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31:戻ってきたあいつ

 エアコンの効いた伊瀬の部屋で、私は冷たい麦茶をもらった。
 一口飲んで初めて、ずいぶんと喉が渇いていたことに気づいた。
 外はもう日が暮れ始めている。いろんな出来事が起きた今日も、そろそろ締めくくりの時間が来たようだ。

「これ、やっぱ覚えがないな……」
 伊瀬はと言えば、まだ拾った鍵をいぶかしそうに眺めている。
「なんで同じものが二個あるんだ? しかもひとつは古びてるし」
 その答えを私は知っている。
 でも正直に打ち明けていいものか悩む。未来からやって来たあなたと会いました、一緒にキャンプにも行きました、それで背中を押されてここまで来ました――などと言われて、いくら伊瀬でも信じてくれるとは思えない。
 本当なんだけど。
 鍵が二本あることが何よりの証明だけど、うまく話せそうにないのがもどかしかった。
「まあ、いいか」
 考えても埒が明かないと思ったか、伊瀬はひとまず二本の鍵をテーブルに置いた。
 そして、テーブルを挟んで向かい合わせに座る私を見る。目が合って、彼はすごくうれしそうに笑った。
「お前、ここまで何で来た?」
 その答えはもちろんひとつだけだけど、内心ひやりとする。
 ここまでひとりきりで来たわけじゃなかった。そのことを改めて思い出したからだ。
「電車で。三時間くらいかかったよ」
「かかるよな、お蔭でこの夏は向こう帰る気しねえよ」
 伊瀬は首をすくめた後、壁掛け時計をちらっと見た。
 現在の時刻は五時半を過ぎたところだ。
「帰りは? こっちに部屋取ってるとか?」
 そう聞かれて、何も考えてなかった私は思わず苦笑した。
「あー……えっと、たぶん夜行で帰るよ」
「たぶんって?」
「そういうの全然考えずに来ちゃったんだ」
 それから私はここまで持ってきた自分のリュックサックを振り返る。
 キャンプ帰りの荷物はそれなりに多めで、これだけ見たらそれこそ旅行に来たようだ。一旦家に帰る余裕もなかったし、そういう気分でもなかった。着替えくらいはしてくればよかった、そんな思いもなくはないけど、思いつかないくらいに必死だった。
 ただ伊瀬に会いたくてここまで来た。
 おとといから――ううん、ずっと前から。
「昨日なんて友達とキャンプだったの。今朝帰ってきて、それからこっち来たから」
「なんだそれ、ずいぶん強行軍だな」
 伊瀬はおかしそうに吹き出した後、からかいのトーンで言った。
「そこまでして俺に会いたかったのかよ」
「そうだよ」
 もちろん、即答した。
 素直に答えただけなのに、聞いた伊瀬のほうがうろたえていた。
「マジかよ」
「そう言ったよ」
 私は笑わず、伊瀬の目をじっと見つめる。
 彼の目も泳いだのは一瞬だけで、すぐに私を見つめ返してきた。
 真剣な眼差しが懐かしくもあり、ほんの数時間前の記憶と重なって切なくもある。
 それでも私は前に進もうと、言葉を続けた。
「私は、伊瀬が好き」
 同じ言葉を同じ人に、もう一度告げた。
 伊瀬は驚いたんだろうか、わずかに唇が開いた。だけど何も語らず、私にさらに続きを言わせてくれた。
「私は伊瀬が好きだよ」
 もう一度。
 あの時語った本心は何度だって繰り返せた。だって、ずっと思っていたことだったから。忘れたことなんてなかったから。
「高校時代からずっと好きだった。一緒にいたいって思ってたし、本当に一緒にいられた間はすごく楽しくて、うれしかった。卒業式の日にさえ言えなかったけど、今でも遅くないよね?」
 そう尋ねたら、伊瀬は柄にもなく頬を赤らめた。
「遅くなんか……」
 わかってる。今なら遅くない。
 でも、この先はどうかわからない。

 私たちには今しかなかった。
 未来の話なんて誰にもわからなくて、こうして未来を変えてしまった以上、これからのことは私自身で確かめていくしかない。
 だけどそこで何が起きたとしても、伊瀬が不幸じゃなければいい。
 私が伊瀬の傍にいて、彼を幸せにできるならそれだけでいい。

 伊瀬が短く息をつく。
 そして意を決した様子で口を開いた。
「俺も好きだよ、キク」
 答えは少し、前に聞いていたのと違ったかもしれない。
「ずっと言えなかったのは俺も同じだ。卒業したらこっち来るって決まってたし、遠距離とかって難しそうで、それでこじれるのも嫌だなって思ったら言えなかった。そのくらいなら友達続けてるほうが縁切れないしいいかなって……」
「そんなこと考えてたの?」
 彼の本音に今度は私が吹き出した。
 笑われたからか、伊瀬は居心地悪そうにむくれた。
「いいよ、わかってる。俺へたれだ」
 うん、知ってる。
 そういうところも含めて、私は伊瀬が好き。
「でも、好きなんだ。お前がいきなり現れて、すっげえうれしかった」
 しみじみと、伊瀬は目を伏せる。
 その表情も、三年後の顔と本当によく似ていた。まるでこの一瞬だけ、彼がここに戻ってきたようにさえ感じた。
「お前からメール来て、無性に会いたいなって思ってさ。そしたら目の前にいたんだから、どうしていいのかわかんなかったよ。今年は帰らないって決めてたから、余計に会えると思ってなかったし」
 伊瀬は少しホームシックなのかもしれない。
 帰らないと決めたのも、一度帰ったらこっちに戻れなくなりそうだって恐れているからだろうか。なんとなく、そんなふうに思う。
 会いに来てよかった、とも思う。
「遠距離でも平気なくらい連絡するよ」
 だから、私は彼に言う。
「これからはメールもするし電話もかける。手紙なんて回りくどいことはしないで、いっぱいいろんな話するし伊瀬の話も聞くよ。もちろん、会いにだって来るからね」
 伊瀬に寂しい思いも、つらい思いもさせない。
 何より私がそうしたいから、連絡するし会いに来る。
 遠距離なんて障害にもならない。ちょっと遠くにいるだけで、もう会えないわけじゃないんだから。
「キク……」
 伊瀬は、込み上げてくる照れ笑いをどうにか噛み殺そうとしていたようだ。残念ながらそれはうまくいかず、すっかりゆるみきった表情で言った。
「俺だって連絡する。お前がいつ来てもいいように部屋きれいにしとくから、いつでも来いよ。いっぱい会えるほうが俺だってうれしいし」
「うん」
 私はうなづく。
 言いたいことは全部言えた。ひとつだけ秘密にしていることはあるけど――それはいつか、決心がついたら言おう。信じてもらえないかもしれないし、話したことでまた未来が変わったりしても嫌だから。
 言いたいことは言った。
 あとは――。
「なんか……今さら照れるな」
 伊瀬は、言葉どおりはにかんでいる。
「こういうの想像はしてたけど、現実になると反応に困るよな。えっと……」
 どこかそわそわした様子の彼は、22歳の彼とはやっぱり違っていた。落ち着きがないところも、手が早くないところも。
 でも私もこういうのは初めてだからちょうどいい。
 そう思って、腰を浮かせた私はそのままテーブル越しに身を乗り出した。そして、はっとしたようにこちらを見上げる伊瀬の唇にキスをする。
 一瞬、触れるか触れないかくらいだった。
 それだけで伊瀬はたちまち真っ赤になって、ひどく困った様子で私を見やる。
「ふ、不意打ちとか……ずるいだろキク!」
「ごめん」
 慣れないことをした私も、今さら照れながら謝った。
 好きな人とキスできるっていうのも幸せなことだ。それが叶った今、もう他に望むことなんてないくらいだったけど――誰よりも報告したい相手がここにいないことだけは、やっぱり寂しく思う。

 私が変えた未来で、どうか彼も幸せでありますように。
 私がこれから先もずっと、彼を幸せにできますように。
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