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30:あいつのいなくなったこの場所で

 私は、目の前の現実を受け止めようとしていた。
 22歳の伊瀬はもういない。
 未来に無事に帰れたのか、それとも。
 いや、よくない可能性は考えないようにする。でも彼がいないことは確かだ。たぶん、もう会えないんだろう。
 できることなら知りたかった。私たちが変えた未来で彼はどうなるのか。私の選択が彼を幸せにできるのかどうか。叶うなら、一緒に幸せになってほしかった。
 だけど、未来を知ることはできない。
 本来なら誰だってそうだ。私は伊瀬によって未来を知ってしまったけど、私の手によって変えた未来で何が起きるのかは知らない。本当に変わるのか、すらわからない。
 それでも――だからこそ、私は前に進むしかなかった。
 22歳の、大人になった伊瀬はもういないけど、きっと未来にはいるだろう。
 彼を笑顔にできるかどうかは、私にかかっている。

「急に来てごめんね」
 私は、目の前に立つ19歳の伊瀬にそう詫びた。
「どうしても伊瀬に会いたくて、ここまで来たの」
「そ、そっか」
 伊瀬は少しうろたえたようだ。声がうわずったのでわかった。
 やっぱりアポなしでの突撃はまずかっただろうか、びっくりさせてしまったらしい。当たり前か。電車で三時間以上の距離を『会いたいから』という理由で飛んでくるなんて、よっぽどのことだと思うだろう。
「一応メールと電話はしたんだけど……」
 言い訳みたいに付け加えると、彼は自分の携帯電話を見る。
「ああ、来てたけど。でもメールくれたのってついさっきだろ?」
「え? 違うよ、おとといの夜だよ」
 22歳の伊瀬と初めて出会った日、19歳の伊瀬がどうしているかが気になって、メールもしたし電話もかけた。返事はもらえなかったけど。
 今日はメールをしていない。電話もかけてない。
「いや、さっき鳴ったばっかだよ」
 伊瀬はそう言った後、よくよく画面を見直してからあっと声を上げた。
「送信日時はおとといになってんな……おかしいな、届いたの今日のはずなんだけど」
「気づかなかったとか、忘れてたとかじゃなくて?」
「さすがに一日あれば気づくよ」
 送ったはずのメールが二日も遅れて届く。
 電波が悪いならありえないことでもないだろうけど、でも私は、それも伊瀬がいたからじゃないかと考えた。

 22歳の伊瀬も電話番号やメールアドレスは変わってなかった。
 つまり同じ番号、同じメアドの電話が二台あったことで、どちらに送ればいいか混乱した、とか――ただの想像だけど、そんなふうに思った。
 未来から人がやってくるなんて大層な事件だ。電波が混乱したって仕方ない。

「それに、お前からメールもらっといて忘れるとかねえし……」
 伊瀬はどことなく気まずげに続けた。
「手紙の返事もまだだったよな。悪かった、遅くなって」
「ううん、それは気にしないで」
 返事をもらえないことは聞いていた。
 でもそれだって、今日から変わる未来かもしれない。
「私のほうこそ、手紙なんかにしてごめんね。もっと前から、メールにしとけば手軽だったのにね」
「いや、まあ、どっちでもよかったけど」
 もごもごと答えた伊瀬が、そこで肩を落とす。
「お互い、卒業してからすっかり連絡しなくなってたよな」
 次の言葉はひどく寂しそうに響いた。
 私も同じ思いでうなづく。
「私ね、怖かったんだ。伊瀬に連絡するのが」
 彼は勢いよく面を上げ、目を見開いて私の話を聞いていた。
「こっちでの生活が楽しくて私のことを忘れちゃったんじゃないかとか、高校時代の友達から連絡もらったって迷惑かなとか、そういうふうに考えてしり込みしてた。もう関係が切れたって実感するのが嫌で、それで手紙なんて我ながら回りくどいことしたの」
 返事が欲しいなら、もっと手っ取り早い方法があったのに。
「馬鹿、切れてなんかないだろ」
 伊瀬は早口になって反論してくる。
「忘れるとか迷惑とかもねえし。言っとくけどな、お前のこと忘れた日なんて一日もないから」
 知ってる。
 19歳の伊瀬はその言葉を口にした後、きまり悪そうに視線を逸らした。
 でも私は知っていた。そして私も同じように思っていた。
「私だってそうだよ」
 忘れたことなんてなかった。
 毎日のように伊瀬のことを、どうしてるかな、元気かなって考えてた。
「だから会いに来たんだよ、伊瀬」
 私は、胸を張ってそう告げた。
 その瞬間、伊瀬が息を呑むのがわかった。
「キク……」

 話したいことがたくさんあった。
 私が向こうでどんなふうに、伊瀬のいない日々を過ごしてきたか。高校時代は当たり前に一緒にいられた毎日が、今になってどれほど貴重だと気づいたか。それでもあの頃の思い出だって本当に大切で、それが私をここまで連れてきてくれたということも。
 そして――これは話そうか迷う。
 未来の、大人になった伊瀬に会ったこと。
 彼が臆病者だった私の背中を押してくれたんだってこと、正直に話したら、伊瀬は信じてくれるだろうか。
 残念ながら会わせることはできなかったけど。彼はもういなくなってしまったようだから。

 ただ、一番話したいことは変わらない。
 私は伊瀬のことが――。
「あ!」
 だけどその前にひとつ思い出したことがあって、
「言い忘れてた! 伊瀬の部屋、鍵開けっぱなしなの」
 彼の部屋を飛び出してきて、そのままにしてたことを思い出した。
「え、なんで? 鍵閉めてっただろ?」
 当然、伊瀬はうろたえた様子だ。
 たしかに鍵は閉まってた。でも伊瀬が――22歳の伊瀬が自分の鍵でドアを開けてくれた。だから私は中にも入れた。
 でもそれをここで説明すると話がややこしくなるだろうから、とりあえ要点だけ伝えておく。
「ううん、その、開いてたの。ドアノブ回ったし」
「マジか……ちょっと見てくるわ、お前も来てくれ」
 伊瀬はそう言うと、アパートに向かって走りだした。
 後を追えば、彼はバスケ部時代を思わせる脚力で階段を駆け上がっていく。追う私が息を切らしながら外階段を上がり切った時、伊瀬は203号室のドアを開け、玄関の三和土で屈み込んでいた。
「大丈夫だった?」
 しらじらしい問いだと自覚しつつも尋ねると、伊瀬はゆっくりこちらを向いた。どうも釈然としない顔をしている。
「なんか、鍵落ちてた」
 そう言って彼が掲げたのは、見覚えがあるバスケットボールのキーホルダーがついた鍵だった。
 未来の伊瀬が落としていったもの、だろうか。私も彼が消えた時、玄関にそれが落ちたのを見たような気がする。
「俺の鍵とキーホルダーまで一緒なんだけど」
 伊瀬は自分のポケットから鍵を取り出した。
 手のひらの上で二本並べて比べると、鍵の形状はもちろん、キーホルダーの形や色までそっくりそのままだった。もちろん片方は少し古びていて、鍵に細かな傷があったり、キーホルダーの塗装があちこち剥げていたりしたけど、ふたつが同じものであることは疑いようもない。
「なんで二本あるんだ? 不思議だな……」
 しきりに首をひねる伊瀬の横で、私は少しだけ未来の伊瀬のことを案じた。

 もし未来に帰っちゃったんだとしたら――無事に帰れたのだとしたら、鍵がなくて困っていたりしないだろうか。
 せっかく戻れたのに部屋に入れなくて途方に暮れていたりしたら申し訳ない。伊瀬は私のために鍵を開けてくれたのに。
 未来の伊瀬の部屋には、鍵を開けてくれる他の誰かがいるだろうか。
 私が未来を変えたら、未来の『私』が鍵を開けてあげられるだろうか。

「とりあえず、誰か入った形跡はないな」
 二本目の鍵のことはさておき、伊瀬は一旦部屋の中を見回りに行った。
 そして外で待っていた私のために、もう一度ドアを開けてくれた。
「なんか謎だけど……エアコンつけたから入れよ。外で立ち話もなんだしさ」
 もちろん、私は中に入った。
「お邪魔しまーす」
 この言葉を口にするのも二回目だ。
 他にも言いたいことがある。これも、二回目になる言葉だけど。
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