは黙ってカップを傾け、熱い茶を一口飲んだ。
それからちらりとクラリッサを見やる。
「本当に、怖くはなかった?」
「ええ」
迷わず頷いた。一度もそう感じなかったと言えば嘘になるが、洞穴の底に下り立った後、クラリッサは自分でも驚くほど冷静になっていった。
「君がそう言ってくれるとほっとする。私は君が下りてからも迷っていたよ。あの判断は本当に正しかったのかと」
対照的に彼の口調には未だ迷いがあるようだ。そのことを自覚した上で呆れたように笑う。
「私も君を信じていなかったわけではない。だが……君が地上へ戻ってくるまでの間、不安がなかったと言えば嘘になる」
「あなたも迷うことがあるのですね」
そのことに少しだけ、クラリッサは驚いていた。
彼は何があっても迷わず、誰よりも自らを信じていられる人だと思っていた。
バートラムがまた茶を一口、それからたしなめるように軽く睨んでくる。
「君のことだからだよ、クラリッサ。どんな男も、愛する婦人を危ない目には遭わせたくないものだろう」
しかし彼はクラリッサが危ない目に遭わぬよう、最大限の努力と配慮をしてくれたはずだ。おかげで傷一つ負うことはなかった。それは、それこそ彼が誇りにしていい事柄だとクラリッサは思う。
「君に怖い思いをさせてしまうだろうとわかっていた。本来ならあれは、大切に思う婦人に押しつけていい案件ではない」
バートラムがカップを手に息をつく。
「わたくしは押しつけられたとは思っておりません。お気になさらずに」
そこでクラリッサが素早く答えると、バートラムは一度目を伏せてからカップを置いた。
その後で黙って、クラリッサの手を取った。
隣り合って座る距離は手を繋ぐのにちょうどよく、彼の大きく青年らしい手に握られると、クラリッサの手はすっぽりと包まれて見えなくなってしまう。触れ合う皮膚はほんのりと温かく、それなのに心蕩かすような気持ちのよさを覚えた。
手を取られたのも嫌ではなかった。だがクラリッサはどうしていいのかわからず、腕の力を抜いてされるがままになっていた。
そんなクラリッサを見つめて、バートラムは温かく微笑む。
「信じてくれて、ありがとう」
間髪入れず、クラリッサは改めて頷いた。
「あなたを信じていいのだと、教えてくださったのもまた、あなたです」
今なら心から言えた。彼が何度も自分を救ってくれたこと、そして自分に窮地を切り拓き誰かを救えるほどの力を与えてくれたことに、とても深く感謝していた。
「こちらこそ、わたくしにあのお嬢さんを救わせてくださったこと、ありがとうございます」
まだまとまらない胸のうちの言葉を一つ一つ、ゆっくりと告げていく。
「そしてわたくしを明るいところへ引き上げてくださったことも……」
それはきっと、あの日からだ。
クラリッサは何も覚えていない、けれど彼は克明に覚えてくれている、陰鬱な孤児院での出会い以来だ。彼がクラリッサを明るいところへ導いてくれた。ちょうど今日と同じように救い上げてくれた。
だからクラリッサは光に満ち満ちた世界を知り、明るいところへ、太陽の下へ戻っていく喜びを知った。その光が自分を美しく照らし出してくれることも、今ならわかっている。
「全てはあなたのお力あっての結果です、バートラムさん」
そう告げると、彼は――意外なことにいくらか照れたようだ。
「君は加減を知らないな。こうも誉められると、つい調子に乗りたくなってしまうよ」
はにかむような笑みを唇に浮かべたから、クラリッサは得心する思いでその表情を見つめた。
彼もまた今は、自分に誉められたことで落ち着かない、くすぐったい気分でいるのかもしれない。
湖畔の森にはとうに夜が訪れていた。
二人だけの居間は沈黙が落ちると、戸外の音が壁を通して染み込んでくる。風が木々を揺らすざわめきのような音も、夜の鳥の遠くまで響く呼び声も、あるいは夜に歌う虫たちの声も、まるですぐ傍にあるように聴こえてきた。忍び寄る夜闇のように辺りを包むその音を、クラリッサはどこか厳かな気持ちで聴いている。
彼に話したいことと、話さなければならないことがある。
そう思って先程から胸の奥で言葉を探しては組み立てているのだが、なかなか上手くまとまらない。いくら学のない人間と言っても感情のままに想いを告げるのは子供じみた振る舞いのように思えたし、だからと言ってこういう時に使えるような恋の口説を知っているはずもない。そもそもクラリッサにとって、『こういうこと』はこれまで無縁だった。自分にとって身近なものとして想像を巡らせることすらなかった。
だからクラリッサはしばらく黙っていた。どれほど長く無言でいるのかわからなくなるほど物思いに耽っていた。
「……何を考えているのか、聞いてもいいかな」
やがて沈黙を破り、バートラムが尋ねてきた。
まだクラリッサの手を握ったまま、こちらを覗き込む表情は明るく、好奇心に満ちている。それでいて何もかも見抜いているかのように微笑んでもいるから、クラリッサは困って首を竦めた。
「あなたにお話ししたいことがあるのです」
「何でも聞こう、君のその唇が紡ぐ言葉なら」
「でも、何からお話ししていいのかわからないのです。上手く順序立てて考えられなくて」
クラリッサは言い、繋がれた手に視線を落とした。二人の手は食卓の上に置かれ、寄り添い合うように重なっている。
見つめる視線を感じてか、バートラムが握る手に軽く力を込める。それだけで何とも言えぬ甘い感覚がクラリッサの背筋を震わせた。思わずびくりとしたクラリッサが恐る恐る面を上げると、彼はからかうような顔つきで言った。
「君が話しにくいというなら、そのカップにまた酒を入れてみようか。酔った君に話を聞く方がたやすいかもしれないよ」
思いを馳せるように視線を遠くへ留めた後、バートラムは喉を鳴らして笑った。
昨晩の記憶が蘇るとクラリッサは気まずく思い、唇を尖らせる。
「当分お酒は結構です。あれは本当に恐ろしいものです」
「そうかな。私にとってはなかなか都合のいい道具なのだが」
バートラムは何事もないような顔で言う。
「何せ八年かかっても外せなかった、君の仮面を外すことができたのだから。君さえよければまた是非試したいところだ」
しかしクラリッサからすれば、いともあっさり理性の箍を外す酒には恐ろしさを覚えるより他ない。飲んでみて気分が悪かったと言うことはなく、むしろあの夜はとても安らかに、幸せに過ごせた。だが翌朝、酔いが醒めてから振り返ってみれば、何と恥ずかしいことをしてしまったのだろうと震え上がる始末だった。
心の赴くままに、望む通りに誰かを求めることが間違いだとは思わない。だが酒の力はそこに至る為に当然踏むべきいくつかの段階さえ吹き飛ばしてしまった。それが生真面目なクラリッサには信じがたく度し難い酒の罪である。
もっとも、酒の力がクラリッサの誰にも打ち明けられなかった本心を抉じ開け、引き出したこともまた事実だった。その本心はクラリッサ自身さえ目を背けてきた渇望であり、欲求であり、切なる願いでもあった。そういうものを、大人になった今では口にすべきではないと思い続けてきた。
だがクラリッサは今になって、二十四になってようやく、大人になるということがわかったような気がした。
「本当ならそんなものがなくとも、言うべきことを言えるようでなくてはならないのです」
クラリッサがそう反論すると、バートラムは興味を引かれたように目を細める。
「誰にだって言いにくいことくらいある。君のように生真面目な婦人なら、尚のことだろう」
「ですがわたくしは、今日こそあなたに申し上げます」
椅子の上で背筋を伸ばし、クラリッサは真っ直ぐに隣のバートラムを見据えた。
彼もまた居住まいを正して、揺るぎない眼差しを返してくる。
「何をだね」
深呼吸を一度、それからクラリッサは意を決して口を開いた。
「あなたは以前、わたくしに、何か欲しいものはないかとお尋ねになりましたね」
「ああ」
バートラムは上品な仕種で顎を引く。
「この旅が終わったらそれを君に贈ろうと約束した。忘れず覚えているとも」
「わたくしはようやくそれを見つけたのです。自分の欲しいものが何であるかを」
クラリッサは当初、誰にも叶えようのない願いだけを胸に抱え込んでいた。
主レスターの命が戻り、蘇って再び出会えることを願っていた。それは神にも叶えられず、世の理にも適わぬ願いだった。他には何もないと思っていたのも、その願いの叶えがたさゆえだったのかもしれない。
だが叶えられる願いもまた、クラリッサの胸のうちには眠っていた。世の理に背くこともなく、誰もが同じように欲するものを、クラリッサは知らず知らずのうちに求めていたのだ。
「では、それを教えてくれ。私が君にそれを贈ろう」
端整な顔に微笑を浮かべたバートラムは、もう既にわかっているのかもしれない。
クラリッサが欲するものが何であるかを。
もう一度深呼吸を繰り返し、それから、クラリッサは決然と告げた。
「わたくしの欲しいものは、あなたです」
夜の音に包み込まれた居間に、その声は凛と解き放たれた。
「あなたがわたくしの傍にいてくれたら、わたくしの名を呼び、笑いかけてくれて、そうして時々は……抱き締めてくれたら」
それが贅沢な望みなのか、あるいは当然の欲求であるのかさえ、クラリッサにはわからない。
恋を知らなかったクラリッサは、同じように長い間、愛についてもまるで知らなかった。
レスターとメイベルを傍で見ていて、夫婦のありようは知っていた。だが自らに与えられる愛というものがこの世に存在しているとは考えもしなかった。本来ならそれを与えてくれるはずの両親は、クラリッサの傍にはいなかったからだ。
だがバートラムが、何も知らないクラリッサに教えてくれた。彼は愛を込めて自分の名を呼び、いつでも惜しみなく笑いかけてくれた。抱き締めた上で人の温かさを教えてくれた。そして――たった一つの恋がかつて、未来さえ見えない暗い影の中にあった少女の人生を救い、明るい方へと導いてくれたことを教えてくれた。
「わたくしはそれだけで、本当に十分に幸せになれることでしょう」
クラリッサはそう告げると、深く深く息をついた。
たったこれだけ口にするのに随分と大変な思いをした。既に頬は上気していて目眩がするようだったし、胸の高鳴りも激しくて直に鼓動が聞こえてしまいそうなほどだ。それでも言いたいことと言うべきことは全て言葉にしてしまえたと思う。あとは――これからは、どうすればいいのだろう。
言い終えてしまってから、クラリッサはふと心許なさに囚われた。生真面目さから言うべきことを打ち明けなければ気が済まないと思っていたが、その後どうすればいいのかということは全く頭になかった。こういう時は、互いの想いが同じであるとわかった時は、一体どうするものなのだろう。
ひとまず反応を窺うべく、ちらりとバートラムの表情を盗み見た。
彼はその盗み見さえ予想していたかのように、クラリッサを見据えて微笑んでいた。
「ようやくその言葉を口にしてくれたな、クラリッサ」
微笑む唇が動いてそう言ったかと思うと、彼は繋いでいた手を一度離し、急に立ち上がった。
そして座っていた椅子を退けるように下げると、まだ座ったままのクラリッサの傍らにひざまずく。そして再びクラリッサの手を取り、その甲と指先に口づけた。
「君が望むなら、望むだけあげよう。私はそれを惜しみはしない」
手に彼の唇が触れる感覚は、何とも奇妙なものだった。柔らかく、ほんのり温かく、痺れるように甘い。心地いいのかどうかはよくわからない。ただかつてのような、払い除けたくなる衝動は起こらなかった。クラリッサはされるがままで、うっとりと目を閉じたまま何度も何度も口づけてくる彼の表情に見入っていた。
やがてバートラムは目を開き、いつもとは違う低い位置からクラリッサを見上げた。濡れたように光る青い瞳にじっと見つめられ、クラリッサは訳もなく緊張を覚えた。
「クラリッサ」
その上、蕩ける声で名前を呼ばれた。
クラリッサはうろたえながら応じる。
「は……はい。何でしょう」
するとバートラムはクラリッサの手を取ったままで深く笑み、
「叶うなら、君の唇にも口づけを。許してもらえるだろうか」
と言った。
手には断りもなく口づけたのに、なぜ今はわざわざ許しを求めてきたのだろう。クラリッサはこの上なく狼狽し、思わず彼から目を背けた。
「そんなこと、なぜお聞きになるのです……」
「君の許しが欲しいからだよ、クラリッサ。唇は特別な場所だ」
「で、でも、私の口からそんなことはとても……!」
言えるはずがない。
正直なところ、クラリッサ自身はそれを望んでいるのかどうかも判然としなかった。嫌だと言いたいわけではない。だが今ではなくてもいいような気もする。何せ今は思いの丈を打ち明けたばかりだ。その夜のうちに唇を重ねるのはいささか尚早ではないだろうか。そういうことはもう少し段階を踏んでからでなければ――。
動揺のあまり言い訳まで考え始めるクラリッサに対し、バートラムは息をつくように短く笑った。
「では、こうしよう。君は何も答えなくてもいい」
その言葉にクラリッサは恐る恐る視線を戻す。
バートラムは今も尚、クラリッサを見つめている。熱量を上げた眼差しは肌に触れると印象通りに熱く、焼きつくようだった。
「ただ私の為に、目を閉じてくれるだけでいい」
そんなことだって、できるだろうか。クラリッサは息を呑んだが、思考の暴走を遮るが如く、バートラムは即座に言葉を継いだ。
「私はこの日を八年も待ち続けていたのだ。今夜こそ、私に君をくれないか」
クラリッサにも、人を待つ辛さはよくわかっている。
かつては自分も来るはずのない人を待ち続けて、そしてその時間が報われることはなかった。
同じ思いを彼にもさせたくはないから、クラリッサはそれでもこわごわと目を閉じた。
薄い瞼の皮膚越しに、彼の影が立ち上がり、そっと近づいてくるのがわかった。