積み重ねた思い出(3)
翌朝早く、三人は再びホリスの元を訪ねていった。森の中を抜ける道はさほど広くもなく、おまけに夜のうちに露が降りたのか、ところどころがぬかるんでいて非常に歩きにくい。それでも朝靄漂う森の空気は心地よく、一時間ほどの距離を苦もなく歩くことができた。森に暮らす小鳥たちが三人の頭上で賑やかにさえずり、時々針葉樹の枝に止まってはがさがさと揺らす。すると尖った葉の切っ先から小さな雫が滑り落ち、木々の根元に茂る草にぱた、ぱた、と音を立てて打ちつけた。
「森は静かなものだと思っておりましたが、賑やかなのですね」
歩きながらクラリッサが呟くと、メイベルも深く頷いた。
「ええ。遠くから見るとまるで静まり返っているようだけど、こうして中に入ってみると、いろんな音がするのよ」
それでクラリッサはしばらくの間、森に響く様々な音に耳を澄ませて歩いた。鳥の羽ばたき、虫の声、どこかで草むらが揺れ、何かが走り出るような音がしたかと思うと、微かに水の流れるような、湧き出るような音もする。その中に混ざる三人の足音も、降り積もった濡れ落ち葉を踏みしめる度に聴き慣れない音へと変わった。
「夜になると一層賑やかなのよ。昼間はいない鳥たちや、虫の声がしてね」
メイベルは思い出を手繰るように言ってから、照れたように首を竦める。
「でも昨夜は早くに寝てしまって、何にも聴けなかったわね。今夜はちゃんと楽しめるといいのだけど」
街から長い距離を馬車に揺られ、着いた先では掃除に終われた結果、昨夜のメイベルは夕食の後すぐに眠気を訴え、そのまま自室へ引き下がってしまった。せっかくの夜の森も、テラスからの眺めも堪能できず、今朝起きた時には大層悔しげにしていたのだった。
もっともそれはクラリッサも同じであり、夕食の後に食器を洗い、朝食の仕込みを終えた後、与えられた自室に入ったことまでは覚えていた。だがその後の記憶は曖昧で、いつ寝台に入ったかも定かではない。気がつくと毛布に包まり朝を迎えていた。おかげで早起きをしたにもかかわらずすっきりと目覚め、体調もすこぶるよかった。
「奥様は昨夜、お疲れのようでしたから」
バートラムが気遣う口調で言い、その後でクラリッサの方を振り返る。
「そういえば、クラリッサも昨夜は随分早く寝ついたようだな」
「……なぜご存知なのですか?」
若干の不審をもって問い返すと、彼は何でもないそぶりで答えた。
「せっかくだから星でも見ようかと君の部屋まで誘いに行った。しかし君は寝台に突っ伏して、ぐっすり眠っていた」
「な……中に入ってこられたのですか!」
「ノックをしても返事がなかったからな。念の為だ」
夜に部屋に下がった人間がノックに応じなかったなら、それは眠っているものと判断するのが正しいはずだ。なぜわざわざ、それも婦人の眠る部屋まで立ち入ったのか――クラリッサが顔を顰めると、待ち構えていたようにバートラムが微笑む。
「しかしそのおかげで君に毛布をかけてあげることができた。君も風邪を引かずに済んだだろう?」
ぐっと言葉に詰まるクラリッサに、メイベルがくすくす笑う。
「あら、気をつけないと駄目よ、クラリッサ。水辺は意外と冷えるのだから」
笑う夫人は本日、手持ちの乗馬服を身に着けていた。やはりどうあっても馬に乗るつもりのようだ。
木々の梢の隙間に覗く空は、うっすらと紗がかかったような青さだった。風もなく、湖の周りを散策するにはぴったりの日だ。
あとは馬に乗らずに済めばいいのだが――いつものお仕着せのクラリッサは、あわよくばそれを理由に乗馬から逃れられないかと思っている。
だがその程度の言い訳で見逃してくれるほど、バートラムは甘くない。
ホリスの家を訪ね、鶏や牛たちに餌をやる一家に挨拶をした後、彼はこう言ったのだ。
「馬をお借りするついでに、乗馬服も借りることはできませんか。ええ、婦人用のです。こちらの娘が着られるものを」
するとホリスの妻は快く自らの乗馬服を持ってきて、着るようにと貸してくれた。クラリッサは馬小屋を借り、憂鬱な思いで着替えをする。ホリスの妻はふくよかな人で、乗馬ズボンはクラリッサがはくとぶかぶかだった。ズボンが落ちてこないよう、ベルトできつく留めるのに苦労した。
着替えに手間取るクラリッサの耳には、メイベルたちとホリス一家との会話が聞こえてくる。
「昨日はどうもありがとうございました。お嬢さんが届けてくださった品、大変美味しくいただきました」
メイベルがホリスにかごを返したようだ。空にしたかごの中にはお礼として、街で買った貝の肉の油漬けや日持ちのする焼き菓子の瓶などを入れてあった。
たちまちホリスは恐縮し、
「あっ、すみません。お礼なんかよかったのに。ありがとうございます」
忙しなく礼を言う声から、ぺこぺこと頭を下げる姿が想像できるようだった。
そうこうしている間にもクラリッサの着替えは終わり、やむなく覚悟を決め、馬小屋を出て行こうとした時だ。
「――しかし、こんな森の中を一人でおつかいとは。よくできたお嬢さんですね」
バートラムの声がしたからというわけではないのだが、何となく、足が止まった。
昨日訪ねてきたあの少女の無口さを覚えていたからかもしれない。彼女は先程鶏に餌を与えていたが、メイベルたちが挨拶の言葉をかけても会釈をするばかりで、やはりにこりともしなかった。
「いえ、娘も息子もこの森で生まれ育ってるんで。庭みたいなものですよ」
ホリスの笑い声の後、なぜか短い沈黙があり、次いで溜息が聞こえた。
「……すみませんね。うちの娘はどうも人見知りが直らんようで、愛想がないんです」
どうやらシェリルは難しい年頃のようだ。たとえ父親が客と話していても、愛想よくしようとするつもりもないらしい。多感な時期を孤児院に閉じ込められて育ったクラリッサにも、何かにつけて反抗したくなる頃はあった。だから彼女の気難しさも、納得しようと思えばできるのだが。
会話が一段落したところで、借り受けた乗馬服姿のクラリッサは馬小屋を出た。
すると小屋の前にいたメイベル、バートラム、そしてホリス一家が一斉に振り向き、まずホリスの妻が胸を撫で下ろした。
「あら、よかった、ちゃんと着られましたのね。とても華奢なお嬢さんだから心配だったのよ」
「本当です。スカートじゃ馬にゃ乗られませんからね」
ホリスが同調する横で、娘と息子も仕事の手を止め、じっとこちらを見つめてくる。棘があるわけではないのだが、笑みもなくただ見つめられると少し妙な感じがした。何か言いたいことでもあるような顔つきにも見えた。
釈然としないクラリッサの意識を、しかし聞き慣れた声が思索から連れ戻そうとする。
「クラリッサ。君は何を着てもよく似合うな」
バートラムはわざわざこちらへ歩み寄ってきて、乗馬帽を被った頭からズボンの裾を押し込んだブーツの爪先までをしげしげと観賞した。そして落ち着かない気分のクラリッサに向かって、仕立て屋に赴いた時と同じような口調で告げた。
「普段の慎ましく淑やかな君もいいものだが、乗馬服というのもなかなか。すらりとして敏捷な牝鹿のようだよ」
これから馬に乗ろうとする人間を鹿に例えるのはどうなのだろう。
クラリッサは肩を竦め、それからさりげなく視線を転じた。
既に馬たちは馬小屋の外へ出され、繋がれている。ぶるると鼻を鳴らす音は意外に大きく、動物に慣れていないクラリッサを少々驚かせた。
そもそもクラリッサは動物がそれほど好きではない。
孤児院時代は幾度も幾度も湧き出るネズミに悩まされたし、他の少女たちと野良猫に餌づけをした時は、その後で院長に見つかりこっぴどく叱られ、熱湯で身体中が擦り切れるほどごしごし洗われた。
レスターの屋敷には馬車用の馬と鶏しかおらず、そういうものとも触れ合う機会はほとんどなかった。せいぜい洗濯物を干す時に鶏を踏みつけないよう、呼びかけながら追い払う程度だった。メイベルに同道し他所の屋敷を訪ねた時、猟犬に吠えられて肝の冷える思いをしたこともあり、恐らく動物の中では犬が最も苦手だ。その次がネズミだった。猫は、機会があればもう一度撫でてみたいと思う。
しかし今回の相手は馬である。それもホリスの馬は街で馬車を引いているような馬とは少し趣が違う。脚が心持ち短く、その分どっしりと太い。身体つきも丸みを帯びて逞しく、尻尾は婦人の束ね髪のように豊かだ。
「こいつはこういう種類なんですよ。脚はそこまで速くないが、体力には自信がある」
ホリスがそう言って、鹿毛の一頭を引いてくる。手綱を引かれてやってきたのは黒々とした瞳の牡馬だった。
「名をゲイルと言います。呼んでやってください」
促されて、クラリッサは思わず目を丸くした。
すかさずバートラムが口を挟む。
「馬は自分の名前がわかるのだ。とても賢い生き物だからな」
「本当に?」
「本当だとも。試しに呼んでみるといい」
バートラムは頷くと、注意するように言い添えた。
「ただし、あまり怯えていてはいけない。馬にも君の気持ちが伝わってしまうからな」
そこでクラリッサは正面から近づき、深呼吸をしてから鹿毛の牡馬に声をかけた。
「……ゲイル」
囁くようなクラリッサの声が聞こえたのかどうか、馬はたてがみごと頭を大きく震わせた。
「人には慣れてます。触ってみてください」
ホリスが更に難しいことを言い出す。
クラリッサは一旦手を伸ばしかけたが、馬がまたしても鼻を鳴らすと思わずびくりとして、手を引っ込めてしまった。
「仕方ないな。ほら、一緒に触ろう」
そう言うと、バートラムはクラリッサの手を取る。緊張に強張る手を軽く揺すり、
「少し力を抜くといい。このままでは馬に驚かれてしまう」
クラリッサが指示通りに力を抜いたのを確かめてから、その手をゆっくり馬の身体へ導いた。
手のひらが毛並みに触れる。思っていたよりも温かい。熱を持ったような体温が柔らかい毛並みの奥から感じられた。撫でた感触は猫よりもすべすべ、つるつるしている。
ホリスとバートラムが見守る中、クラリッサは馬の顔色を窺うようにして身体を撫でた。ゲイルの方も、とりあえずはクラリッサのすることを受け入れてくれているようだ。嫌がりも暴れもせずおとなしくしていた。
「ここまではどうにか大丈夫そうだな」
やがてバートラムは言い、馬が背負っている丈夫そうな鞍に目をやった。
「では、乗ってみようか」
ごくりと、クラリッサの喉が鳴る。
「本当に?」
「本当だとも。見てごらん、既に奥様は乗っておいでだ」
言われて見てみれば、メイベルは慣れた様子で葦毛の馬に跨り、手綱を取ってゆっくり歩き始めていた。こちらに気づいてか、メイベルが笑顔で手を振ってくる。怖がる様子は微塵もない。
夫人の笑顔の眩しさにクラリッサが目を逸らすと、すかさずバートラムが微笑みかけてきた。
「ほら、奥様は一刻も早い出発を望んでおられる。君もなるべく急ぎたまえ」
そう言われても急げるものではなく、クラリッサの初めての乗馬は、鞍に乗るところから難航した。
婦人らしい背丈のクラリッサは、踏み台がなければ鞍には乗れそうになかった。そこでホリスが馬の傍らに台を置き、まずはそこまで上がってから馬に跨る手はずだった。
しかし踏み台から馬の背中へは思いのほか高さがあり、馬の背は柔らかくて体重をかけるのもためらわれた。鞍に手を置いてよじ登ろうとすると、いつもより遠くにある地面が目に入り、たちまち乗るのが怖くなる。
見かねたバートラムが手を貸してくれたが、その手が白くなるほど握り締めてまで、クラリッサは馬の背中と格闘した。
「もういいかな。手を離すよ、クラリッサ」
「だ、駄目です! 離さないで!」
「しかし、手を握ったままではかえって危ない」
「もう少しだけ、お願いですから!」
必死になって懇願するクラリッサに、バートラムはしばらく笑いながら付き合ってくれた。空いている方の手でクラリッサの身体を押し上げ、難なく鞍に座らせる。
だが鞍に座ってみても相変わらず地面は遠いし、いつもは見上げるばかりのバートラムの顔さえ視界の下にある。おまけに鞍は馬が身動ぎをする度に揺れ、履いた鐙も爪先を乗せるだけの不安定さで、まるで水の入った袋に座っているみたいだった。今はまだ立ち止まっているからいい、だがこれが歩き出したら、万が一指示を間違えて走り出してしまったら――とてもではないが一人で乗る気になれない。
ゲイルが賢い馬で、悪戦苦闘するクラリッサを黙って受け入れてくれたことだけが救いだった。
「や、やはり……やめましょう。わたくしは歩いてついていきますから」
クラリッサはバートラムの手を握ったまま彼を見下ろし、おずおずと頼み込む。
すると彼は困ったように微笑んだ。
「さすがに歩きでは辛いだろう。どうしても駄目かな、クラリッサ」
「ええ。わたくしにはとても無理です」
ここまでクラリッサの騎乗を見守ってくれていたホリスも、さすがに苦笑を隠せずにいる。もはや役立つ助言も思いつかないようで、彼もまた判断を委ねるようにバートラムを見やる。
バートラムは思案するように顎に手を当て、クラリッサを見上げる。
「そうか……。君がどうしても無理だと言うなら仕方がない。奥様も思ったより乗れているようだし、やり方を変えようか」
どうやら一人で乗っていく必要はなくなりそうだ。
ほっとしたクラリッサは、それでも慣れない高さからこわごわ尋ねた。
「ではバートラムさん、降りてもよろしいですか?」
「いいや。君はそのまま乗っているように」
無情にも言い渡したバートラムは、その後でホリスの方へ振り返る。
「これだけ身体の大きな馬であれば、二人で乗っても平気でしょう?」
「ええ、もちろん」
ホリスが安堵の笑みを浮かべた。
そのやり取りをクラリッサは訳もわからず眺めていたが、
「そういうことだ、クラリッサ。私と一緒に乗っていこうか」
バートラムがにわかにそう言い出し、思わず聞き返した。
「え? 一緒にというのは……一体?」
「文字通りの意味だ。君のすぐ後ろに私が座る。無論、手綱を握るのは私だ」
「あなたと二人で、ですか?」
クラリッサはぎこちなく首を動かし、馬上を見回す。いかに体躯の大きな馬とは言え、大人二人が楽に乗れるような広さはない。彼は一体、どうするつもりなのだろう。
バートラムは喜びと企みを隠すつもりもないらしく、意味ありげに笑んだ。
「今日も楽しくなりそうだな、クラリッサ」
それからものの数分で、クラリッサはすぐに馬から降りなかったことを深く悔やむ羽目になる。