menu

誘う楽観主義者(3)

 その朝、海里くんは私よりも早く起きていて、私が居間へ入っていくと駆け寄ってきた。
「のどかさん、昨日の件だけどさ」
 伯父さんはまだ寝ていて居間にはおらず、伯母さんも台所に立っている。その隙を見計らうようなタイミングで言われた。
「やっぱ一度、確かめてみない? 本物なのかどうかを」
「……急にまた何で?」
 私はとっさに聞き返した。
 脳裏には昨夜見たばかりの夢の内容が浮かんでいた。私達は葉団扇を試すつもりであの箱を持って、神社へと続く長い石段を上っていた。なぜ神社を選んだかと言えば――そう、海里くんがそこがいいと言ったからだ。
 つまり今朝、海里くんがこうして葉団扇について切り出してきたのも夢の通りということになる。
「いや、せっかく来てもらったのにはっきりしないままってのも微妙っつうかさ」
 海里くんは大きな手で髪をかき上げる。
「のどかさんをもやもやした気持ちのまま帰すのも嫌だなと思って。いっそ試して、何もなかったって確かめてからの方が……」
 そしてそこまで続けたところで、私が身構えているのに気がついたんだろう。ぎょっとしたように目を剥いた。
「ってかどしたの、のどかさん」
「ううん。話続けて」
 私が続きを促すと、彼は釈然としない様子ながらも再び口を開く。
「俺はそこまですごいもんだと思ってないけど、ってかじいちゃんの悪ふざけの一環だと思ってるけど、万が一ってこともあるし外で試す方がのどかさんは安心だろ。ちょっと歩くけどいい場所があってさ。ほら、向こうの方にちょっと小高くなってる山みたいなとこあるじゃん」
 海里くんは縁側へ出て、少し遠くに見える小さな山を指差した。一緒に縁側へ出た私は、眩しい朝日を片手で遮りながらそちらを見やる。
 やっぱりあの山だ。夢に出てきたのと同じく、山の斜面に長い石段があるのが見えた。
「あそこなら、ちょっとやそっとの風じゃ吹き飛ばないよ」
 夢で聞いたのと同じ台詞を、海里くんが口にする。
「いつだったかでっかい台風が来た時もさ、ちっちゃい神社なのにびくともしなかったんだよ。あそこにはマジで神様がいるって言う人もいるけど、どうなんだろうな」
 エスパー、天狗と来て次は神様か。それらが全部本当にいるとしたらこの世は結構何でもありなのかもしれない。
 私は説明を終えた海里くんに向かって頷いた。
「わかった、行こうよ。実は私、夢でも見たんだ」
「マジで!?」
 海里くんはすっとんきょうな声を上げ、すぐに慌てて自分で口を押さえた。
 それから声を落として、ひそひそと尋ねてくる。
「夢でも試したんだろ。結果、どうだった?」
「それが結果までは見られなくてさ。山の石段上って神社に行ったとこで終わってた」
「そっか……まるで、試してみろって言わんばかりの夢だな」
「まあね。実際、そうするしかないんだろうけど」
 さっき海里くんが言った通り、私だってはっきりさせたいと思っているし、もやもやを残したままで帰りたくはない。連休が明けたら夏休みが終わるという大事な時期にこんな田舎へ足を運んだのだから、やっぱり何らかの収穫が欲しい。
 となるとやはり、我々はあの葉団扇を試してみるしかないわけだ。

 伯母さんお手製の美味しい朝食をいただいた後、私と海里くんは葉団扇を家から持ち出し、神社を目指した。
 夢で見た通り、秋晴れの少し暑い日だった。空は高く澄みきっていて、羽毛のような巻雲が浮かんでいる。しばらく歩いた後に辿り着いた件の山はこんもりとした緑で覆われていて、その合間に切れ目を入れたみたいに急勾配の石段が設けられている。
「この石段、ちょうど百段あるんだ。数えてみる?」
 海里くんの無邪気な言葉にはかぶりを振りつつ、まずは石段を上る。風のない日で、石段に落ちた木々の影はぴくりとも動かない。まだ蝉が鳴いている以外は驚くほど静かだった。漂う空気は新鮮な緑の匂いがした。
 百段目まで上りきると、すぐのところに朱色に塗られた鳥居が建っていた。鳥居からは石畳敷きの短い参道が伸びていて、目と鼻の先にある小さな拝殿へ続いていた。拝殿は古い木造で、海里くんが言うほど丈夫そうには見えない。ここも蝉の声以外は静かなもので、私達以外に人の気配もなかった。
「ふう……。よかった、誰もいないね」
 万が一の事態に誰かを巻き込んでは困る。私が胸を撫で下ろすと、海里くんも早速、紙箱を石畳の上に置いて蓋を開けた。
「じゃあ、試そう。どっちから行く?」
 箱の中にはヤツデの大きな葉が、昨日と同じようにしまわれていた。色艶のよさも程よい厚みもそのままだ。
「そりゃ私でしょ。変な夢見たのも私なんだし」
 即座に名乗りを上げると、海里くんはにまっと唇を歪めてから私に葉団扇を差し出してきた。
「のどかさん、気をつけて」
「笑いながら言うなっての。海里くん、私の言うこと信じてないな」
「のどかさんの夢は信じてるよ。葉団扇のことは正直何ともだけど」
 私だって突拍子もないと思っている。実は祖父が生前用意した壮大なドッキリでした、というオチもなくはないだろう。でもこんな得体の知れないものが仏壇から出てきた以上、そしてそれを夢に見た以上はスルーだってできやしない。
 手に取ってみた葉団扇は見た目の通りに軽かった。本物のヤツデの葉と変わらないくらい青々としていて、自然な艶はあるものの、何か加工されているというふうではない。葉柄に巻きつけられた布は古さのせいか少し硬く、乾いているように感じられた。だからこそ葉の美しい緑が不自然に思える。
「……よし」
 私は深呼吸をして、その葉団扇を片手で握り、持ち上げようとした。
 だけどそこでふと、目の前に海里くんがいることに気づき、
「海里くん、危ないからそこどけて」
 団扇を持っていない方の手で避けるよう告げると、海里くんは目を瞬かせてから苦笑した。
「心配要らないと思うけど、どこにいればいい?」
「こっち来て。私の傍に」
 団扇の風が当たらないよう、私は彼に、私の隣に立つよう告げる。
 すると海里くんは笑いながら歩み寄ってくると、わざと腕をぶつけるようにしてすぐ隣に立った。
「ああそっか、万が一ってこともあるよな、のどかさん」
「何だね急に深刻そうに。さっきまで人の心配を笑ってたくせに」
「でもマジで風が起きたら吹き飛んじゃうかもしれないじゃん」
「まあね。つか何で信じる気になったの? 何かあった?」
「ひらめいたんだ。お互い風で飛ばされないよう、ぎゅっと抱き締めあうのはどうかな」
「……そういう、悪知恵ばっか働くところはじいちゃん譲りだね」
 私が祖父について口にすると、海里くんはどこか不満げに鼻を鳴らした。もっとも言い出した以上はやらにゃ損だとでも思ったか、私の肩に大きな手を置き、力を込めてぐっと引き寄せてみせた。
 私は三つも年下の従弟に肩を抱かれつつ、どうにも落ち着かない気分で葉団扇を構える。
「じゃあ、今度こそ行くよ」
「いいよ、のどかさん」
 海里くんの答えを聞いた直後、私は葉団扇を動かした。さすがに拝殿に向けて風を起こす気にはなれず、頑丈そうな鳥居めがけて一扇ぎした。
 その瞬間、ごうっと重い風の音がした。
「うわあっ」
 たちまち目を開けていられないほど強い風が目の前をかすめ、私はとっさに目をつむっていた。風の強さに息が詰まり、スカートが舞い上がっても押さえる余裕はなかった。渦を巻くような風が私の足元を攫い、風の勢いにに引きずられるように、私はその場に倒れ込んだ――かと思った。
 だけど信じられないことに、その時私の身体は浮いていた。
 唐突に吹き荒れた一陣の風が、私を地面から巻き上げ、どこかへ吹っ飛ばそうとしていた。
 必死に目を開けると、乾いて痛い眼球が地上から必死に手を伸ばす海里くんを捉えた。
「のどかさんっ!」
 ごうごうと耳障りな音の中で海里くんは私の名を叫び、彼の大きな手はすんでのところで私の手を掴んだ。
 彼は歯を食いしばって私の腕を手繰り寄せ、背中をしっかりと掴むように抱き締めてくれた。途端に私の身体は浮力を失くして彼の上に落ち、私達は固く抱き合ったまま硬い石畳の上に転がった。
 肩や腰を打ったけど、痛みを覚えている暇さえなかった。私の目はつむじ風の動きを捉えていた。参道をぐるりと抉るように吹き抜けた後、拝殿の周囲に生えていた木々から枝葉をばりばりと音を立ててもぎ取っていく。やがて風は木々の梢まで枝葉を舞い上げたかと思うと、急に飽きでもしたみたいにふっと止んで、少し遅れてからぱらぱらと枝が落ちてくるのを見た。
 神社には静けさが戻ってきた。
 もう蝉の声もしない。ただ私を抱き締める海里くんの荒い呼吸だけが聞こえてくる。
「何だ、今の……のどかさん、大丈夫?」
 私は返事の代わりに彼を片手で抱き締め返し、そして――もう片方の手には、まだあの葉団扇をしっかりと握っていた。
 本当はこんなものすぐにでも手放したかった。だけどそうしたらまた、同じ目に遭うかもしれない。そう思うと手を動かすこともためらわれて、そのまましばらくじっとしていた。

 帰宅するとすぐに、私達は紙箱にしまった葉団扇を仏壇の引き出しに戻した。
 どこかに厳重に隠しておく必要があると思った。果たして仏壇の引き出しが厳重な隠し場所かと言うと怪しいものだけど、下手に地面に埋めれば誰かに掘り起こされる可能性もあるだろうし、同じ理由でどこかにだって捨てられない。
「俺がちゃんと守ってる。心配しなくていいよ、のどかさん」
 そう言って、海里くんは私の背中を優しく撫でてくれた。
「うちの父さんも母さんも、あの引き出しのことすら知らないって言ってたし。この家で知ってるのは俺だけだ。守り通せるよ、絶対」
 彼の言葉は頼もしかったけど、それでも私は普通じゃいられなかった。
 いや、とっくに『普通』じゃなかったんだ。わかっていたのになかなか認められなくて、こうして事実に直面したら馬鹿みたいにへこんでいる。普通の女子大生は予知夢なんて見ないし、あんな風だって起こせない。
 その日はもう何もする気が起こらず、ぼんやりして過ごした。お蔭で伯父さん伯母さんには心配をかけてしまったようだ。
「……のどかさんに俺がおかしなことしたんじゃないか、って疑われたよ」
 夕食の後、縁側に座り込んでいた私のところへ、海里くんがやってきた。すぐ隣に腰を下ろし、困ったような笑顔を向けてくる。
「それはごめん。あとでちゃんと言っとくよ」
 私が言うと彼は首を横に振った。
「いいよ、のどかさんは元気になることだけ考えて」
「元気に、か……」
 彼の言葉を繰り返しながら、私は深く息をつく。
 混乱していた頭は大分落ち着いてきた。だけど落ち着けば落ち着くほど気分は沈んでいくようだった。
「私、何者なんだろう……」
 縁側からは月が見えた。十五夜を過ぎた月は少し欠けていて、冷たい光を放ちながら空に浮かんでいる。
「のどかさんは、のどかさんだよ」
 海里くんが静かに笑うのが聞こえた。
「俺の従姉で、初恋の人で、今もすごく大切な人だ。ずっと昔から変わらずそうだった」
 私自身、自分に変わってしまった部分があるのかどうかわからない。ただ生活は大きく変わってしまった。私はあの夏からずっと予知夢を見るようになり、そして今日、葉団扇を使って起きた風に危うく吹っ飛ばされるところだった。
 私はエスパーなのだろうか。それとも天狗なのだろうか。
 祖父はどうだったのだろう。今となっては何も聞くことができない。
「おじいちゃんは何だったんだろう……もっと話しておけばよかったのかな。そしたら教えてくれたのかな」
 予知夢を祖父の仕業だと思って、何度も恨めしさを覚えたりしたけど、もし祖父とまた話ができるなら恨んだりも怒ったりもしない。本当のことを教えて欲しかった。
「わからない」
 海里くんが、私の呟きに応える。
「俺にとっては、のどかさんが前に俺を助けてくれたことが全てだよ。のどかさんにはそういう力があるんだ」
 そう言うと彼は私の手を取り、指を絡めるようにして強く握ってきた。包み込むように大きくて、温かい手だった。
 私がそちらを向くと、祖父譲りの形をした瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「だからあの葉団扇も、のどかさんにしか使えない」
 海里くんの言葉に、私は思わず目を見開いた。
「試したの?」
「いいや。そうして欲しいって言うなら、いつでもやる覚悟はある」
 庭からは虫の声がする。祖父が建てたという古い日本家屋の庭はいつでも手入れが行き届いていて、緑の匂いがした。あの山の匂いとも似ていた。
「でも、俺にはできない気がするんだ。勘だけど」
 海里くんは確信したように私を見つめている。
「のどかさんは怖いって思ってるかもしれないけど、俺は、俺だったらいいのにって思ってるよ」
 怖い。それは、恥ずかしながら事実だ。
 私の力が人を助けられるならいいだろうけど、そうじゃないとしたらどうしていいのかわからなくなる。予知夢だって、無害で平和な夢を見ているうちはいい。だけどもしまたあんな悪い夢を見たらと思うと――。
「俺にその力があったら、俺が格好よくのどかさんを助けることもできたかもしれないのに」
 海里くんが照れたように首を竦めたから、その屈託のなさに私は少し笑った。
「今日は海里くんが助けてくれたでしょ。ほら、私が吹っ飛ばされそうになった時。あの時すごく格好よかったよ」
 彼がいなかったら、私は風に巻き上げられて山の下まで転がり落ちていたかもしれない。感謝を込めて手を握り返すと、海里くんも笑みを見せた。
「ありがとう。でも俺、もっとのどかさんを助けられるようになりたい」
「助けがいる機会なんてもうない方がいいよ。あんな超常現象とかさあ……」
 言いかけた私を、海里くんは目配せで制した。
 そして言った。
「のどかさん、俺とのどかさんは従姉弟同士だよな」
「う……うん。そうだよ」
 急な問いかけに私は一瞬うろたえた。
 当たり前のことを改めて尋ねられると戸惑ってしまう。何だ、今更『従姉弟同士だとちょっと難しいよね』などと言うつもりではあるまいな。
 私の懸念をよそに、海里くんは繋いだ手を軽く持ち上げた。絡めた指の下で手のひらが触れあい、体温が直に伝わってくる。温かい。
「俺とのどかさんには、じいちゃんから受け継いだ同じ血が流れてる」
 海里くんは、低く穏やかな声でそう言った。
「のどかさんがどういう存在だとしても、じいちゃんがどういう人だったとしても、それは変わらない。俺に同じような力がなくたって――そうだろ、のどかさん」
 この温かさは、血の温かさだ。彼の中に流れている血が運ぶ熱が、私に触れる手のひらも温かくしている。同じ血が私の中にも流れていて、それは確かにあの祖父から受け継いだものだった。
 祖父が何者で、私が何なのか、そんなことはわからない。もしかしたら知っている人はいるのかもしれないけど、何も明らかにならないまま過ごしていく可能性だってあるだろう。私の予知夢もずっと終わらないまま続いていくのかもしれない。
 だとしても、私には海里くんがいる。
 同じ祖父の血を引いた従弟がいて、何者かもわからない私を大切に思ってくれている。他のことが曖昧ではっきりしなくても、これだけは確かだ。信じていい。
「……そうか、同じ血か。私、一人じゃないんだね」
 私は彼の言葉に、霧が晴れたような気分になって顎を引く。
 それから、目の前にいる従弟の顔を見つめた。彼はこの一ヶ月ですっかり大人になってしまったようだ。迷いのない表情は凛々しく、アーモンド形の瞳はひたむきに私を見つめている。私の方が年上だという自負がこれまではあったけど、そんなものも海里くんといる時は必要ないのかもしれなかった。
「海里くん、もう十分すぎるくらい、いい男になってるよ」
 片手は繋いだまま、私はもう片方の手を彼の背中に回して、そっと抱きついた。今は全部でその体温を、血の温かさを感じていたかった。
「本当に? のどかさんに釣り合うかな、今の俺」
 嬉しそうに言った海里くんが、やはり片手で私を抱き締める。
 釣り合うどころか追い抜かれている気さえする。これからは私もちょっと、気持ちを入れ替えて頑張らないと。

 私が『エスパー美女のどかさん』なのか、『天狗の美女のどかさん』なのかは未だに定かじゃない。あるいはそれとはまた違う、不思議な力を持った存在なのかもしれない。これから先、その真実の程を突き止められるかどうかさえわかったもんじゃない。
 だけど私が何者だろうと、海里くんの従姉である事実だけは絶対に揺るがない。
 揺るぎないものが一つあれば、それを支えに生きていける。わからないことだらけでも、変なことが起こっても、よく当たる予知夢を見たとしても、それが海里くんの夢ならそう悪いもんじゃないって今は思う。あの葉団扇のことは気になるけど、あれもそのうち役立つ機会があるかもしれないし――仮になくても、海里くんと一緒に守っていこうと思っている。
 だから私は難しく考えるのをやめた。代わりにこっちにいられる時間を存分に楽しんでやろうと、台所を借りて海里くんの為に甘いお菓子を作ってあげた。夜も遅かったけど海里くんと二人でそれを食べ、さっきまであった不安も忘れて楽しく過ごした。
 そして眠りに就いたその晩も、夢を見た。

 翌朝、起きてきた私を海里くんは笑顔で出迎えた。
「のどかさん、午前の電車で帰るんだろ? 俺、駅まで送って――」
 言いかけて、海里くんが言葉を止める。
 睨んでいる私に気がついたからだろう。途端に怪訝そうな顔をした。
「あれ、どしたののどかさん。機嫌悪い?」
「悪くないけど、ちょっと距離を取ってくれる? あんま近づかないで」
「え、何でだよ。急に冷たいこと言って」
「『何で』じゃない! 君がどんな魂胆でいるかは夢でお見通しだからね!」
 私のよく当たる予知夢はまたしても海里くんの夢を見せてくれた。
 田舎町を離れ家路に着く私を、先月と同じように海里くんは駅まで送ると言ってくれた。別に断る理由もないしもっと一緒にいたいしと私はその申し出を受けたわけだけど、辿り着いた先の駅で彼は事もあろうに――。
「全く、この間まで私の後をついてくるよちよち可愛い海里くんだと思ってたのに!」
 夢のことを思い出すと文句も言わずにはいられなかった。ついでに顔も熱くなったけどこれは、怒りのせいだ。多分。
「所詮は君も男の子、油断も隙もあったもんじゃないね!」
 噛みつく私に、海里くんはようやく合点がいった様子で唇の両端を吊り上げた。
「もしかして俺、夢の中でのどかさんに何かした? 何したの?」
「そ……れは、別にいちいち説明するようなことでもないけど!」
「いや、言ってもらわなきゃわかんないし気をつけようもないよ。教えて、のどかさん」
 口調だけは可愛く、しかし表情は自信に満ち溢れた海里くんが私にねだる。
 しかしよもや言えるだろうか。あんな夢の中身を――ともすればまた欲求不満ではないかと自分の深層心理すら疑ってしまいそうになるあんな夢を、海里くんに打ち明けるのは死ぬほど恥ずかしい。恥ずかしさで死んだ人間がいるのかはわからないけど私がその最初の一人になってしまう恐れもある。まだ祖父に会いに行くのは早いし、と言うか死ななくたって海里くんには言えそうにないし!
「俺がしようと思ってたことと、のどかさんの夢が同じだったら嬉しいんだけどな」
 海里くんはにこにこと笑みながら、まるで探るような視線を私に向けてくる。
 私は頬を膨らませて応じた。
「絶対言うものか!」
「教えてよ、のどかさん。じゃあせめて、のどかさんが嫌だったかどうかだけでも」
「嫌かどうかじゃなくてだね、交際一ヶ月の間柄でいきなりあれはいかがなものかと!」
「あ、嫌じゃなかったんだ。わかった、覚えとくよ」
 何も言わないうちから納得してみせた海里くんが、その後で笑い声を立てる。
「だってのどかさん、顔緩んでんじゃん。怒ってみせようとしても駄目だよ」
 予知夢というやつは時に不便なもので、これから起こることを正確に当ててくれるから困る。
 駅に着いたら何が起きるかわかっているというのに、平常心を持って立ち向かえるだろうか。と言うか何かこう、予知夢が本当になっちゃうのかななんて期待と言うか、身構えてしまうではないか。それはもう顔だって緩む。

 それにしても海里くんは、日を追うごとに祖父みたいな頭の使い方をするようになってきた気がする。
 もし祖父がエスパーか天狗かそういった存在だったとしたら、その不思議な力を私が、そして叡智の方を海里くんが受け継いだのかもしれない。それだって当て推量でしかないけど、何となくそんなふうに思う。
「次はいつ来る? 年末? それとも十月の連休?」
 駅までの道を歩きながら、海里くんは何だか上機嫌だ。昨日の出来事はもう不安でもないのか、すっきりした表情でいる。
 私も彼の楽観主義を見習って、あれこれ考えるのはやめとこうと思う。
「言っとくけど、浮気とかしたら夢でばれちゃうかもしれないんだからね!」
「するわけないじゃん。せっかくのどかさんと付き合えてるのにさ」
 海里くんはきっぱり言い切ると、祖父とよく似たアーモンド形の瞳を細めた。
「俺ものどかさんの夢が見たいな。次は夢に出てくる能力を身に着けてよ」
 そんな力がもしあったら、真っ先に祖父が夢枕に立ってそうな気がするから、やっぱりないんじゃないかな。
 でもまあ、この先何が起こるかわからない。いつかそういう力が本当に備わるかもしれないから、その時に備えて会えない間も常にこの美貌を維持しておこう。
 私だって、海里くんに釣り合う彼女でありたいしね。
top