盲目な恋をした(2)
船の食堂は、見た目だけなら陸にある食堂と大差なかった。内部は意外なほど広い。たくさんの丸テーブルと椅子が並べられており、更にその間を給仕がぶつからずに行き交えるだけの余裕があった。高い天井にはレスターの屋敷にあったようなきらめくシャンデリアが下がっていて、揺れさえなければ船の中にいるのが嘘のように感じられた。
この船は比較的穏やかな海を渡っているという話だったが、それでも卓上に置かれた茶器が時折かたかたと音を立てた。その度にカップの中の茶が琥珀色のさざ波を立て、皿の上の焼き菓子が一つや二つ、テーブルクロス目がけて飛び出すのも珍しいことではなかった。
もっとも船旅も数日経つ今、クラリッサは食卓を賑わす揺れにもすっかり慣れてしまっていて、クロスの上に落ちた焼き菓子をそっと摘み上げるとためらいなく口に運んだ。菓子の味も陸と何ら変わらず、ほんのり甘く香ばしかった。
慣れないのはむしろ、こうした場にいて、まるで客のような態度で茶を楽しんでいるこの状況なのかもしれない。
「気後れすることはない。肩の力を抜くといい」
向かい合わせに座るバートラムが、カップを片手に微笑んだ。
クラリッサがおずおずと頷けば、からかう口ぶりで続ける。
「こうして私と見つめ合うせいで緊張している、というのなら嬉しいがね」
もちろん、断じてそんなことはない。
旅に出るまで、クラリッサはまさにここにいる給仕たちと同じ仕事をしていた。メイベルの為に食事を作り、食卓をきれいに誂え、水を注いだり茶を入れたりするのが務めだった。
自分の食事も自ら賄ってきたクラリッサにとって、他人に食事を用意してもらったり、茶の用意をしてもらうのはいささか抵抗があった。ましてこんなに品のいい食堂では尚更だ。
「堂々としているべきだよ。ここでは君も客なのだから」
そう語るバートラムには当然ながら気後れした様子はない。メイベルに勝るとも劣らぬ優美さでカップを持ち、焼き菓子を口に運んでいる。その仕種はとても普段の軽薄さからは窺えない気品に溢れていた。
クラリッサはこの執事を疎ましく思っていたが、それとは別に、彼に微かな興味を覚えていた。
考えてみれば自分はこの人のことをまるで知らない。知っているのは、自分よりも先にレスターに雇われ、執事として働いていたこと。口さがなさはさておき、執事としては有能であるらしいこと。三階から飛び降りたり、同じように飛び降りてきた自分を受け止められるだけ身体能力が優れていること。どんな場においても堂々と振る舞える風格の持ち主でもあること。そしていろんな意味で博識であること、などだった。
果たして天賦の才だけでこれらの能力が備わるものだろうか、クラリッサは疑問を感じている。それに加えて彼は、少なくとも他人からより信頼を得やすくさせるだけの整った容貌すら持ち合わせている。
ここまで何もかも――ただ一つ、あの蔑むべき軽薄さを除いては全てにおいて人より恵まれているバートラムは、これまで一体どのような人生を送ってきたのだろう。どのようにして、レスターの元で働くようになったのだろうか。そこに特別な事情があるとは限らないだろうが、彼の場合は何かがありそうな気がした。なぜだろうか。
素性についての話題は、たとえ仕事仲間であろうとも迂闊に触れるべきではないだろう。それはクラリッサ自身が痛感している事実だ。ただ彼はクラリッサによく声をかけ、くだらない言葉は寄越してくるくせに、自らの話をあまりしないというのも不思議に思えた。
聞いてみたいわけではない。ただ、何となく気になった。
「……その眼差しの意味を、君に尋ねてもいいかな」
不意に彼が愉快そうな声を発したので、物思いに耽っていたクラリッサは一瞬動揺した。
控えめに咳払いをした後で、気まずい思いで目を逸らす。
「私が勝手に解釈していいと言うならそうするが、できれば君の薔薇色の唇から、直に聞きたいものだ」
バートラムはそう言うと、喉を鳴らすように笑った。
いつもながらの軽口にクラリッサは呆れたが、元はと言えば不躾な視線を贈っていたのは自分の方だ。居住まいを正して答えた。
「申し訳ございません。少し、気になったものですから」
「私のことで?」
「ええ、まあ……」
そうは言っても正直に打ち明けるわけにはいかない。しかし言葉を濁そうにも、彼の青い瞳はじっとクラリッサの話の続きを待ち構えている。
やむなく、クラリッサは違う話を持ち出した。
「あなたは、不安や悩みをお持ちでないのかと思っていたのです。旅に出てからというもの、そういったそぶりをお見かけすることがありませんでしたから」
するとバートラムは青い目を穏やかに細め、クラリッサを見た。
「君が知らないだけだよ。私はいつも、君のつれない態度に胸を痛めている」
「それは失礼いたしました」
そういうふうに言われるからこそ、つれなく接したくもなるというのに。
どうせ真面目な話のできる相手ではない。それこそ曖昧に言葉を濁しておく方がよほどよかったかもしれない。うんざりしたクラリッサがカップを持ち上げ、冷めかけた茶を一口飲んだ時だった。
「そう言うからには、君には不安でもあるのかね」
バートラムが探るような問いを投げかけてきた。
クラリッサはカップの縁越しに彼を見やり、慎重に相手の出方を窺う。これも正直に言えば言ったでおかしなことを言い出すかもしれない。不安なら私が慰めてあげよう、などと――執事の次の台詞に見当がつくようになってしまった自分にもうんざりする。そんなもの、わかったところで何の役に立つというのか。
しかし見たところ、彼は軽く笑んでいたものの面白がっているようではない。先程の問いは、いつものからかう調子とは違うふうにも聞こえた。こちらも洗いざらい打ち明ける気はないが、不安があることくらいは伝えておいた方がいいかもしれない。そう思った。
「わたくしは、こうして遠くまで旅に出るのが初めてですから」
カップを置き、クラリッサは言葉を選びながら打ち明ける。
「もちろん奥様に随伴することにもはや迷いはございません。どこへでもお供する覚悟はございます。ただ、これからどこへ行ってもわたくしにとっては見知らぬ土地だろうということが、いくらか不安なのです」
これからどこへ行くのかが一番の気がかりだった。
逃避行ならば落ち着く先などないだろう。ほとぼりが冷め、いつかあの終の棲家へ帰る日までは、あてどない旅を続けていくしかないのだろう。そんな日々に自分がきちんと適応できるかどうか、クラリッサは今更のように気になり始めていた。
船を降りてからどうするのかについて、メイベルはまだ言及していない。彼女なりに考えはあるのだろうが、もし行くあてに迷っているのだとしても旅慣れないクラリッサでは力にもなれない。自分に何ができるだろうと考えると、何もないことに気が滅入り、焦りが募った。
「君にとっては見知らぬ土地かもしれないがね」
と、あくまでも穏やかにバートラムは言った。
「奥様にとっては違うようだよ。まだ直接聞いたわけではないが、私には奥様がこの先、向かおうとしている場所がわかる」
意外な発言だった。
疑問の一つが氷解するかもしれない。クラリッサは思わず身を乗り出す。
「それは一体どちらです? なぜあなたにはおわかりになるのですか?」
「奥様が古い日記を読んでおいでだからだ」
バートラムは後の方の問いにまず答えた。そして、食堂内に一度視線を走らせると、大事な秘密でも告白するように声を落として、こう語った。
「あの日記は旦那様が、新婚時代に書かれていたものだ。そしてその中には、奥様と出かけた新婚旅行についての記述もある。わかるかな、クラリッサ」
新婚旅行という単語は、クラリッサの頭にはなかなか馴染まなかった。彼女が知っているのは出会った時から既に隠居し、年老いていたレスターと、年毎に白髪が増えていったメイベルだけだった。
しかし当然のように、誰にでも歴史があるように、あの夫婦にも確かに新婚時代があったのだ。クラリッサがこの世に生を受けるよりもずっと昔のことだろう。
「奥様は恐らく、旦那様との思い出を辿りたいとお考えになるはずだ」
思いのほか真面目な口調で執事は続けた。
「旦那様と出会うまで、奥様も旅はしたことがなかったそうだよ。生まれ故郷に閉じこもって娘時代をお過ごしになられたが、十六の時に初めて故郷を離れ、長い旅をした。それが旦那様との新婚旅行だ。それならばさぞ、思い出深い旅になったことだろう」
クラリッサには十六歳のメイベルの姿が、やはりどうしても想像できない。
しかし十六と言えばクラリッサがレスターとメイベル夫妻に雇われ、あの屋敷へ初めて足を踏み入れたのと同じ年頃だった。あの時の不安、心細さを思い返せば、十六のメイベルの気持ちを推し量りたくもなる。
「奥様は、旦那様とご一緒とは言え、初めての長旅を恐れなかったのでしょうか」
ぽつりとクラリッサは尋ねた。
しかしバートラムはゆっくりとかぶりを振り、言い聞かせるような口調で答える。
「つまりそういう恋をしたのだろうな、お二人は」
クラリッサにはまだ、そういった恋の素晴らしさは未知の領域だった。
だがそれでも、生前のレスターと並ぶメイベルの幸せそうな姿を眺めてきた身として、それがとても素晴らしく、輝かしいものであることくらいはわかる。
あの夫婦は、クラリッサにとっても理想だった。家庭を知らなかった自分に、それがどんなに温かいものかを教えてくれた。二人に出会わなければ自分は家庭を知ることもなかっただろうし、それに憧れることもなかっただろう。
そんな幸せな光景にも、始まりの日があったのだ。クラリッサには知りえない、長い長い歴史があった。是非知りたい、触れてみたいとクラリッサは思う。
そしてようやく、これからの旅に光明が差したような気がした。
黙って思いを巡らせるクラリッサの表情から、バートラムも何かを読み取ったのだろう。
しばらくしてから安堵の息をついた。
「君の気分をいくらか楽にさせられたようでよかったよ」
そして、はっとするクラリッサに対し、彼は真剣な口ぶりで説く。
「ついでだから、生真面目な君に言っておこう。この旅は奥様と、私と、君と、三人の旅だ」
青い瞳がしっかりとこちらを見据えている。
「屋敷にいた頃のように、他の者の力を借りることはできない。奥様に降りかかる諸問題は、なるべく私と君とで解決しなければならない。それはわかるな?」
「はい」
クラリッサは頷いた。だからこそ、自分にできることの乏しさ、未熟さに焦燥を感じていたのだ。
「これから君は、ただの小間使いではしないような役目も引き受けなくてはいけなくなる」
バートラムはそこでほんのわずかにだけ笑んだ。
「きっと忙しくなる。君がしなければならないことも、奥様の為に君しかできないようなことも、間違いなく飛躍的に増えるだろう。だから不安も心細さも感じている暇はなくなるだろうし、奥様の為にできることがないと嘆く必要もなくなる」
この執事は、人の心を読む術すら持ち合わせているのかもしれない。
言い当てられてクラリッサは赤面した。しかし意外なことに、それほど悔しい気はしなかった。それどころか本当に気が楽になったようだ。
自分はただの小間使いとしてここにいるのではない。今となってはたった二人しかいない、メイベルの従者だ。海を眺めて感傷に浸っては溜息をついたり、お茶を飲むくらいで人目を気にして臆するようでは彼女の名を汚すことにもなりかねない。
こればかりはこの執事を見習うべきだろう。
常に、堂々としていよう。
「本日はとてもためになるお話を、ありがとうございました」
言いながら自然と背筋を伸ばしたクラリッサを見て、バートラムはやはり微笑んだ。
だがその後すぐに、なぜか悔しそうにしてみせた。
「君は仕事の話となると別人のように素直だな」
「はい。奥様の為になる意見は、柔軟に受け入れたいと存じます」
クラリッサは生真面目に答えた後、仕返しのつもりでこう言った。
「バートラムさんこそ、お仕事の話をしている時は大変好ましいお人柄に見えますよ」
いつもいつも言われっ放しで、それこそ少し悔しかったのだ。たまには一矢報いてもいいだろう。貶したわけではなく、心から誉めてもいるのだし。
心からの賛辞を聞いた彼は、途端、焼き菓子を喉に詰まらせたようだ。一瞬眉を顰めた後、こちらを向いて軽く睨んだ。
「そこは、君と二人でいる時の私の方こそ、好ましいと言って欲しいものだが」
言うわけがない。クラリッサはいつものようにそう思ったが、黙ってカップを口元に運んだ。
そうしないと、つい浮かんだ笑みを見咎められてしまうからだった。
バートラムは少しの間、口元を隠すクラリッサを恨めしげに眺めていた。彼がその間に何を思ったかは不明だが、ふと満足そうな面持ちになったかと思うと、独り言のように呟いた。
「そういう恋を君にもいつか、させたいものだ」
やり込められた後だからだろうか。その呟きは普段よりも静かで、溜息のようだった。
クラリッサはとうとう声を上げて笑ってしまい、彼の言葉を否定することさえ、ままならなかった。