積み重ねた思い出(4)
馬の背中は見た通り、それほど広くない。大人が二人で乗るならば、ぴったりと身体をくっつけていなければならない。
「も、もう少し離れてください。近づきすぎです」
「それはできないな。これ以上後ろに下がったら、馬のお尻から落ちてしまう」
「だからって……こんなの、落ち着きません」
「いいから、私に全て委ねていたまえ。何なら寄りかかってくれてもいい」
バートラムの声が耳元で聞こえ、クラリッサは恥ずかしいのか腹立たしいのかわからないまま歯軋りした。
馬上の二人は隙間なく密着して座っている。クラリッサが前で、バートラムが後ろだ。
バートラムはクラリッサを後ろから抱くようにして腕を伸ばし、馬の手綱を握っている。クラリッサは彼の腕の中にすっぽりと収まり、やり場のない手で鞍橋を掴んで、ほぼ身動ぎもできない状態で馬の背に揺られていた。
顔を上げてもバートラムの顔しか見えず、振り向いてもまた同じことだ。仕方なくクラリッサが俯けば、今度は真横から覗き込もうとしてくる。身体が密着しているせいで顔の距離もごく近く、横から覗き込まれた時はそのまま唇が触れるのではないかとさえ思えた。それでクラリッサは、真正面を向いているより他なかった。
せっかく湖のほとりを歩き始めたというのに――クラリッサは恨めしい思いで、少し先を行く葦毛の馬の尻尾を見つめた。メイベルは久々の乗馬だと言っていたが、難なく乗りこなしているようだった。並足ではあるが手間取ることなく湖を囲む道を辿っている。更には時々辺りを見回し、景色を堪能する余裕すらあるようだ。
クラリッサは景色どころの話ではない。背中一面に感じる体温と、全身で意識せざるを得ない彼の存在が、思考力を根こそぎ奪っていくようだった。こんなことならそれこそ馬には乗らず、歩いてくるべきだったと思う。
「君は強情だな」
微かにバートラムが笑った。
そして、手綱を握る為に伸ばした腕をクラリッサの肩に乗せたかと思うと、肘を使ってその身体を後ろへ倒そうとした。
とっさにクラリッサは身を強張らせたが、それすらもおかしいというように彼は言う。
「そうやって頑なになっていては、楽しいものも楽しめまい」
「初めから、ちっとも楽しくなんてありません」
クラリッサはつんとして答えた。
だがそれは彼の言う通り、強情を張っただけだった。正確には楽しむ余裕などないと言った方が正しい。
「そうかな。君が楽しもうとしていないだけだろう」
バートラムにも早々に見抜かれて、クラリッサはいよいよ真っ赤になる。
「この姿勢が嫌なら、私が前に、君が後ろに座ってもいい」
彼は俯くクラリッサに、畳みかけるように囁く。
「ただしその場合は私の腰にでもしがみついてもらわなければならない。それはそれで恥ずかしいのではないかな」
クラリッサはバートラムの腰に腕を回して縋りつく自分の姿を想像し、あまりのことに目眩を覚えた。これは絶対に恥ずかしい、いや、腹立たしいことこの上ない。
「それに、君が後ろではこの素晴らしい景色も眺められない。君を前にしたのはちゃんと理由もあるのだよ」
そう言うと彼はまだ顔を上げられないクラリッサに頬を寄せてきた。彼のなめらかな黒髪と皮膚が触れ、上気したクラリッサの頬にはひんやりと冷たく感じられた。湖水を渡る涼しい風のせいだろう。
「ほら、顔を上げて。周りをよく見るんだ」
指示されたからというよりも、顔の近さから逃れるようにクラリッサは面を上げる。
そしてぎこちなく首を動かし、辺りの景色に初めて目をやった。
二人で馬に乗り、そして不毛なやり取りを続けているうち、いつの間にか随分歩いてきたようだった。もうホリスの家も見えなくなっている。針葉樹の森は湖の外周を囲むように続いており、その隙間から降り注ぐ日の光が湖畔の草花を柔らかく照らしている。薄紫のあざみ、赤や白のひなげしが鮮やかに咲き誇り、湖面にはその影が映り込んで、色とりどりの花びらを散らして浮かべたように見えた。
首を伸ばしてほとりを眺めると、湖も波立っているのがわかる。海ほど強くはないが、寄せては返す細波が岸辺の岩石を洗い、濡らしている。湖水は美しく澄み切っていて、岸辺では茶褐色の湖底が見えるほどだった。それでいて遠くの湖面は広がる空と同じ青さで、時折波が跳ねては日差しにきらめき、光ってみせる。
歩いている時は感じなかった風も、馬上では心地よく感じられた。クラリッサの上気した頬や身体に涼しく、心地よく吹きつけてきた。
クラリッサは風を浴びるようにかぶりを振ると、鞍橋を掴んでいた手を片方だけ離して、前髪を軽くかき上げた。
心地よさのあまり、口元には笑みが浮かんだ。
「気持ちいい?」
バートラムが尋ねてきて、クラリッサは目を細めて頷く。
「ええ、とても。いい風が吹いていますね」
「そうだろう。景色の方はどうかな、クラリッサ」
「素敵です。大変美しいところですね、ここは」
心から答えると、バートラムが安堵したように笑った。
「よかった。やっと楽しむ気になってくれたな」
「そういうわけでは……」
つい本心を口にしてしまったが、彼と二人で馬に乗ることを楽しいと思っているわけではない。やはりどうしても気恥ずかしいし落ち着かない。どうしてここまでして馬に乗らなければならないのかと思う。
だが馬に乗って湖畔をのんびり逍遥するのはとても気分のいいことだった。自分の足で歩くのとはまた違って風が心地よく、少し高いところから遠くがよく見渡せる。ゲイルはホリスが保証した通りの丈夫な馬で、大人二人を乗せてもすいすい歩いた。
「どうせなら一人で乗りたかった、などと言うつもりではないだろうな」
バートラムがからかう。
「乗る時は私の手をあんなに強く握っていたのに。あの時の君はなかなか情熱的だったよ」
「違います。怖かったから、つい近くにあるものを握ってしまっただけです」
クラリッサは毅然として答えたつもりだったが、醜態を晒してしまったという自覚はあった。おかげで耳まで赤くなる。
「そうか。そういうことにしておいてあげよう」
しつこく追及してくるのではないかと思われたバートラムが、意外にもそこで一旦引いた。
それから戸惑うクラリッサに向かい、歯切れよい口調で言った。
「では私は、これからもいつでも君の近くにいよう。怖くなったら私の手を取るといい」
クラリッサは彼を振り返りかけて、慌ててやめた。
その動きさえ察したように、頭上からは笑い声が降ってくる。
「そして疲れたら、私に寄りかかるといい。いつでも支えてあげるよ、クラリッサ」
「別に疲れてなどいません」
すかさず言い返すと、バートラムは尚も笑った。
「それなら、疲れていなくても。何も理由がなくたって、寄りかかってくれて構わない」
どうやら彼は、何としてでもクラリッサに背を預けて欲しいらしい。
彼の要望に従うのは複雑だったが、身体を強張らせ続けてきたせいで確かに少し疲れていた。クラリッサはちらりと彼の顔を見上げてから、少しだけ後ろに身体を倒した。すぐに後頭部が彼の胸にぶつかり、自然と身体から力が抜けていく。
いざ寄りかかってみると、彼の身体は思っていた以上に大きく、頑丈な背もたれのように頼りがいがあった。それでいて冬の朝に座る椅子のように冷たくなく、ほんのりと温かい。彼にもたれかかっていると不思議なほど楽で、クラリッサは硬直していた身体がゆっくりと弛緩していくのを感じた。どうしてこんなに気分がいいのか、自分でもよくわからない。
思わず息を吐き出すと、バートラムは手綱を取る腕に力を込めて、クラリッサを改めて支えてくれた。
「素直な君も可愛いな」
独り言のようにバートラムが呟く。実に満足げな口調で続けた。
「このままどこまでも行きたい気分だ。いっそ我々も駆け落ちをしようか」
「ご冗談を。駆け落ちというのは、差し迫った事情のあるお二人がなさるものでしょう」
「それもそうだ。我々にはもう誰かから逃げる理由も、必要もない」
ゲイルは蹄の音を響かせて、二人の会話を聞き流しながら湖のほとりを進んでいく。
湖の周囲を半分以上進み、太陽が中天にかかった頃合いで、メイベルがふと馬を止めた。手綱を引く手つきも様になっており、葦毛の馬もそれに軽くいなないてから従う。
そしてメイベルは後からついてきたクラリッサたちを振り返り、上機嫌で微笑んだ。
「楽しんでくれているようね、二人とも」
「え、ええ、奥様……」
クラリッサは慌てて姿勢を正そうとしたが、バートラムの腕にしっかりと抱き込まれていたので無理だった。腕を解くようにと睨んだら、笑いながらそっぽを向かれた。
もっとも、メイベルは二人がどうしていようとさして気にしたそぶりもない。それどころか嬉しそうに続けた。
「仲睦まじくていいわね。あなたたちこそまるで新婚のようよ」
そう言われてクラリッサは不本意だったが、反論できる立場にないこともわかっているので黙っていた。例によってバートラムは非常に嬉しそうだった。
「奥様がそう言ってくださったのだ。我々もそろそろ考えるとしようか、クラリッサ」
「……何をです?」
さすがにメイベルの前で口論する気はなく、静かに聞き返すだけに留めておいた。
「では、この辺りで一度休憩しましょうか。喉が渇いたわ」
メイベルがそう続けた為、三人は一度馬を降り、湖のほとりで座れる場所を探した。
程なくしてちょうどいい倒木を見つけたので、そこにハンカチを敷いてメイベルを座らせ、馬たちは近くの木に繋ぐ。冷たい湧き水を両手で掬うと、メイベルは一息にそれを飲み干した。
「あの時もこんなふうにお水を飲んだのよ。コップを忘れてしまったから、こうして手で掬ってね」
冷たい水を存分に味わってから、メイベルはしみじみと思い出を語る。
「出がけにレスターが何度も言ってくれたのに、わたくしったらコップどころかお弁当も忘れてしまったのよ。それでわたくしが落ち込んでいたらあの人、湖で魚を釣ればいいって事もなげに言ってくれたの」
「それで、魚は釣れたのですか」
バートラムが問うとメイベルは頷き、
「ええ。木の枝と持ち合わせの糸で作った釣り竿でも釣れたし、レスターなんてブーツでも掬っていたわ。そのせいで靴が乾くまで待たなくてはならなかったけど」
湖に魚がいることはホリスからも聞いていた。ここへ休暇に来る者は大抵釣りを楽しんでいくものらしい。クラリッサは釣りの経験もなかったが、たかが魚、乗馬よりは遥かに怖くないだろうと思っている。
そしてメイベルは釣りもするつもりのようだ。
「明日もお天気がよかったら、今度は皆で釣りをしましょう。ここはたくさん釣れて、しかもとても美味しいのよ」
そう言ってから少女のようにおどけて、首を竦めた。
「と言っても何十年も前に食べたきりなのだけどね」
十五分ほどの小休止の後、そろそろ行きましょうかとメイベルが腰を浮かせかけた。
「お魚の話をしていたらお腹が空いたわ。戻ったらお昼にしましょうね」
「はい、奥様」
クラリッサが返事をしたちょうどその時、湖畔で草を食んでいたゲイルたちが耳を動かし、ひょいと頭を上げた。同時に森の小道の向こうで草むらが揺れ、そこから湧き出るように小さな姿が現れた。
焦げ茶色の髪をした少女――シェリルだった。
彼女の傍らには同じ髪色の少年もいて、二人はこちらに気づくとなぜか立ち止まり、幼さの残る顔を揃って強張らせた。
「あら。お二人もお散歩かしら?」
メイベルが穏やかに声をかけても、二人の表情は硬い。
そのうち少年がシェリルを庇うように前へ進み出て、すかさずシェリルがその肩を小さな手で掴んだ。
「サイラス、待って」
制止された格好の少年――サイラスは、困ったようにシェリルの顔を見る。
それでもシェリルはかぶりを振り、それからメイベルに向かって、早くも別れを告げるように頭を下げてきた。
「あたしたち、急いでるんです。ごめんなさい」
「――そう。母さんに……えっと、杜松の実を摘んでくるよう言われてて」
サイラスが言い繕うように語を継ぐ。
二人はきょうだいだと聞いていたが、どちらが上なのか、見た目からはわからなかった。双子なのかもしれない。
ただ近くでじっくり見てみると、シェリルの瞳は緑色をしていたが、サイラスは濃褐色だった。顔つきもシェリルの方が若干大人びていて少女らしく、サイラスの方がよりあどけない。
どちらにしてもクラリッサより十歳は若い二人だ。こうして眺めているとどちらも愛らしい顔立ちなのだが、そのくせ態度はどこか不審で、あからさまに何か隠し事をしているそぶりだった。ごまかし方も決して上手くはなく、善良なメイベルでさえもが怪訝そうにしていた。
「そうなの……。わたくしたちはもう少し散策してから戻るわ。また後でね」
メイベルがそれでも優しく声をかけると、二人はこくんと頷いた。
「ええ、また」
「さようなら」
そして手に手を取り合って、来た道を駆け足で戻っていく。
シェリルはエプロンのポケットに何か詰め込んでいたが、手には何も持っていなかった。サイラスも同様だ。クラリッサは二人の後ろ姿を首を傾げながら見送る。
あの二人は一体、何を隠しているのだろう。
「秘密の探検でもしているのかしらね」
二人の姿が森の奥に消えてから、メイベルがそう言った。
「かもしれません。親の目を逃れての冒険など、あのくらいの年頃にはつきものです」
バートラムが心得た様子で答える。
残念ながらクラリッサにはそういった経験はないが、どちらにせよあまり詮索すべきではないと思う。シェリルもサイラスも揃って難しい年頃のようだし、他所から来た人間があれこれ探りを入れようものならへそを曲げてしまうだろう。子供には子供なりの守るべき領分があるのだ。そういうものに大人は土足でずかずかと踏み入ってはならない。
「じゃあ、わたくしたちもぼちぼち行きましょうか。あのお二人に追い着かないよう、ゆっくりとね」
メイベルは優しい口調で言い、すかさずバートラムも頷いた。
「はい、奥様。ゆっくり戻るといたしましょう」
それから彼はクラリッサの方を見て、試すような笑みを浮かべる。
「さて。もう一度馬に乗るが、クラリッサ。覚悟の方はいいかな?」
騎乗だけで散々時間をかけた経緯を思い起こし、クラリッサは大いに恥じ入った。
「覚悟なんてございませんと申し上げたら、歩いて帰ることを許していただけますか?」
「それは困るな。私が君を乗せていきたいのだから」
バートラムはそう言うとクラリッサに歩み寄り、次の瞬間断りもなく抱き上げた。
当然のようにクラリッサはうろたえ、彼の腕の中でじたばたと暴れた。
「なっ、何をなさるんですか!」
「静かにしたまえ。馬たちが驚くだろう」
クラリッサを抱きかかえて悠々と馬に歩み寄り、鞍の上に乗せた。そしてクラリッサの身体がぐらつかないよう、腰を両手で押さえながら真っ直ぐに座らせる。
「あの、く、くすぐったいです!」
「ほらほら、暴れない。じっとしているんだ……そう、いい子だ」
まるで馬のように宥められて呆然とするクラリッサをよそに、バートラムはさっさと自らも騎乗して、やはり後ろから手綱を取った。
「こういう乗せ方の方が、より恋人らしいかと思ったのだよ」
臆面もなくそんなことを言う彼に、クラリッサはもはや返す言葉もない。更にメイベルが冷やかすような視線を送ってくるので、いたたまれなくなって俯いた。
「わたくしはもう、馬はこれきりで結構です……」
「なぜ? 私は君と二人がいいのに――こんなにも楽しい乗馬は、生まれて初めてだ!」
バートラムがいつになく弾んだ声を上げる。
それでクラリッサは彼の顔を見上げ、そこに浮かぶ晴れ晴れとした笑顔をしばらく、ぼんやりと眺めていた。
この人もこんなふうに少年のような顔をすることがあるのかと、驚いていた。