誘う楽観主義者(2)
一ヶ月ぶりだというのに、田舎町の無人駅は既に懐かしい感じがした。ただでさえ秋の大型連休初日、電車の混みようは半端なく特急ではずっと立ちっ放しだった。途中で乗り換えた一両編成の電車はローカル線らしい各駅停車で、もっと急げるであろうところをやたらのんびり走るので乗っているだけでくたびれた。
荷物を引っ提げてよろよろと改札を抜ければ、構内で待ち構えていた海里くんがこちらに向かって大きく手を振ってきた。
「のどかさーんっ!」
その笑顔を見ただけで、旅の疲れがたちどころに消えてしまうから不思議なものだ。私は顔を引き締めようとしたけど上手くいかず、にやにやしながら彼の傍まで歩いていく。
「久し振り。元気そうだね、海里くん」
「毎日見てるんだから、元気なのはよく知ってるだろ」
そう言って、海里くんは私の手から旅行鞄をもぎ取った。
今日の彼は白い襟付きシャツに細身のカーゴパンツという、思ったよりもこぎれいな服装をしていた。夏休みの間は見るからにサイズの合っていないタンクトップや謎のロゴ入りTシャツなんぞを着ていたから、まずその格好に驚いた。やたらとめかし込んで、まるでちょっといいレストランにでも行くみたいではないか。
「どしたの、その服。つか、そんなん持ってたの?」
ついずけずけと尋ねた私に、海里くんはどこか悔しそうな苦笑いを返してくる。
「何つうか、意識改革? のどかさんと会うのに、いつまでもガキっぽい格好じゃ釣り合わないだろうし」
「へえ……」
私は呆然としながら、目の前に立つ一ヶ月ぶりの従弟殿を改めて眺めた。
先月、この駅で別れて以来の直に見る海里くんだ。たった一ヶ月で何が変わるものかと思っていたけど、確かに少し変わっていた。生前の祖父に似た顔立ちにはまだあどけなさが残っていたけど、そこに浮かぶ表情には自信のようなものが覗き、少し男らしくなったように見える。身長は昨年の段階で既に抜かれていたけど、今の顔で見下ろされると年齢のアドバンテージさえ見失いそうになる。
「のどかさんも元気そうでよかった。やつれてたらどうしようかと思った」
海里くんもまた、私の姿を眺めてから胸を撫で下ろす。
「まあね。何だかんだ、悪い夢は見てないしね」
これで悪夢が続くというならやつれていてもおかしくないんだろうけど、普通なら覗くことのできない海里くんの日常を垣間見られるのは案外楽しいもので、寝る時に今日はどんな夢かななんて楽しみになったりもするのだった。とは言え悪夢については一度だけ前例があるから不安がないわけでもなく、解決できるものならしたいというのが本音だ。
「ぼちぼち行こうよ、家でうちの親も待ってるし」
海里くんに促され、私は人のいない駅を後にした。
外はもう夕暮れ時で、頭上には秋らしい鮮やかな夕空が広がっていた。まだひぐらしが鳴いている田舎道を歩いていると、嫌でもあの日の悪夢を思い出してしまう。
今回の夢にはいったいどんな意味があるんだろう。まるで誘導でもするみたいに結末は――箱の中身は見せてくれなかったけど、あの箱には何が入っているんだろうか。
「海里くんは、どう思う?」
彼の家までの道すがら、私は彼に尋ねた。
私の旅行鞄を軽々と担ぐ海里くんが、アーモンド形の目を細めて答える。
「もちろん嬉しいよ。こんなに早くのどかさんと会えると思ってなかったからさ」
「そうじゃなくて。夢の話だよ夢の」
「のどかさんは俺に会えて嬉しくないの?」
畳みかけるように聞き返してきた海里くんは、そんなはずはないと言いたげの顔をしていた。
まあ実際、お察しの通りなんですけども。
「嬉しいけど。会えるにしても、こんな形になるってのは予想外だったよ」
どうせだったらもっと違う形で会いたかった、とは思う。こんなふうに何かのついでじゃなくて。
もっとも、海里くんはあんまり気にしていないみたいだ。私の隣を歩きながら上機嫌でにこにこしている。
「のどかさんの予知夢がじいちゃんの仕業なんだったら、じいちゃんが早く会えるようにって気を利かせてくれたのかもしれない」
随分と暢気と言うか楽天的なことを言うから、私はぎょっとして危うく呼吸を乱しかけた。
「……でも海里くんはそうは思わないんでしょ? 私自身の力だろうって言ってたじゃん」
苦し紛れに指摘すると、海里くんは一点の曇りもない笑顔で応じた。
「だったら、のどかさんが俺に会いたくてそういう夢を見たってことかもな」
それが事実なら私の予知夢も全く思わせぶりで迷惑なものだ。
とは言え海里くんが楽天的なことばかり口にするのも、きっと私を気遣ってのことなんだとわかっている。
一ヶ月ぶりに歩く田舎の道は相変わらず人通りが少なく、草いきれを孕んだ温い風が吹いていた。前にザリガニ釣りをした川を越え、夕方は混み合う商店街を迂回して、海里くんの家がある古い住宅街へと向かう。懐かしい彼の家が近づいてくるにつれ、次第に緊張が高まってくるのが自分でもわかった。
今回の来訪の理由について、伯父さん伯母さんに正直なところは言えない。
向こうだって夢に見たからなんて言われても困惑するだろうし、私もまだ上手く説明できる気がしていなかった。
それで海里くんには『適当に言っといて』とお願いしていたんだけど、一体どういう言い方をしたのか、私を出迎えてくれた伯母さんは海里くんに負けず劣らず上機嫌だった。
「あらあらのんちゃん、よく来てくれたわね。伯母さん今夜はごちそう作っちゃうから、是非のんびりしてってね」
「あ、ありがとうございます……」
気圧されつつお礼を言った私は、説明を求めようと海里くんに視線を向ける。
すると海里くんはにこにこしながら、なぜか意味ありげに目を逸らした。
「のんちゃん、海里のことよろしくね。まだまだ頼りない子だけど、のんちゃんになら安心して任せられるわ。海里は小さな頃からのんちゃん、のんちゃんって後をついて回ってばかりだったもの。何だか感慨深いわあ……!」
伯母さんが目をきらきらさせて語り、しまいにはしみじみと感慨に浸り始めたので、こっちは恥ずかしくてしょうがなかった。海里くんには後程詳しい説明もしくは弁明を求めようと思う。
しかしひとまずは例のものだ。
伯母さんがごちそうを作るべく台所に立ったタイミングで、私は仏壇に線香を上げたいと申し出、海里くんと共に仏間へ向かった。
「さすがにちょっと、緊張する」
仏間の戸の前で、海里くんが小声で囁いてきた。
私も合わせて声を落とす。
「そうだね……箱の中身、何だと思う?」
「全然わかんない。開けたらじいちゃんの写真とかだったらむかつくな」
「あーありそう。一張羅でめっちゃ決めてるおじいちゃんの写真とかね」
「遺影だってあれだもんな。友達がうちに来て見てく度に笑うんだよ」
仏壇に上がっている祖父の遺影は素晴らしくいい笑顔である。三つ揃えを着込み山高帽を被って不敵な笑みを浮かべている。もちろんその笑みはカメラに向けたものなのだろうけど、私や海里くんをはじめとする子孫一同に向けて笑んでいるのではないかと時々思えてならない。
仏間に立ち入った我々はその遺影に目をやり、祖父の笑顔を一瞥してから仏壇の前に膝をつく。夢で見た通り、仏壇の下にある引き出しには海里くんが先に手を伸ばした。彼は祖父とは対照的に厳粛な面持ちで、しかしためらわずに引き出しを開けた。
引き出しの中には――夢で見た通りだ。古びて黄ばんだ紙の箱が収められていた。この箱に合わせて引き出しを誂えたみたいに薄く平べったい形をしていて、海里くんがそれを引き出しから取り出した時、線香の匂いに混じって古い紙の匂いがした。
「開けるよ、のどかさん」
海里くんが私を見た。アーモンド形の瞳に、今は真剣な光が灯っていた。
私が目で頷くと、彼はうって変わって慎重な手つきで箱の蓋を開ける。
夢はここで終わってしまっていたけど、現実はもちろん終わらなかった。私と海里くんは箱の中身を見た。
中にしまわれていたのは青々とした艶のある、手のひらの形によく似た、扇みたいに大きな葉っぱだった。
「……何だ、これ。葉っぱ?」
海里くんが戸惑った声を上げる。
「ヤツデの葉だよ」
私は言った。
「ヤツデ? これってそういう名前なのか」
「『天狗の葉団扇』とも言うね」
説明を添えながら、私は箱の中のヤツデの葉をじっと見つめた。いや、目を逸らせなかったという方が正しいかもしれない。
この箱はずっと引き出しの中にしまわれていて、箱自体は古びて黄ばんでいるというのに、この葉っぱはまるでもぎ立てみたいに青々としている。表面には艶もあり、枯れたり傷んだりしている様子は窺えない。そして葉柄の部分には持ちやすくするみたいに赤い布がぐるぐる巻きつけられており、まさに団扇のような形をしていた。
「天狗の、団扇? 何でそんなもんがここに……」
海里くんの言葉は途中で立ち消えた。何か、急にひらめいたことでもあったようだった。
私もそうだ。どうして私が予知夢を見るのか、その理由に行き着いたことはこれまでなかった。祖父のせいとするにも超能力とするにも根拠は乏しく、行ってしまえば他に思いつく理由もないからそう言ってきたまでだった。
だけど、もし――。
「おじいちゃんが、天狗だったとか?」
およそ突拍子もない推論だと、自分でも思う。
でも口にしてしまうと、それが事実であればすんなりと納得のいく点がいくつもあった。どこか風変わりで人を担ぐのが好きだった祖父、その祖父の遺影がある仏壇に隠されていた天狗の葉団扇、そして私が見る日々精度を増していく予知夢――それはもしかすると、
「何だよそれ。じいちゃんが人間じゃなかったって?」
海里くんは笑ったけど、私の懸念を笑い飛ばせるほどの明るさはそこになかった。
「そう、なんじゃないかな。おじいちゃんが天狗で、私もその血を引いてて、だから――」
だから、ああいう夢を見る。
夢のお蔭で、普通では考えられないやり方で海里くんを救うこともできた。
「天狗なんてマジでいるの?」
当然ながら海里くんは懐疑的だった。
「わかんない。でもそれっぽくない? この団扇と、私が見る不思議な夢と、それからうちのおじいちゃん」
「まあ、じいちゃんに関しては人間じゃないって言われても納得できるな」
そう言うと彼は眉根を寄せて私を見つめてくる。
「でものどかさんは、そんなふうには見えないよ」
「私だってそう思うけどさ。傍目には普通の美人女子大生だもんね」
「うん。のどかさんはきれいだ」
冗談のつもりで言ったことを真顔で拾われて、内心焦った。
海里くんはこちらの動揺など知らず、嘘のない口調で続ける。
「だからって言うんじゃないけど、やっぱり根拠は薄いと思うな。むしろ俺は、これもじいちゃんの悪戯なんじゃないかって気がする」
「私達がこれを発見することを見越して、生前に仕込んどいたって言うの?」
まさか。いくらあの祖父とは言えそこまで手の込んだ悪戯をするだろうか。この引き出しだって私が夢に見るまでは、ここに住んでいる海里くんさえ気づかなかったというのに、そこにヤツデの葉っぱを隠しておいて誰かをびっくりさせようなんて、そっちの方が途方もない。
それにその仮説が本当だとしたら、祖父は結末を見届けないままこの世を去ったことになる。
「だとしたら、かわいそう。せっかくの悪戯を今の今まで誰にも気づかれなかったなんて」
私が溜息をつくと、海里くんが一瞬顔を顰めた。
その後で少し呆れたような笑みを浮かべた。
「じいちゃんのことだし、草葉の陰からのどかさんのこと見てると思うよ。今も『しめしめ引っかかった』って喜んでんじゃない?」
それこそ、まさか。私は恐る恐る仏壇に上げられた祖父の遺影を横目で窺う。
祖父はいい顔で笑っている。特に何も言ってはこなかったけど、確かに悪戯に引っかかった孫を愉快そうに見ているようでもあった。
「のどかさんが不安になる気持ちもわかるけどさ。俺はどんな理由でものどかさんが俺の夢見てくれるってだけで嬉しいし、その為の能力だって思っとけばいいよ」
そこまで言うと海里くんは照れたように口元を緩ませた。
「案外と、遠距離恋愛用の超能力が身に着いたってだけかもしれないよ」
確かにこの予知夢は、遠距離恋愛をする全ての女の子にとって割と便利な能力かもしれない。遠方の彼の日常生活を垣間見て安心もできるだろうし、万が一の時には浮気だって見抜ける。私としてもそういう結論の方がロマンチックだよな、とは思う。
ただそう思うには、このヤツデの葉団扇はあまりにも存在感がありすぎる。
「じゃあこの団扇は? やっぱりおじいちゃんの悪戯?」
私が問い返すと、海里くんはひょいと首を竦めた。
「やりそうな人、他にいないしな。つくづく質の悪い悪戯するよな、じいちゃんも」
その直後、彼の手が葉団扇へ伸び、葉柄に巻かれた布の部分を指で掴むように持ち上げた。
もちろん慌てて止めた。
「ちょっと待った海里くん! それ触んない方がいいと思う!」
「……何で?」
怪訝そうな海里くんに、私は声を潜めて説明する。
「だって天狗の葉団扇だよ? 昔話によれば一扇ぎしたら風がびゅうって吹く奴だから!」
「え……、マジで信じてんの、のどかさん」
「わかんないじゃん! もし本物だったら海里くん家吹っ飛んじゃうよ!」
「いや、ないでしょ……まさか本気で言ってる?」
「もちろんだよ! 何が起きるかわかんないんだから迂闊に触るのまずいよ!」
外れたことのない予知夢を見続けてきたからわかる。
常識だけで判断しちゃいけない。何が起こるか、本当にわからない。
「のどかさんがそう言うなら……」
海里くんは釈然としない様子だったけど、葉団扇を箱に戻す時は丁寧に、慎重な手つきで戻していた。そのまま蓋を閉め、引き出しの中へと戻す。
「これ、見なかったふりしとく?」
「それしかないでしょ。何かあったらまた夢に見るよ、きっと」
そう答えつつ、すっかり予知夢に頼る気でいる自分に気づいて複雑な気持ちになった。
夢に従えば何かわかるんじゃないかと思ったのに、かえって混乱しただけだった。一体どういうことなんだろう。もやもやしたまま仏壇に線香を上げ、手を合わせた。
写真の中のおじいちゃんは、相変わらず不敵に笑んでいた。
そんなわけでせっかくの再訪初日は特に収穫もなく、もやもやした気持ちも伯母さんが腕を振るったごちそうの数々ですっかり吹っ飛んでしまった。また海里くんが『適当に言っといて』くれたお蔭で伯父さんも伯母さんもえらい歓待ぶりで、こっちが恥ずかしくなるほどだった。
とは言えそれが楽しくもあったし、久々に顔を合わせた海里くんとは積もる話もあったりして、その晩は仏壇の隠しアイテムのことは忘れ、大騒ぎして過ごしたんだけど――。
自分で口にした通り、海里くんの家に泊まったその日の晩も夢を見た。
私と海里くんはあのヤツデの葉っぱが入った箱を手に、山の急な斜面に積まれた長い石段を上っていた。
石段を上がり切った先にあるのは立派な鳥居と小さな神社だ。そこを選んだのは『あそこなら、ちょっとやそっとの風じゃ吹き飛ばないよ』と海里くんが言ったからだった。そう、私達はあのヤツデの葉団扇を試すつもりでいた。
神社の境内には人影一つなく、私達二人きりだった。空の澄んだ秋晴れの日で、日中はまだ風一つなかった。海里くんは箱の蓋を開け、中から葉団扇を取り出すと、私に手渡してくれた。
そして私はその葉団扇を――。
そこで、目が覚めた。
「何でまた中途半端なところで……」
瞼を開けて、自宅とは違う天井を目にした瞬間、私は思わずぼやいてしまう。
一昨日、昨日と随分尻切れトンボな夢ばかり見る。まるで本当に、予知夢に誘導されているみたいだ。それに従うのが正しいのかどうかはわからないけど、起きてきた海里くんも私がどんな夢を見たかを知りたがるだろうし、そうなったら夢の通りにすることになるだろう。
困ったな。『エスパー美女のどかさん』は様になるけど『天狗の美女のどかさん』はしっくりこないや。