29:お別れの時間
金属製の外階段を上がると、足音が辺りに響いた。アパート自体はどこも静まり返っている。外観からも一部屋が小さめに見えるのは学生用のアパートだからだろうか。まだ日が沈むには早い時刻だからか、どこかでエアコンの室外機が動く音がする以外は何の気配も感じられない。西日が深く射し込むせいで、居並ぶ黒ずんだドアも光って見える。
203号室はすぐにわかった。
表札もドアプレートもなく、ドアに貼りつけられた金属製の『203』は錆びついていた。ドアのすぐ横には小さな、たぶんバスルームの窓があったけど、きっちり閉ざされていて中の様子はうかがえない。
私はドアの前に立ち、まずは一度深呼吸をした。
伊瀬は中にいるだろうか。はるばる会いに来てはみたけど、本当に会ってくれるだろうか。22歳の伊瀬の言葉を疑うつもりはないものの、それでも自信があると言えば嘘になる。
でも、ずっと会いたかった。
その気持ちだけは揺るがなかった。高校を卒業してからずっと、毎日のように会いたいと思っていた。どうしているのか、どんなふうに過ごしているのかいつも気になっていたし、手紙の返事が来ることを心から期待していた。
大人になった伊瀬と会ってからも――私は19歳の伊瀬がどうしているのか知りたくて、伊瀬から聞かされた未来の話を無視してメールも、電話もした。どちらも反応はなかったけど、だからこそ心配にもなったし、こうして会いに来た。伊瀬の顔を見て、無事を確かめたら次に言うことは決めていた。
私は、伊瀬が好き。
ずっとずっと前から好きだった。
インターフォンのボタンを押す指が震えた。
それでも電子めいたチャイムがドア越しに聞こえ、やがて止む。
室内から物音はしない。
もう一度鳴らしてみる。チャイムが止むまで待っても、それから何十秒か留まってみても、中から伊瀬が出てくることはなかった。
私はアパートの外階段を下り、来た道を取って返した。
22歳の伊瀬の姿を探すと、アパート近くの路地に突っ立っているのを見つけた。私が近づいていくと彼もこちらに気づき、はっと顔をこわばらせる。
「どうした?」
「いないみたい。チャイム鳴らしても出てこないの」
事実を打ち明けると、伊瀬も困惑した様子で髪をかき上げる。
「出かけてんのかな。俺のチャリあったか?」
「伊瀬の自転車ってどんなの?」
そもそもアパートに駐輪場があったことすら気づけなかった。知っていたけど私はずいぶんと緊張してるみたいだ。
「フレームが黒いやつだけど……見てもわかんねえよな」
伊瀬はふうと息をついて、
「しょうがない、一緒に行くか」
「いいの?」
「留守なら帰ってくんの待たなきゃいけないしな。一緒のほうがいいだろ」
今度はふたりで伊瀬のアパートへ向かった。
駐輪場はアパートのすぐ脇にあり、黒フレームの伊瀬の自転車はそこに停まっていた。
それを確かめた後で、ふたり分の足音を立てつつ外階段を上がり、203号室のドアの前で足を止める。
伊瀬はインターフォンには触らず真っ先にドアノブを握った。留守なんだから当然ドアが開くこともなく、ドアノブは硬い音を立てて途中で止まる。
「やっぱ留守か」
拍子抜けした様子の伊瀬が、一応確かめるみたいにドアを叩く。
軽いノックを三回繰り返しても、やっぱり反応はなかった。
「チャリはあるし、近くに買い物でも行ったのかもな」
ひとりごとのようにそう言って、伊瀬はちらりと私を見る。
「すぐ帰ってくると思うけど、どうする? 中で待つか?」
「中で? 勝手に入っちゃっていいの?」
「俺の部屋だぞ。入っていいに決まってるだろ」
「そうではあるけど……」
たしかに伊瀬の部屋なんだけど、こっちの伊瀬じゃなくて19歳の伊瀬のほうだから、いかに未来の自分と言えど勝手に入られたら嫌なんじゃないだろうか。私だったら――いや、想像もできない。
「外で待ってて、熱中症で倒れたりしたら困るだろ。エアコンつけてやるから入れよ」
伊瀬はと言えばもう入る気でいるようで、ポケットから鍵を取り出す。
アパート名のラベルが張られた古びた鍵には、バスケットボールのキーホルダーがぶら下がっていた。高校時代、伊瀬が自分のカバンにつけていたものだ。
懐かしいなと思う私の目の前で、伊瀬はためらいもなく鍵を開ける。
そしてドアを大きく開くと、私に入るようジェスチャーをした。
「ほら、入れよ」
「いいのかな」
私はまだ戸惑っていたけど、
「遠慮すんなって。お前がここに来てくれたらなって、何度も思ってたんだ」
そんなことまで言われてしまえば入らないわけにもいかない。
「お邪魔しまーす……」
私はそっと声をかけつつ、玄関で靴を脱ぐ。
「どうぞ、くつろいでけよ」
伊瀬の声が背後から追いかけてくる。
そして上がり込んだ伊瀬の部屋は、入ってすぐがダイニングキッチン、あとは奥に一部屋あるだけという広さだった。キッチンは夏場だからか乾いていたし、食器の類はきちんと片づいている。ダイニングテーブルにも物は乗っておらず、意外と片づいているなというのが第一印象だった。
奥の部屋はどうやら寝室として使っているらしく、そちらは覗かないようにした。それでなくとも勝手に上がり込んでしまった気まずさがあり、私は救いを求めるように伊瀬のほうを振り返る。
「ね、伊瀬――」
呼びかけた声は、途中でかつんという金属音に遮られた。
バスケットボールのキーホルダーをつけた鍵が、玄関の床に落ちた音だった。
鍵はそのまま床に投げ出され、私は恐る恐る視線を上げる。
眩しい西日が射し込む玄関は明るく照らされていて、でもそこには誰もいなかった。
伊瀬がいると思っていた。私のためにドアを開けてくれたから、その後で一緒に入ってくるだろうと思っていた。なのに誰もいなくて、鍵だけが落ちていて。
呆然とする私の前で、大きく開け放たれたドアはそのまま、閉まらずにいた。
「伊瀬……?」
なぜか、名前を呼ぶのが怖かった。
胸騒ぎがした。
でも認められなくて、あわてて戸口から外へ出る。アパートの通路にも、外階段にも、階段の下の細い道路にも、アパートの駐輪場にも――伊瀬の姿はどこにもなかった。
あのミルクティー色の髪の、派手なTシャツを着た、私より3歳も大人になってしまった伊瀬は、いなくなっていた。
「伊瀬」
呼吸が早くなる。
まさか、と思う。
階段を急いで駆け下りて、私は辺りを見回した。あれだけ目立つ髪色だ、この辺りにいるなら絶対目につくはずだ。そう思っても見知らぬ住宅街には怖いくらいひと気がなくて、誰もいない。
伊瀬がいない。
伊瀬は、いなくなってしまったんだろうか。未来に帰ってしまったんだろうか。
でも約束したのに。帰る時はちゃんと挨拶してくれるって。黙って帰るような不義理はしないって。伊瀬はそういう約束を破る奴じゃないって知ってる。
だけど――。
どれだけ辺りを見回しても、彼はいなかった。見つからなかった。
「そんな……」
不安で不安でたまらなくて、私がうつむきかけた時だった。
誰かの気配がした、ような気がした。
足音が遠くで聞こえ、すぐに止まり、私は急いで振り返る。
「伊瀬?」
「……え?」
耳によくなじんだ伊瀬の声が、戸惑った様子で聞き返してくる。
「キク……なのか?」
私を見てもなお驚いたように目を見開く伊瀬は、まだ髪を染めていなかった。
コンビニのビニール袋を提げ、もう片方の手には携帯電話を持ち、シンプルな無地のTシャツを着た、たぶんまだ19歳の伊瀬だった。
「お前、なんでここに……」
伊瀬はそう言いながら、携帯電話の画面と私の顔を見比べる。
「メールくれたから何かと思ったら、こっち来てたのかよ。もっと早く言ってくれりゃ迎えに行ったのに。そんなに連絡欲しかったのか?」
話しつつも次第に口元が笑んでくる彼は、たしかに少しあどけなく見えた。
そして私も、お別れの時間が来たことをおぼろげながら悟っていた。
残されたのは私と、今を生きる同い年の伊瀬だ。