盲目な恋をした(1)
クラリッサはうんざりしていた。初めての船旅に胸をときめかせていられたのもそう長い間ではなかった。どこまでも続く水平線の代わり映えのなさにもそろそろ飽きてきた。太陽の光を受けてきらめく海面は美しかったが、ずっと眺めていようにも、跳ね返ってくる日光の眩しさにたびたび目を細めなければならないのが恨めしい。
潮風はすっかり鼻に染みついたようで、近頃では船での食事さえ潮の匂いがした。おまけに帽子をかぶっていたにもかかわらず、いくらか日に焼けてしまったようで、今朝方鏡を覗いたら鼻の頭の皮が剥けていた。
クラリッサと彼女の女主人が望んだように、ここまで船旅は快適で、平和そのものだった。
金に目の眩んだ連中もここまでは追い駆けてこなかったし、女主人の客室を訪ねてくるような無粋な人間もいなかった。おかげでメイベルはこのところ顔色もよく、常に上機嫌だった。客室で養生に努めつつ、何か調べ物をしながら日々を過ごしていた。
「あなたも少し、羽を伸ばしてくるといいわ」
客室の肘掛け椅子に腰を落ち着けたメイベルは、傍に立つクラリッサにそう告げた。本を読む時にかける丸い眼鏡越しに鳶色の目を細めている。
彼女がここ最近読み耽っているのは本ではなく、革表紙の手帳のようだった。使い込んだ風合いの革表紙からは、その手帳が相当古いものであることが窺えた。どうやらメイベルの夫が使用していた品らしいのだが、クラリッサにその中身がわかるはずもない。
「わたくしは少し調べておきたいことがあるの。この先の、旅路についてね」
「お手伝いいたしましょうか、奥様」
クラリッサが申し出ると、メイベルはかぶりを振った。
「気持ちだけで十分よ。手助けがいるような難しいことではないから」
「では、お茶をご用意しましょうか」
「いいのよ、クラリッサ。あなただっていろいろあって疲れているでしょう」
「いいえ、奥様。私はこの通り、元気そのものでございます」
実際、クラリッサは疲れているどころか活力に溢れていた。メイベルの為に尽くしたい、働きたいという気持ちをやや持て余しており、機会があれば役立ちたいとばかり思っていた。平和を望んでいないわけではないのに、することがないというのもなかなか苦痛なものだった。
「ではその元気を、船から降りた後も保てるよう努めてちょうだい」
メイベルは言い、困惑するクラリッサの手を宥めるように撫でた。メイベルの手は若いクラリッサのものとは違い、皺が目立ち骨張ってもいたが、それでも柔らかくひんやりしていた。覚えがないはずの懐かしさが胸の中に広がり、クラリッサは心地よさと焦燥を同時に抱いた。
この方の為に、何かしてさしあげたいと思うのに。
「わたくしと、あなたと、それにバートラムさんと。誰もが元気でいなくてはならないのよ」
願いを込めた口調でメイベルは語る。
「だから今のうちに、もう十分というくらい休んでちょうだい。船を下りたらまたしばらくは旅をしなくてはいけないのだから」
そこまで言われてしまえばクラリッサも引き下がらざるを得なくなる。不承不承頷くと、女主人は屈託のない笑みを浮かべて続けた。
「もしかして、することがなくて退屈なのかしら。それならバートラムさんと一緒に船をあちこち見て歩くといいわ。あの方はとても博識だから、船のこともいろいろ教えてくれるでしょう」
仕事の間ならともかく、退屈を紛らわす相手にあの執事を選ぶ気はない。クラリッサは女主人の言葉に曖昧な笑みを返しつつ、ひとまずは客室を後にした。
こうしてクラリッサは船旅の間中、甲板で時間を潰す日々を送ることとなった。
海景色はとうに見飽きていたが、それでもバートラムと角突き合わせ過ごすよりはましだと思っている。あの執事はここでも相変わらずで、善良な女主人の目を盗んではクラリッサに軽薄な言葉をかけたり、からかうような口説き文句をぶつけてきたりしたが、クラリッサも相変わらず態度を軟化させるつもりは微塵もなかった。クラリッサの前に現われない時は、メイベルの言うように船のあちこちを見て歩いているようだ。執事だというのに何と落ち着きのないことだろう、とクラリッサは呆れていた。
一人ぼっちになったクラリッサは海面を眺めては溜息をついている。時折飛んでくる海鳥を見つければかなたまで見送り、それにも飽きると潮風に吹かれっぱなしの赤褐色の髪を指先にくるくると巻きつけ、物思いに耽るような態度で日々を過ごしていた。それがいたく思いつめた様子に映るのか、何人かの船員や他の乗客に案じる言葉をかけられては、何でもありませんと慌てて弁明する羽目にもなっている。
実際、クラリッサは感傷に囚われていた。思い出深い、住み慣れた屋敷を離れ、守るべき主人の墓からも遠く離れた今、心細さは少なからずある。旅の経験がほとんどないクラリッサにとっては、これから向かうどの土地も初めての地となるだろうし、行く先で何が起こるのか想像のしようもない。船を降りた後も快適で平和な旅は続くだろうかと不安に思うのも仕方のないことだろう。
もちろんクラリッサはメイベルの為ならば何でもやってのけるつもりでいたし、何を差し置いても彼女の平和だけは守り通そうと誓ってもいる。しかし皮肉なもので、あくどい連中に追い掛け回されていた頃よりも、こうして何も起こらない時間の方がどういうわけか旅への不安を掻き立てた。張り詰め通しだった心がふと緩み、余計なことまで考えるようになってしまったのかもしれない。
考えない方がいいとはわかっているのに――クラリッサは溜息をついた。
そこへ、
「どうされました、ご婦人」
波音に紛れて、聞き慣れない男性の声がした。
クラリッサが振り向くと、いつの間にやらすぐ背後に見知らぬ男が立っていた。潮風に栗色の髪を吹きさらした年若い青年だった。船旅の間にもかかわらず着衣は清潔そうで、身なりはきちんと整えられている。しかし世慣れぬクラリッサには、彼が果たしてどういう身分の人物なのかは判別しかねた。
彼は、見たところ人のよさそうな顔つきをしていた。日に焼けた顔に浮かべた笑みは愛想がよすぎるほどだったが、こちらの顔をしげしげと、まるで値踏みするように見つめる態度は不愉快だった。
「あなたのような美しい人が、そんなに暗い顔ばかりしているのは惜しいことです。よければその溜息の理由を、私に聞かせてはくれませんか」
青年はにこやかに続ける。
どこかで聞いたような言い回しだ、とクラリッサはまず思った。おかげで不愉快さは一層募り、ついには顔にも表れたようだ。青年は誤魔化すように手を振った。
「不躾に聞こえたようでしたら申し訳ありません。実は以前からあなたのことが気にかかっていたのです。このところずっと、海を見ては溜息ばかりついていたでしょう」
「よく、ご存知ですね」
クラリッサが初めて声を発したからか、皮肉たっぷりの物言いをされたにもかかわらず、青年は嬉しげに笑んだ。
「見た目の通り、声も美しい方だ。船乗りを惑わすサイレンの歌声も、あなたの鈴の音のような声には敵いますまい」
「それはどうでしょうか」
鼻で笑いたいのをどうにか堪え、クラリッサは短く応じた。
世間知らずのクラリッサではあるが、幸いと言うべきか否か、男性から歯の浮くような台詞をこれまで毎日のように聞かされてきた。もちろん相手はたった一人だが、一人きりでも食傷するには十分だった。おかげでこの青年の言葉にも心惑わされることはなく、むしろはっきりと疎ましさを抱いた。
そもそもクラリッサは言われるほど美人ではない。せいぜいが十人並みという顔立ちだし、小間使いらしく質素ないでたちをしているし、おまけに年齢的にも行き遅れに相当する年頃だった。もう少し若い頃には片田舎の農民から縁談が舞い込むこともあったのだが、生まれに引け目があり、何よりレスターとメイベルの傍を離れるのが嫌で全て断ってきた。おかげでクラリッサが接してきた若い男と言えばバートラムくらいのもので、クラリッサがそういった甘い言葉に嫌悪を抱く土壌を育んだのも彼だと言える。
「わたくしは、一人でいたいのです。もしあなたが話し相手をお探しならば、よそを当たってはくださいませんか」
クラリッサはなるべくやんわりと拒絶の意思を示すことにした。いつも執事にするようにきつく当たってもいいのだが、女主人の平和を乱すような真似はなるべく避けたかった。
しかし、それが婦人らしい遠慮と映ったのか、あるいは押せば通る態度と思われたのか、青年は笑みを保ったまま食い下がってきた。
「そう言わずに。深い悩みも誰かに話せば、心が楽になるということもあります。少なくとも私は、あなたのような麗しいご婦人の悩める姿を放っておくことなどできません」
彼の言動には船上という環境も影響しているのだろう。この客船には乗り合わせているのは比較的裕福な客ばかりで、そのせいか老人の姿ばかり見かけられた。そういった環境でクラリッサのような娘は貴重だったし、平和な船上に飽き飽きした青年の目には実物よりも美しい存在に見えているのかもしれない。
「お気遣いなく。わたくしの悩みは誰に話す必要もない、実に些細なものでございます」
クラリッサが突っぱねると、青年は困ったように微笑んだ。
「意外と頑なな方だ。あなたの心を溶かすには長い時間が必要でしょうね」
「時間だけでどうにかなるものかどうか」
つい本音も口をついて出たが、さておき青年は首を竦めた。
「そういうことなら仕方ありませんね。あなたから悩みを聞き出すのはやめておきましょう」
その言葉にクラリッサも、やっと諦めてくれたかとほっとする。
しかし青年は次の瞬間、クラリッサの肩に手を置いた。
「では代わりに、私の話を聞いてくださいませんか。あなたに聞いてもらいたい話があるのです。ここではなく場所を移して、お茶でも飲みながらゆっくりとね」
どこまでしつこい男だろうとクラリッサは呆れた。メイベルのことがなければ手酷く罵って追い払ってやるところなのだが、逃げ道のない船上では無用の諍いは避けたかった。やむを得ず、適当な理由をつけて客室へ逃げ込もうと思い、口を開きかけた。
「――ここにいたのか、クラリッサ」
クラリッサが下手な言い訳をぶつより早く、今度は食傷するほど聞き慣れた声が響いた。
見れば、強い海風の吹く甲板を、バートラムが早足で近づいてくるところだった。彼は珍しくにこりともせずクラリッサの前に辿り着くと、青年には目もくれずに言った。
「君を捜していたんだ。奥様が我々に用があるとのことでね」
「奥様がですか?」
メイベルのこととなればクラリッサは迅速に動く。用件を聞くより先に駆けつけるべきだと思い、即刻返事をした。
「わかりました。今すぐに伺います」
「そうしよう」
バートラムも頷く。
そして何を思ったか、クラリッサの肩にまだ乗せられたままの青年の手を、まるで埃でも除けるように払った。突然のことにさすがのクラリッサも驚き、青年はむっとした様子だったが、執事は意に介したふうもなくクラリッサの手を掴むと甲板から連れ出そうと歩き始める。
手を掴まれた方のクラリッサはつんのめるようにして彼の後に続いた。後から気づいて振りほどこうとしたが、バートラムの手は力強く、まるで外れてくれなかった。
船内へと戻り、しばらく進んでから、たまらずクラリッサは先を行く執事の背に声をかけた。
「手を放していただけますか」
そこでようやく彼は足を止め、クラリッサの方を振り返る。申し出には従わず、口元に笑みを浮かべてこう言った。
「いつ言い出すかと思っていたよ。あんまり黙っているものだから、よほど私と手を繋いでいたいのかと誤解するところだった」
「それは大層な誤解ですね」
クラリッサが睨んでも彼は笑うばかりだ。
「まあ、そう怒らなくてもいいだろう。私は君を助けてあげたのだからな」
「助けた……?」
「彼には随分としつこくされていたな。ああいう手合いは以後、関わらない方が君の為だ」
そこまで言われるとクラリッサにも彼の意図するところが掴めた。思わず聞き返す。
「まさか、奥様が用があると仰っていたのは……」
「なかなかいい読みだな。そう、ただの方便だ」
悪びれたそぶりもなく答えるバートラムに、クラリッサは呆れた。
「奥様の名を騙ったのですか」
「いけなかったかね。君を助ける為だと言えば、奥様もお許しくださるはずだ」
メイベルなら、間違いなく許すだろう。クラリッサもそう思ったが、この執事のすることとなるとなかなか受け入れがたい。
だが今回ばかりは彼の機転に救われたのも事実だった。あの青年にはほとほと手を焼いていたし、あの場から立ち去れたことに心底ほっとしていた。そう思えば、たとえバートラムが相手でも感謝はすべきだろう。
「一応、お礼を申し上げます。おかげで助かりました」
クラリッサがお辞儀をすると、バートラムも目礼を返す。
「こちらこそ、君の助けになれて何よりだ。お礼はキスで返してくれて構わないよ」
「お断りいたします」
助かったのも、彼のおかげであるのもやはり事実だが――単に口説かれる相手が変わっただけではないか、ともクラリッサは思う。なぜ自分はこういった、軽佻浮薄な手合いにばかり縁があるのだろう。不思議でならない。
しかしバートラムは、クラリッサの拒絶をむしろ楽しむような態度を見せた。
「相変わらずつれないな。では代わりに少し、君の時間を頂戴するとしようか」
気取った仕種で二階へと続く階段を手で指し示すと、
「不逞の輩との押し問答ではさぞくたびれたことだろう。食堂で一休みというのはどうかね。恩人たる私とのお茶には、君は当然付き合ってくれると思っているが」
案外と有無を言わさぬ調子で提案してきた。
「らしくもなく、脅すようなことを仰るのですね」
クラリッサが探るように告げると、彼は大げさに肩を竦める。
「とんでもない。いつも礼儀正しい君の判断に委ねているだけだ」
そういう言い方をされれば断れるはずがない。
だが事実、クラリッサは先程の青年とのやり取りでくたびれていたし、喉も渇いていた。それに一人きりでいては、またおかしな人間に絡まれるかもしれない。この船での見知った相手は、女主人の他には彼くらいしかいないのだ。こういう状況下ではやはり頼るしかあるまい。
「そういうことでしたら、お茶にはお付き合いいたします」
いかにも嫌々だと言いたげにクラリッサは応じた。
するとバートラムは片目をつむってみせる。
「わざわざ釘を刺すということは、お茶以外にも誘われる可能性を考えてくれた、と思っていいのかな」
「今更なことを……。あなたの軽佻浮薄さはよく存じておりますから」
「私も君の生真面目さは十分知っているよ。できればこれからは、違う顔も見せてもらいたいものだ」
そんなものがあるはずない。クラリッサは思ったが、そろそろ本当にくたびれていたので押し黙っておく。
そうして船の食堂まで、執事の後をついていくことにした。