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32:We are so happy...

 時が流れ、2006年の夏が訪れた。
 私は専門学校を去年卒業し、今年から地元で会社勤めを始めた。彼氏とは相変わらず仲いいし、大きな悩みもなく毎日を過ごしている。幸せだと胸を張って言える。
 ただ、結婚はしていない。
 つまり未来は変わったということになる。

 私は棚井くんと付き合うこともなければ、『結婚しました』というハガキを出すこともなかった。

 代わりについ先日、柳から『結婚します』というハガキをもらった。
 相手はなんと、というべきか、予想どおりというべきか、棚井くんだった。
 なんでも柳はそれこそ子供の頃から彼のことが好きだったそうで、2003年の冬に告白して、ふたりは付き合うことになった。そのまますんなりと結婚することになったようだ。
 当時、柳から報告をもらった私は思わず突っ込まずにいられなかった。
「そんなに好きだったのに、どうして私と棚井くんをくっつけようとしたの?」
 すると柳はもじもじして、柄にもなく歯切れ悪そうに答えてくれた。
「や、だって私なんて同性の友達みたいな扱いで、全然相手にされなかったしさ……棚井から相談されて、つい『任しとけ!』って言っちゃったんだよね」
 全くよくある話だと思ったけど、ともあれうまく行ったなら問題ない。
 あれから柳と棚井くんは実に仲睦まじく過ごしていて、幸せそうだった。私の目にもふたりはお似合いに見えた。だから結婚式にも参列して、思いっきり祝福してくるつもりだ。

 他に変わったことと言えば――。
 私が好きだったバンドは、聞いていたとおりに解散した。
 もっとも『いつかまた復活するかもしれない』と含みを残しての解散で、ファンの間でもいくらかの悲しみはありつつ、希望を持たせてもくれた。私も寂しい思いはあったけど、彼らの曲が聴けなくなるわけでもないと思うようになっていた。
 それと、お札も新しいものに変わった。
 あの時見せてもらった柄のことを正確に覚えているわけじゃないけど、平等院の鳳凰像が描かれていたのは記憶のとおりだ。
 せっかくなら未来に何が起きるか、話をもっとたくさん聞いておけばよかったと思う。そうすればどこが、どんなふうに変わったか、今頃は答え合わせができていただろう。でもそれはもう叶わない。
 私がしたことで何がどれだけ変わったのか、今となってはわからないままだ。

 ひとつだけ言えるのは、私は今でも伊瀬が好きだ。
 そして月に二度くらい、週末は彼と一緒に過ごしている。

「すっかり夏らしくなったな」
 伊瀬が呻くように言って、顎まで伝う汗をぬぐう。
「ほんとだね、サウナみたい」
 隣を歩く私も手で扇いではみたけど、感じられるのは温く弱い風ばかりだ。
 それでもこの季節は嫌いじゃない。夏の夕方、鳴り響くのは蝉の声、熱せされた空気に漂う草いきれ――なんだかひどく懐かしい。この夏らしさは日本全国どこにいたって味わえるものなのかもしれない。
 伊瀬が暮らすこの街も今ではすっかり通い慣れて、彼のアパート周辺の地理は完璧だ。今はふたりで夕飯の買い物に出かけたところだった。今晩のメニューはお互い大好物のオムライス。
「シャワー浴びたばっかなんだけどな」
 恨めしそうな伊瀬は、汗に濡れた前髪をつまんでみせた。
 その髪色は高校時代と変わらず、黒いままだ。
 2006年の夏まで、伊瀬は一度として自分の髪を染めることはなかった。そして私たちは何事もなく22歳になり、今日まで過ごしてきた。未来からまた誰かがやってくることも、逆に伊瀬が過去に行ってしまうこともなかった。

 私はまだ、伊瀬にあの夏の話をしていない。
 話せなかった理由は、22歳の伊瀬のことをみんなが忘れてしまったからだ。
 私は確かに2003の夏、伊瀬とキャンプに参加した。なのに一緒に行ったはずの柳も、棚井くんも、他の誰も伊瀬のことを覚えていなかった。私はひとりで集合場所に現れたことになっていて、ミルクティー色の髪をした『いとこ』を連れていったという事実は誰の記憶からも消えてしまったようだ。
 こうなるなら写真でも残しておけばよかったと後悔している。でもあの日、私は柳の手伝いで忙しくて、伊瀬の写真を一枚も撮っていなかった。誰か撮っている子がいないか探してみたけど、見つかった写真にはやっぱり彼の姿はなかった。
 もしかしたら、未来が変わったのと同じように、過去も変わってしまったのかもしれない。
 2006年の伊瀬が2003年に行くことがなくなったから、本当に『なかったこと』になっているのかもしれない。

 それでも、私だけは覚えている。
 あの夏、年上になった伊瀬に出会ったこと。
 彼が見てきた未来を教えてもらったこと。
 そして未来を変えると約束したこと。ちゃんと覚えているし、叶えられたはずだ。

 暑い中、ようやく辿り着いたアパートの外階段をふたりで上がる。
 203号室の前まで行くと、私は荷物を持ってくれてる伊瀬より先に鍵を取り出した。
「ドア開けるね」
 手にした合鍵には、バスケットボールのキーホルダーがぶら下がっている。
 あの夏の日、未来から来た伊瀬が落としていったものだ。
 結局それがどうしてここにあるのかはわからないままだった。伊瀬は何度も首をひねっていたけど、『合鍵渡そうと思ってたから』と言って私にくれた。私も欲しいと思っていたから、受け取って大切にしてきた。
 今となってはこの鍵だけが、私だけが覚えている思い出を支えてくれている。
 時々、意味もなく眺めてみたりする。キーホルダーはオレンジ色の塗装がところどころ剥げていて、長い間彼と一緒にいたことが想像できた。きっと彼の苦しさも寂しさも知っているんだろう。
 でも彼が今どうしているかは知らない。
「すっかり汗だくだ。メシの前に風呂にするか?」
 買い物袋の中身を冷蔵庫に詰め込む伊瀬が、玄関に立つ私を振り返る。
 そして怪訝な顔をした。
「どうした? そんなところに突っ立って」
「ううん、なんでも」
 私はかぶりを振ると、靴を脱いで部屋の中に入った。
 そして冷蔵庫まで近寄ると、その前にいる伊瀬の頬にキスをする。
 伊瀬はこちらを見て、いかにも照れたように笑った。
「なんだよ」
「なんとなく。幸せだなと思って」
「ふうん……」
 私の答えをどう思ったか、伊瀬はしばらく私を見つめていた。だけど直にうれしそうな顔をして、そっと私を抱き締めてきた。
「俺もだよ」
 耳元でそう囁かれ、私は噛み締めるように目をつむった。
 私たちは幸せだった。伊瀬が大学を卒業したら一緒に住もうと決めていたし、結婚する約束もしている。何度かじゃれあいの延長みたいな喧嘩はしたけど、だいたい半日もしないうちに仲直りしている。こうして一緒にいられるようになって、本当によかったとお互いに思っている。

 だからこそ、私はあの夏の出来事を絶対に忘れない。
 みんなが忘れてしまっても、過去が変わってしまったのだとしても、私だけは覚えているしその思い出を大切にしてこの先も生きていく。
 いつかは伊瀬にその話をするつもりだ。
 伊瀬なら信じてくれるかもしれないし、逆に笑い飛ばすかもしれない。映画みたいだって興奮しながら聞いてくれる姿も想像できるし、年上の自分に嫉妬してむくれる顔も思い浮かんでくる。
 でも、どんな伊瀬も大好きだ。これは胸を張って言える。
 私が変えた未来をずっと、彼と一緒に生きるつもりでいる。

 そして、時を超えて私にこの未来をくれた、あの人の幸せも願っている。
 ありがとう。
 もう会えなくたって、ずっとずっと大好き。
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