終わりなき愛を(3)
隙間風と疲労が交互にやってきて、浅い眠りを繰り返した。うとうとする合間に見たのは夢のような古い記憶だ。
――八年ほど昔だ。働き口を見つけたとほぼ同時に生まれ育った孤児院を出されて、片田舎に建つレスターの屋敷で働き始めた。クラリッサは出自を引け目に感じていたし、実際にそれで辛い思いをしたこともあったから、レスターとメイベルに会うまでは恐くて仕方がなかった。きっと酷くいじめられるだろうと思っていた。初めての仕事には夢も希望もなく、ただ恐怖だけがあった。
だが、レスターとメイベルはとても優しい雇い主だった。まだあどけなかったクラリッサを労わり、何かと気にかけてくれた。二人が使用人を叱ったり、手を上げているところは見たことがないし、夫婦としても大変仲睦まじかった。互いに守り合い、想い合い、深く愛し合っていた。そんな二人の傍で働くうち、小さな頃から植えつけられていた恐怖はやがて氷解し、クラリッサは幸せな家庭を生まれて初めて目の当たりにした。同時に自分も、それを守りたいと思うようになった。二人の為に精一杯働いてきた。
あの屋敷には平穏でごくささやかな、けれど貴い幸せがあった。商人として財を築いたレスターを悪く言う者もいたが、クラリッサは気にも留めなかった。夫婦の間の深い愛情は金で買えるものではないのだから、それをも築くことのできたレスターは善良で、正しい人に違いない。疑う気は端からなかった。
そして、幸せな時が続くこともまた、信じて疑わなかった。
今思えば、考えておくべきだったのだろう。
老いた主人に仕えるということ、人の生涯には必ず、終わりがあるということ。
クラリッサは主の死に対して何の覚悟もなかった。考える機会すらなかった。片田舎での暮らしは時々退屈になるくらいに平和で、幸せの終わりがやってくる気配はどこにも見当たらなかった。レスターが世を去って初めて、クラリッサは喪失の痛みを知った。
あの屋敷にあった幸いは極めて失われやすいものだった。貴さゆえに羨まれ、築いた財ゆえに平穏さえ脆くも崩れ去った。剥き出しの悪意と欲望に直面する日々も、かつての幸いのように、いつかは終わってくれるのだろうか――。
浅い眠りと夢の終わりは、軽い揺さぶりによってやってきた。
目を開けると室内には明かりが点いていて、まだ毛布を羽織ったメイベルがクラリッサの寝台を覗き込んでいる。既に身支度を整えているのか、真っ白な髪はいつものようにきっちりと結わえられている。
「早い時分にごめんなさいね。起きられる?」
「はい……」
目をこすりながら起き上がれば、室内は未だに肌寒い。
カーテンも鎧戸もない窓越しには、夜空と瞬く星が見えた。どうやら夜明け前のようだ。
「そろそろ宿を出る」
執事の声。彼もとうに起きていたのか、外套を着込んで荷物をまとめ出している。
「港の朝は早いからな。言って、待合室を開けさせる」
「そんなことができるの?」
メイベルが尋ねたのと同じ疑問を、クラリッサも即座に抱いた。乗客の為の待合室は、連絡船の来る時分までは開かないものではないだろうか。
しかしバートラムは平然と答える。
「させます。必ず」
有無を言わさぬ口調だった。
どういう手段を取る気かは察しがつく。密かに嘆息するクラリッサへ、彼が言葉をかけてきた。
「クラリッサ、早く身支度を済ませたまえ。寝起きの君もなかなか可愛らしくはあるがね」
聞き慣れたからかいに反応しなかったのは、目覚めて間もないから、だけではない。
頭がぼんやりしていた。浅い眠りの中でもずっと、考え事をしていたようだった。昨夜、胸裏に巣食っていたのと同じ感情がよみがえる。苛立ちや怒りとは違う、しかし穏やかではいられない。
きっと、虚しいのだと思う。
機械的に支度を終えたクラリッサは、二人の後に続いて巡礼宿を出た。白々空が明るみ始めた時分、戸外は冷たい風が吹き荒れていて、外套を引き寄せ震えながら歩いた。しかし潮の匂いのする風のおかげで、港までの道を迷うことはなかった。人気のない路地を選び、暗がりを縫うように歩いた。
例の安宿の開け放してきた窓は、この時分にはもう閉められていた。一行の不在にも間違いなく気づいていることだろう。彼らは追いかけてくるだろうか。港町を訪れたメイベルが船に乗ろうとしていることも察しがつくかもしれないし、連絡船の出航時刻を調べ上げて、港まで足を運んでくるかもしれない。彼らは他人の金の為に、そこまでするのだろうか。クラリッサはその推測に虚しさを覚える。
馬鹿みたいだと思う。
港に着いた一行は、さっそく連絡船の待合室へと向かった。
ここでも交渉を担うのはバートラムで、必ずと宣言したとおり、メイベルの為に待合室を開けさせた。長椅子の並ぶ待合室は当然のことながら無人で、石炭を熾し始めたばかりですっかり冷え切っていた。しかし風がしのげるだけでも上等に思えた。
三人はストーブを囲むように腰を下ろす。冷え切っていたのは一同の身体もそうで、火に当たっていてもしばらくは震えていた。
「無理を言ってしまったんじゃないかしら」
手のひらをストーブにかざすメイベルが、ふと気遣わしげにした。すかさずバートラムは肩を竦める。
「無理ということはないでしょう。こちらも払うものは払っておきましたから」
クラリッサは黙っていたが、肩が自然と跳ねた。複雑に思う間も二人の会話は続く。
「こんなによくしていただいたんだもの、後で心づけも差し上げてちょうだい」
「畏まりました。ですがそれは、成功報酬ということにいたしましょう」
「成功報酬って?」
小首を傾げるメイベル。
執事は待合室の扉を視線で示し、答える。
「ついでですから入り口を見張っているようお願いしていたのです。恐らく追いかけてくる連中もいるでしょうから、そういう連中を追い払ってくれたら後でしっかり弾むと言っておきました」
「まあ……ご迷惑じゃない?」
「いいえ。海の男なんてものは総じて荒事を得意としておりますから、それで小遣いが稼げるのならばと嬉々として乗ってきましたとも」
バートラムは朗々と語ったが、クラリッサには異論があった。金に群がる人々を目の当たりにしてきただけあって、金で動く人間をもはや信用する気になれない。
「もし、向こうが我々よりもたくさん払うからといって、船乗りさんを懐柔したらどうするのですか」
思わず口を挟むと、苦笑いを向けられた。
「たやすく懐柔されないだけの額は約束したよ。それで昨日は失敗しているからな」
そして彼は片目を瞑る。
「昨夜言っただろう。だから、金はあるに越したことない」
だが、クラリッサは余計に虚しくなった。
やはり金で人の心は動くのか。皆、そんなに金が欲しいのだろうか。胸裏に込み上げるやり切れない思いに息をついた時だ。
待合室の扉の向こうで怒鳴り声が響いた。
昨日の連中の声かと思ったがそうではなく、むしろ現れた昨日の連中を追い払おうとする船乗りの声だったらしい。
「……来たか」
バートラムが呟けば、怒鳴り声は間を置かず怒鳴り合いとなり、やがてどたばたと鈍い音の響く騒乱へと発展した。待合室の扉や壁が何度かどすんと響き、揺れ、壁の向こう誰かが何事かを喚く。
堪らなくなってクラリッサは俯いた。もうまっぴらだった、こうして他人の、剥き出しの悪意や欲望を目の当たりにするのは。
「恐いかい?」
執事はそう尋ねるや否や、クラリッサのすぐ隣に腰を下ろす。
「心配要らない、もうじき船も来る頃だ。乗ってしまえば連中も追っては来れまい」
そして肩を抱こうとしてきたので、それは律儀に払いのけておいた。
ただ、もやもやした思いは告げたくなって、つい零した。
「何だか虚しくてしょうがないのです、こんなことが……お金のせいで起きてしまうなんて、奥様をいちいち不幸にしてしまうなんて、おかしいです。お金にとりつかれた人が、まるで馬鹿みたい」
馬鹿馬鹿しい。金が人の心を動かし、いつしか狂わせてしまうのなら、こんなに愚かなことはない。それで傷つく人や傷つけられる人がいるのも、メイベルが辛い目に遭っているのも、理不尽で虚しい事態だ。クラリッサはそう思う。
外の喧騒は今なお続いている。
そんな中で、バートラムは場違いに穏やかな声を発した。
「金のせいだと考えれば、君には汚らわしいもののように映るのだろうな。だが、違うように考えてみたまえ」
思わずクラリッサは面を上げた。
すぐ傍にある執事の顔が、まるで励ますように微笑みかけてくる。
「今、奥様を守ってくれているものは紛れもなく、旦那様が遺した財産だ。旦那様の築いてきたものは、奥様を守り、健やかに暮らす為の糧となっている」
それから眼差しを夫人へと向け、一層優しく続けた。
「そしてもうすぐ、奥様を楽しい旅へと連れ出す。旦那様が、奥様の失われていた平穏と笑顔とを取り戻してくれるのだよ」
視線を受けたメイベルが頷いてみせる。しっかりと、深く。
「ええ、そうね。レスターの遺してくれたお金は、確かにわたくしを幸せにしているわ」
二人の言葉を、クラリッサは呆然と聞いていた。そんな風に考えたことはなかった。金とは人を狂わせるもので、幸せにするものだとは到底思えなかった。ずっとそういう光景ばかり見てきたから。
だが、メイベルがここにいるのはレスターの遺産があってこそだ。金に群がろうとする人々を振り切って旅に出るのも、金がなければ出来ぬこと。レスターは死してなお、メイベルを守り、想い、愛することが叶うのかもしれない。
「素晴らしいことだろう?」
バートラムが問う。
首肯したクラリッサは、すぐに浅薄な嫌悪を恥じた。同時に込み上げていた虚しさがふっと消え失せるのも自覚した。
とりつかれていたのは、自分の方だったのかもしれない。
しばらくして、待合室の扉が開く。口元に切り傷を作った船乗りが意気揚々と成果を報告し、バートラムは彼に報酬を払う。それから出航時刻が近いことを聞いて、わざわざクラリッサに向かって明るい声を上げた。
「船が来るぞ、クラリッサ。旅立ちの時だ」
孤児院育ちのクラリッサは、船に乗るのも初めてだった。
迎えた朝はからりと晴れていた。メイベルが景色を見たいと言ったので、クラリッサも同伴にあずかることにする。船室に入るのはもったいないくらいのいい天気だ。
甲板の手すりに掴まり、だんだんと遠くなっていく岸辺を見やる。港町の一夜は散々だったが、こうして離れてしまうと奇妙な感慨さえ湧いた。次にここへ戻ってくる時、自分はどんな心境で、どんな思い出を胸に抱いているだろう。もちろんその時も、奥様と一緒には違いない。
――それと、如才ない執事もだ。
「クラリッサ、すっかり顔色がいいようじゃないか」
同じく甲板に出ていた彼が、そう話しかけてきた。
「さっきは蒼白な顔をしていたのにな。気分はよくなったかい?」
「ええ、おかげ様で」
頷いた時、随分と晴れやかな気持ちになった。空は青く、日差しは暖かく、波は穏やかだ。初めて揺られる船はそう悪いものでもなく、旅立ちに胸が躍った。
「楽しい旅にしましょうね、二人とも」
メイベルも無邪気に笑う。
その頭上を一羽の白い海鳥が飛ぶ。滑るように船を追ってくる。しばらくの間、見送りのようについてきたその鳥は、船から陸地が見えなくなる頃、ようやく傍を離れた。水平線のかなたと飛んでいった。
クラリッサはその海鳥を見上げていた。かなたへ消えてからもずっと、見送った。
それから思い出したように、久し振りに笑んでみた。
幸せは再び、ここから始まるのかもしれない。
少なくとも旅は始まった。レスターが愛した夫人と、夫人に付き従う従者二人を笑顔にする旅は、確かにここで幕を開けていた。