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誘う楽観主義者(1)

 田舎町での避暑生活から帰ってきて、一ヶ月が過ぎた。
 家のエアコンも無事直り、私はようやく平穏で快適な日々を手に入れた――かに見えた。
 だけど家へ戻ってきても変わらないことが一つあった。もう九月に入り、大学の夏休みが終わろうとしている今になっても、私は相変わらず毎日のように夢を見ている。もちろん予知夢だ。しかも日を追うごとにその精度が増しつつあるから、近頃の私はそのことで頭がいっぱいになってしまっていた。

『もしもし、のどかさん? 今大丈夫?』
 こっちへ帰ってきてからというもの、海里くんは毎日のように電話をくれる。
 高校生の彼はもう夏休みも終わってしまっていて、この暑い中を頑張って学校へ通っているらしい。だから電話も必然的に夕方以降、放課後帰宅してからになる。私もその時間になると自分の部屋へ入り、彼からの電話に備えるようになっていた。
「大丈夫。部屋でごろごろしてる」
 言葉通りベッドの上でごろごろしながら電話を受けた私は、そのまま目をつむった。昨夜の夢の記憶を手繰り寄せながら従弟に告げる。
「海里くん、今日は部活あった?」
 彼が高校のサッカー部に所属していることは以前から知っていた。ただ彼のユニフォーム姿はもちろん、ボールを追い駆ける姿さえ私はまだ直に見たことがない。
『あったよ、だからこの時間になった』
 海里くんが明るく答える。
 それで私は短く息をつき、更に尋ねる。
「リフティング練習の時にさ、コーチっぽい人に誉められたでしょ? あの襟足長い人」
『そうそう。つか、あれがうちの顧問だよ』
 なぜか海里くんはとても楽しそうだ。声を立てて笑っている。
『じゃあさ、紅白戦の時に俺がどっち側だったか当てられる?』
「白でしょ。ゼッケンは黄色かったけど」
 見たことがないはずの彼のユニフォーム姿が私の脳内に焼きついている。ボールを追い駆ける後ろ姿、走る度に揺れる髪、シュートの時の真剣な横顔――全てが間近で観戦していたみたいに記憶の中に残っている。
『すげえ! 完璧に当たってる!』
 げらげら笑う従弟殿をよそに、私の胸中は何とも複雑だった。
 まさかこの予知夢が今もって続くとは思ってもみなかったからだ。

 先月、田舎町にある海里くんの家に泊まった数日間、私は奇妙な予知夢を見た。
 それは主に甘いお菓子の夢で、夢を見せているのは無類の甘党であった祖父だろうと推測していたものの、なぜそんな夢を見るのか、祖父は私に何を伝えたいのかという点はなかなかわからなかった。
 だけど最後の最後で私は、交通事故に遭った――遭いかけた海里くんを、予知夢のお蔭で救うことができた。
 普通の物語ならここでめでたしめでたし、謎の予知夢もきれいさっぱりなくなって、美しき女子大生こと私の夏休みには平穏が戻ってきていいはずだ。
 しかしながら私に備わった予知能力はなくなるどころかますますパワーアップしており、しかも近頃ではこの従弟殿の夢ばかり見るようになっているのである。夢の内容はサッカー部で活躍する姿とか、教室でクラスメイトとはしゃぎすぎて先生に叱られてる様子とか、はたまた学校帰りにこっそり買い食いしているところとか――至って他愛ないものばかりだ。そこに以前のようなメッセージ性が潜んでいるというふうでもなく、何を伝えんとしているのかはまるで読み取れなかった。
 恐らくこれも、甘党でいたずら好きだった祖父の仕業なのだろうと思う。だけどおじいちゃんももうちょいわかりやすいメッセージをくれればいいものを、一体何が言いたいのかさっぱりだ。海里くんの学校生活なんて見せられたって、そりゃサッカーやってる姿は身内ながらなかなか格好よかったし、私には生意気な従弟だけど学校ではこんな感じなんだなあとか、また甘いもんばっか食べてるよしょうがねえなとか思ったりはするけど、それで心が和むことこそあれ、彼の身辺に起こり得るトラブルを事前に察知できそうな気配は目下ない。
 でもそういう夢を見るということは、やっぱりまだ何かあるんじゃないか。そう考えるのも至極当然のことだろう。
 またおじいちゃんが私に、海里くんの危機を伝えようとしてるんじゃないかって。

『そうかな。考えすぎだと思うよ、のどかさん』
 海里くんは私が懸念を示す度に、明るく笑い飛ばそうとする。
 毎日の電話は予知夢の答え合わせの為だった。私が見た夢が本当だったか、海里くんに尋ねる為にこうして話をしている。もちろんそれだけが目的だと言うと温厚な海里くんも怒るだろうし、私もそのつもりはない。
『そもそもじいちゃんの力かどうかだってわかんないだろ。俺はのどかさんの力だと思ってるし』
 あの交通事故の日以前から、海里くんは『予知夢はおじいちゃんの仕業だ』とする私の仮説に懐疑的だった。私にも確証があるわけでなし、単にうちの祖父ならやりそうなことだったという点と、甘い物好きだった祖父はおやつの夢を見せてくれそうだという点だけでそう思っていただけだから、信じてもらえないのも致し方ないことではある。
 ただ、もしこの予知夢が祖父の力でないとすればもっとややこしいことになる。
「だったら私がエスパーってことになっちゃうじゃん」
 私はベッドの上で寝返りを打ちながら、遠く離れた電話の向こうへ反論する。
「しかも世界の行く末とかじゃなく、海里くんたった一人を予知するエスパーなんてさあ……」
『何それ。俺の夢じゃ不満?』
 海里くんはそこでまた笑う。吐息が受話口からかすめるように響いて聞こえた。
「いや不満とかじゃないけどさ。仮にエスパーになったんだったら、ちょっともったいないじゃん」
『もったいないって何が?』
「やっぱどうせなら世界の危機とか救ってみたいっつか、エスパーっぽい活躍がしたい」
『……そういうとこはのどかさん、子供だよなあ』
 三つも年下の男子高校生に溜息をつかれた。なかなかの屈辱だった。
 でも、思って当然じゃないだろうか。遠方に住む従弟の夢ばかり見ては、さながらビデオレターを送られたような温かい気持ちになるのも悪くはないけど、せっかく得たかもしれない超能力を言わば私欲の為だけに浪費しているというのはあまりにも無駄だ。無意味だ。私のこの力がもしかしたら他の誰かの役に立てるかもしれないのに、何だって私は海里くんの夢ばかり見ているのか。
『俺はのどかさんが俺の夢を見てくれて、嬉しいけどな』
 不意に、海里くんが声を落とした。
 海里くんこそいつまでも子供かと思いきや、急に大人みたいな声でそんなことを言い出す。私は見えもしないのにわざとらしく顔を顰めながら携帯電話を持ち直した。その間に彼が語を継いだ。
『そうだ、のどかさん。紅白戦で俺がシュート打ったの見てくれた?』
「うん、夢でね。ボレーシュートだっけ? 結構格好よかったよ」
『マジ!? 俺ものどかさんが見てくれるかと思って張り切ったから、すっげえ嬉しい!』
「はは……それも変な話だけどね」
 今ではせっかくの予知能力も本当にビデオレター代わりだ。海里くんは私に見られるかもしれないことを前提として日々頑張ってくれているようだし、私も何だかんだで従弟の溌剌とした学校生活を垣間見られるのは楽しい。だからこの能力が未だ続いていることに不満があるというほどではないんだけど――。
 何となくもやっとするのは、不安があるからかもしれない。
 いつかまたあの時みたいな夢を見るんじゃないかって思いが拭いきれなくて、おじいちゃんのせいにしてみたくなる。私が本当にエスパーで、この力が目覚めた意味をいつか誰かが教えてくれるんじゃないか、なんて希望を持ちたくもなる。そうじゃないままこんな意味不明の予知夢がずっと続いていって、ある日また海里くんの身に危険が訪れるような夢を見たらと思うと少し怖い。次に何かあったって、前みたいに思い立ってすぐ飛んでいける距離にはもういないんだから、予知夢以外は平凡な女子大生の私に一体何ができるのか。
『そうだ、のどかさん。次の連休にまたこっち来る気ない?』
 海里くんは私の気も知らず、遠方から暢気に無茶を言う。
『今月、連休あるだろ。うちに泊まってっていいからさ』
「あるけど、連休明けたら夏休み終わりだからなあ。いろいろとほら、準備がさ」
『準備って、二ヶ月も夏休みあったのに授業の準備できてないの?』
「うっ……いやほら、いろいろあるの女子大生には! 授業以外にも!」
 痛いところを突かれて一瞬詰まったのを、海里くんは電話越しにも察知したようだ。すかさず畳みかけてくる。
『じゃあそれ、今日からやっとけばいいじゃん。そしたら連休には間に合うよな? 俺、のどかさんに会いたい。あれから一ヶ月になるし、少しは成長したとこ見せたいよ』
 先月駅で別れた時は、『次には会う時はじいちゃんよりいい男になってる』とか何とか言っていたはずだ。海里くんにそれが不可能だとは思っちゃいないけど、たった一ヶ月で何が変わっているだろうかとは思う。
 つか、そう言ったからにはもうちょい溜めてから会おうって言うもんだとばかり。気が早いところはおじいちゃん似かもしれないな、海里くん。
「けど私、海里くんは夢で毎日見てるから。そんなに会ってない気がしないよ」
 私がそう言うと海里くんは苦笑したようだ。声でわかった。
『俺が会いたいって言ってんの。のどかさん、俺の夢には出てきてくんないじゃん』
「私のせい? エスパー美女のどかさんと言えど、何でもできるわけじゃないんだよ」
『わかってる。でも俺は仮に夢で会ったって満足しないな。本物ののどかさんがいい』
 全くこの従弟殿は、こんな口説き文句を一体どこで覚えてくるのか――彼の学校生活は夢で把握しつつあるものの、そんな台詞を学ぶ機会はないように思えたから余計に不思議だった。
 とは言え、彼の住む田舎町までは電車を乗り継いで六時間の距離だ。会いたいからといって気軽に飛んでいけるはずもなく、私は連休の予定を保留にしていた。何となく、毎日夢で見ている海里くんと直に顔を合わせるのはこそばゆい、というのも理由の一つではあった。
 海里くんは残念そうにしていたけど、思ったよりは食い下がってこなかった。
『じゃあそのうち、俺がそっちに遊びに行くよ。のどかさん家に泊めてくれる?』
「いいよ、おいで。こっち都会だから、海里くんびっくりするかもよ」
『びっくりするのはのどかさんの方だよ。間が空けば空くほど、俺は大人になってるだろうから』
 随分自信たっぷりに言い切るものだから、不覚にもどきっとした。

 ともあれ、私はひとまず何の予定もないまま九月の連休前夜を迎えていた。
 そしてその夜、いつになく奇妙な夢を見た。

 私と海里くんは、あの田舎町にある海里くんの家にいた。
 海里くんは厳粛とも言える真剣な顔つきで私と共に仏間へ行き、祖父や祖母の写真が飾ってある仏壇の前に屈み込む。
 ずっと気がつかなかったけど、仏壇の真下には隠されているみたいにひっそりと平べったい引き出しがあった。海里くんはためらいもない手つきでそこを開く。中には黄ばんだ四角い紙箱が収められており、慎重に箱を取り出した後、海里くんは一度私を見てから、今度はゆっくりと箱の蓋を開けた――。
 そこで、はっと目が覚めた。
 仏間に漂う線香の匂いまで覚えているような、怖いくらい鮮明な夢だった。

 起床して私が真っ先にしたことは、やはり夢に見た海里くんに電話をかけることだった。
『ふぁい……あれ、のどかさん? どしたの、こんな朝早くに』
 寝ぼけた声の従弟に、私はやや興奮気味に告げた。
「ねえ海里くん。君ん家のお仏壇に引き出しってある?」
『え、仏壇に引き出しなんてあったっけ……? 』
「夢で見たの。お仏壇の下に引き出しがあって、私と海里くんがそこを開けて、中から箱を見つけて――」
 夢の話をした途端、彼の意識は完璧に覚醒したようだ。次の瞬間にはしゃっきりした声になっていた。
『わかった、見てくるから待ってて』
 そう言った後で海里くんがベッドから下りる音がして、すぐにドアを開ける音、階段を下りていく足音が後に続いた。仏間の襖をしゃっと開けた直後、はっきりと息を呑むのが聞こえた。
『……あるよ、引き出し。前からあったっけ、これ……覚えないな』
 彼の声を聞きながら、私もごくりと喉を鳴らした。
 相変わらず私の予知夢は冴えまくっているようだ。この夢にいったいどんな意味があるのかはわからないけど、何かが起きようとしているのはわかった。この引き出しの中に収められた紙箱には、きっと何かがあるのだろう。
『引き出し、開ける?』
 海里くんが問いかけてきたから、私はすぐに制止した。
「ううん、待って。夢では私と海里くん、二人で開けてたから」
 そう言った時にはもう、覚悟も決まっていた。
 夢の通りにすれば何かある。もしかしたらこの予知夢を見る理由も明らかになるかもしれない――そんな予感が私を衝き動かしていた。
「今日、そっちに行くよ。だから開けずに待っててくれないかな」
『えっ、マジで? のどかさん来てくれんの? やった!』
 海里くんの声が嬉しそうに弾むのを聞きながら、彼とはどんな顔で会えばいいのか、私は早くも頭を悩ませていた。
 いやそれどころじゃないのかもしれないけど。もっと他に考えるべきことがあるのかもしれないけどもだ、今はそっちの問題の方が大きい。何せあの時以来、一ヶ月ぶりなんだから。
 駅での別れの記憶は夢と現実で二回見た。だから尚のこと脳に鮮明に焼きついていて、未だにどぎまぎしてしまう。
『俺、駅まで迎えに行くよ。荷物とかあって大変だろ?』
 楽しそうに浮かれ始めている海里くんは私と会うのに気まずい、なんて気持ちは微塵もないようだ。

 この一ヶ月で彼は、本当に大人になりつつあるのかもしれなかった。
 けど、夢で毎日見てるのにわからないなんて変な話だ。そう考えると私の予知夢も、実は大したことないんだろうか。これで向こうにすっ飛んでいって、箱の中身は空っぽでしたとかだったら恥ずかしいけど、その時はまたおじいちゃんに担がれたのだと思うしかない。
 私は大急ぎで旅支度を整え、先月訪ねたばかりの田舎町を再訪することにした。
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