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いつまでも幸せに(2)

 部屋に、明かりが点いていなかった。
 玄関の鍵を開けた時にその事実に気づき、胸騒ぎが更に強くなる。彼女は起きていないんだろうか。それとも一度起きたものの、夕方前にもう一度寝ついただけか? どちらにしても携帯には不在着信がずらりと並んでいるはずだ、連絡くらい寄越せばいいのに。不安になる。
 靴を揃えるのもさて置いて室内に駆け込めば、リビングも、キッチンもカーテンが閉まっておらず、それでいて真っ暗だった。朝、僕が出て行った時のまま、何も動いていないようだ。
 不気味だった。
「……一海?」
 恐る恐る名前を呼んでみても、返事はなかった。そんなに広い家じゃない、起きているなら聞こえるだろう。
 急いでリビングの電気を点け、次いで寝室に踏み入った。奇妙に緊張しながら照明のスイッチに手を伸ばした後で、ベッドの上に影を見つける。ほっと出来たのは一瞬だけだった。
 隣室からの光を受けて、朝のまま、まるで変化なく見える彼女。着ているパジャマも同じなら、横たわる姿勢まで同じようだ。まさか――。
「一海!」
 ベッドサイドに駆け寄り、その寝顔を確かめる。思わず声を張り上げてしまったせいだろうか、彼女の瞼が微かに動いた、ような気がした。薄暗がりではよくわからない、ただ呼吸が聞こえたから息があるのは間違いなくわかった。今度こそほっとした、少しだけ。
 やっぱり明かりが必要だ、僕は照明を点けに戸口まで戻る。蛍光灯が瞬いた後で振り返ると、一海が眩しそうに目を眇めながらこちらを見ていた。たった今目覚めたみたいに、ぼんやりと。
「あ……瑞希さん」
 彼女は別人かと思うほどしゃがれた声を立てた。その後で軽く咳き込んだから、喉が渇いていたのかもしれない。僕は改めて傍に駆け寄った。
「何か飲む?」
 尋ねながら背をさすろうとすれば、パジャマが汗でじっとり湿っているのがわかった。一海も気がついた様子で身を捩って、
「大丈夫です、私、今起きたばかりで」
「ずっと寝てたのか?」
 熱はあるんだろうか。額に当てようとした手は遠慮がちに拒まれた。仕方なくキッチンへ取って返して、コップに水を注いで持ち帰る。彼女はそれを受け取ると、上体を起こして慎重に飲み干した。
「ありがとうございます。あの、二回くらい目は覚めたんです、お昼と夕方に」
 朝よりは顔色が普通に見えた。とは言え彼女は再び横になってしまったし、タオルで額の汗を拭う仕種もだるそうだ。まず着替えをさせた方がいい。
「僕が電話をかけたのには気づいた?」
 クローゼットを開けながら僕は尋ね、申し訳なさそうな返事を背中に聞いた。
「はい……ごめんなさい。電話、出られなくて」
「起きたならかけ直してくれればよかったのに。勤務中だからって遠慮した?」
 重ねた質問は自分でも驚くほど刺々しく、彼女が小さく息を呑んだのもわかった。朝の苛立ちがよみがえってくる。酷い不安に取りつかれた後だけに、こんなに心配させておいてと腹が立っていた。
「その様子じゃ、病院にも行ってないんだろ」
 クローゼットからパジャマではない、なるべく楽そうな服を選んだ。着替えを手に改めて彼女に向き直る。一海は神妙な顔で答える。
「寝ていた方が楽だったんです」
「起きられなかったのか?」
 ぎこちなく頷く彼女。今も、起き上がろうとはしない。
 僕がいない間は相当辛かったんじゃないだろうか。一人で苦しんでいたのかもしれない。
「そんなに具合が悪いなら、どうして連絡してくれなかったんだ。君が起きられないくらい辛かったっていうなら、僕だってどうにか抜け出してきたのに」
 知らず知らず詰問の口調になる。
 でも、嘘じゃない。彼女の為ならそのくらいした。妻が急病だと言えばたとえ忙しい日でもどうにかなったはずだ。僕だってそうしたかった。
「ごめんなさい」
 彼女は弱々しく謝ってくる。
 朝から散々聞かされているその言葉が余計に怒りを掻き立てた。どういうつもりで謝っているんだろう。体調を崩して酷く辛い時でさえ、僕に頼ることを思いつきもしなかったって言いたいのか。
「どうして頼ってくれなかった?」
 ともすれば怒鳴りたくなるのを必死で抑え込む。言いたいこと自体はもう堪えきれず、ぶちまけるよりほかなかった。
「君はいつもそうだ、ちっとも僕を頼りにしてくれないし、辛い時でさえまるで他人行儀に手助けを拒もうとする。君にとって僕はそんなに頼りないのか? 僕みたいな夫じゃ力不足だって思ってるのか?」
 一海が他人の力を借りることを必要以上に拒んでいるのは、別に今に始まった話でもない。僕に対しても結婚前からそうだった。でも、今は昔と違うはずだ。僕らは夫婦で、そして家族だ。お互いに頼らないでどうする? いざという時に頼る価値もないと思ってるなら、一緒にいる価値もないのと同じじゃないか!
「瑞希さん……」
 その時の一海は、多少なりともショックを受けたように見えた。直に目を伏せたから、また謝られるんだろうと思ってうんざりしていた僕へ、
「……違います。違うんです」
 しばらくしてから彼女は言った。
「瑞希さんを頼りにしてないわけじゃありません。ただ、今日は寝ていたかったんです。横になっていた方が楽だったから、それだけです」
 声に力こそなかったものの、食い下がるように繰り返してきた。
「頼りにしてます、いつだって頼もしい人だって思ってます。確かにいつもは、迷惑をかけたくないって思ってます。けど今日はもう十分かけた後だから、後はなるべく、出来る限り早く治そうって、そればかり思っていました。寝ていたら早く治ると思ったから、じっとしていただけなんです、本当です」
 横たわった姿勢で僕を見上げ、切々と訴えてくる彼女。言い分は納得出来るほどのものではなかったが、強い反論は予想外だった。以前の彼女ならもう少し、諦めめいた物言いでひたすら詫びてきたはずだ。僕を怒らせたことへの責任だけに駆り立てられて、全部自分が悪いのだと頭を下げてきたはずだ。
 なぜか怒りが引いた。
 呆気なかった。僕はとっさに声が出せず、そのくせ『もう怒っていない』とも言えず、無様にもうろたえたくなった。そういえば彼女の着替えを手にしていたと思い出し、本当に見るも無様な態度でようやく、それを手渡した。
「とりあえず、病院へは行こう」
 一海が不思議そうに瞬きをする。気まずく思いながらも説明を加える。
「その方が安心するから。行こう」
「今からですか?」
 彼女は寝室の窓を見て、現在の時刻を知ったようだ。外はもう暗い、でも今なら急げば間に合う病院もあるだろう。戸惑う彼女を急き立て、着替えの間にやっている病院を調べた後は、すぐに家を飛び出した。

 受付終了時刻にはぎりぎりのところで滑り込めた。
 医者の診断はただの風邪。流行ってますからねの一言で片づくような風邪だった。ついでに言えば病院に着いた時、一海の熱は三十七度台まで下がっていて、誰に何か言われた訳でもないのに僕は身の置きどころのなさを覚えた。
 隣接する薬局で薬を処方してもらってから、帰宅前に一度コンビニに立ち寄った。僕は夕飯がまだだったし、彼女はずっと食事も取っていなかったというから、彼女の為のレトルトのおかゆとスポーツドリンク、それに自分用の弁当を購入した。
 その時まで僕らはほとんど言葉を交わさずにいた。僕の方はもちろん先の怒りが気まずかったからだが――いや、言ってしまえばあれは怒りなんてものですらなかった。僕は取り乱していただけだ。一海が病気なのに何にもしないでただただ寝てばかりいたから、それだけで強い不安に駆られてもうどうしようもなくなっていた。早く治せなんて、言われた方が一番困ってしまうような要求を押しつけただけだった。
 彼女はどう思っているんだろう。コンビニでの買い物中も車にいた彼女は、やはり朝よりはずっと調子がいいらしく、姿勢よく助手席に座っていた。時々こちらを見て、ほんのちょっと僕を気にしてくれているようなのがうれしくもあったし、罪悪感も募った。
「言い過ぎた。ごめん」
 車をマンションの駐車場に停めてから、ようやく僕は詫びることが出来た。
 間髪入れず、彼女はかぶりを振る。
「瑞希さんが心配してくれたのはわかってます。私の方こそろくに連絡もしないでごめんなさい」
 それからちらっとだけ、柔らかく笑った。その表情が、彼女の今の体調を何よりも確かに物語っていた。
 でも病人であることも確かだ。病人に感情をぶつけて、結局は気を遣われている僕は情けない人間だと思う。
「今日はご飯を食べたら薬を飲んで、すぐに寝るようにします。きっと明日にはよくなってますよ」
 その口ぶりじゃまるで明日には出勤する気でいるみたいだ。彼女の生真面目さも、社会人としての責任感というやつもわかってはいる、でも僕は当たり障りのない返事しか言えなかった。
「その方がいい。でも明日も、調子が悪ければ無理はしないで」

 一海の夕飯が済み、薬を飲んだ彼女が寝室へ戻った後で、僕はコンビニ弁当を温め直して食べた。彼女は一緒に食べましょうと言ってくれたが、病人の前で惣菜の匂いをさせるのはよくないだろうと思ったからやんわり断った。もっとも、こんな気配りも罪滅ぼしになりはしない。
 自分が放った言葉に、僕自身が苛まれていた。病人に一番言ってはいけないことを叩きつけてしまった。彼女を支えていかなければならない立場なのに。彼女を幸せにすると約束したのに。
 かつての彼女は、呪いをかけられたお姫様だった。
 今は違う。呪いは解け、彼女は自身に相応しい笑顔と強さを取り戻した。おとぎ話ならここで『そしてお姫様は、いつまでも幸せに暮らしました』と終わっているところだろう。けれど現実はそうではなく、今の僕と彼女はちょうど『いつまでも幸せに』のくだりにいる。これからもずっと幸せでなければならないはずの彼女は、どうやらものすごく厄介で、独占欲の強過ぎる王子様に捕まってしまったらしい。病気になったくらいで取り乱すなんて不甲斐ないことこの上ない。病気にさえ嫉妬した、そう言えばいくらか聞こえはいいだろうか。
 手に入れたら、彼女を失うのが怖くなった。どういう形でも、可能性さえ考えたくなかった。いつでも彼女の笑顔が、眼差しが僕の方を向いていないと気が済まなかった。これから先、一緒に暮らしていれば、彼女が体調を崩す日だって何度となくあるだろう。これからは僕が強くならなければいけない。
 早く治って欲しい、それだけは本心から願っている。僕に出来ることなら何でもするつもりだった。実際は病院に連れて行くくらいしか能がなかったものの。

 寂しい夕飯は手早く終えて、僕はゴミを捨てる為、キッチンに立った。
 そして口が開いたままの、おかゆのレトルト袋に目を留めた時、ふと思う。一海の明日の朝ご飯は何にしよう。おかゆかうどんくらいなら僕でも作れる、でも美味しいとは限らない。さてどうしようか。
 考えた末にひらめいた。――こういう時こそあいつに連絡してみよう。
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