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いつまでも幸せに(3)

 播上からのメールの返事は、午前二時過ぎにあった。
 それを待っていたのもあるし、いろいろ起きたせいで寝つける気がしなかった僕は、手の中で震える携帯電話を開き、送られてきた文面を確かめた後で思わず笑う。
 あいつのメールはいつも簡潔で、余計なことが一切記されていなかった。今回もそうだ。一海が風邪を引いたから、僕でも作れそうな病人向けレシピを教えてくれと言ったら、返信分の一行目からいきなりレシピが始まっていた。メニュー名は卵雑炊。調味料を入れるタイミングを事細かく記してあって、卵を入れたらあまりかき混ぜるな、煮立たせるなとまで書いてくれているのに、レシピ以外の私信はほんのちょっとだった。
 ――奥さん、早くよくなるといいな。お大事に。
 僕はそれを見て、あいつらしいと心底思う。そしてあいつだったらこういう時は、大して慌てもせず適切に対処するんだろうなと勝手な想像をする。自分と比べたってどうしようもないとわかっているくせに、考えずにはいられない。清水さん――もとい、奴の奥さんが風邪で寝込みでもしたら、播上は水を得た魚のように甲斐甲斐しく世話を焼くことだろう。僕みたいに取り乱したりは絶対しない。
 むしろそれが普通なんだと思う。自分の大切な人が辛い時、苦しい時にこそ気を配り、支えていくのがごく当たり前の夫婦としてのあり方だ。心配するのはいいだろう、でもそこで感情的になってしまうのは駄目だ。僕にはその余裕が足りない。

 礼を言う為にもう一度メールを送ってから、僕はようやく寝室へ足を向けた。
 照明を消した室内、シーツを替えたベッドの上で、一海はすやすや寝入っている。薬が効いているのか寝つきも随分よかったらしい。額に手を乗せてみたら熱も下がってくれたみたいだった。安心出来た。
 僕がベッドの端に腰かけても、彼女は目を覚まさない。就寝前にはやんわりと、僕が傷つかない程度の優しい言い方で『うつるかもしれませんから、今日は別々に寝た方がいいのでは』と提案されていたが、もちろん一蹴した。夜中に何かあった時の為、傍に寝ていた方がいいに決まっている。
 頬に、指を突き立ててみる。ごく軽い力で押さえただけなのに、彼女の柔らかい頬は可愛らしく窪んだ。そこから指を這わせて下唇まで辿り着くと、指の腹にはいつもより乾いた、かさかさした感触があった。
「ん……」
 唇を撫でたら、彼女は微かにだけ唸った。今夜に限っては起こすつもりもなかったから、僕は諦めよく指を離す。それから彼女の隣に、一応遠慮がちに横たわってみる。
 穏やかな寝顔をすぐ傍から覗き込み、思い余って、唇に二回キスをする。彼女は起きなかったが、もし起きていたらやはり『うつりますから』と言われただろう。でもあいにくと、今回のことで僕は風邪を引かない類の人間だと証明されたから、きっと大丈夫だ。僕ほどの馬鹿もそういない。
 総務課の美女と野獣。――そんなくだらない通称を今更のように思い出し、だがあながち的外れでもないのだと痛感している。どちらが美女でどちらが野獣か、あの頃から知っていたのは僕だけだ。
 もしかしたら彼女には、馬鹿でも野獣でもないもっとましな王子様が他にいたのかもしれない。だとしても、彼女を手に入れたのは僕だ。僕だけだ。頼りにしていると言われた以上は、誰がするより彼女を幸せにしなければならない。誰といるよりも幸せにしてみせよう、これからは、いつまでも。
 寝息を立てる彼女を抱きしめて、一応目を閉じてみる。眠れる気がしないのは相変わらずだったが、今日だって仕事がある。少しでもいいから寝ておかないと。
 それに、早起きをしなければならない予定もあるから。

 迎えた朝、僕は予定通りの早起きをして、播上から教わった通りに卵雑炊を作った。
 調味料を入れるタイミングも誤らず、卵はかき混ぜ過ぎず、煮立たせず。教師がよかったせいだろうか、仕上がりは上々で、起きてきた一海が目を丸くするほどだった。
「この雑炊、瑞希さんが作ったんですか?」
「まあね」
 得意がりたいのを隠しきれていないはずの僕に、彼女は先程よりためらいがちに問いを重ねてくる。
「もしかして、播上さんに教えてもらったんですか?」
「……やっぱり、わかる?」
 料理といえばほぼ麺類専門の僕が、こんな適切なメニューを作るなんて驚かれてもしょうがない。ばれるだろうなとは思っていたから、落胆はしなかった。ただ一海は、僕がどうして播上から雑炊の作り方を教わったか、その理由になるところまで見抜いていたようだ。柔らかい表情で言われた。
「ありがとうございます、瑞希さん」
「うん」
 僕は照れ隠しに、曖昧に頷く。昨晩の出来事のそれこそ罪滅ぼしというつもりではないものの、結果的にそういうことになったのかもしれない。
「播上が、お大事にって言ってた」
 そう教えると一海はよりうれしげに笑う。だから僕も、彼女が喜ぶ顔を見たくて続ける。
「僕も君の笑う顔が見られて、安心した。もう笑ってもらえなかったらどうしようかと思った」
「そんなこと、絶対にありません。もう元気ですから」
 言い切った彼女の明るい表情を、なぜだかとても眩しく思う。
 それから一海は卵雑炊を食べた。昨日は夜におかゆを食べただけだったから、さぞかしお腹が空いていたことだろう。美味しいと繰り返し繰り返し言ってくれたし、ちゃんとお替わりまでしてくれた。実に夫冥利に尽きる。
 食事の後で測ってもらった体温は平熱まで戻っていた。一安心しつつ、でも僕は釘を刺しておく。
「まだ体力は戻ってないだろうから、今日も休んだ方がいい」
「えっ、でも」
 案の定、一海はそこで反論の意思を面差しにちらつかせた。もっとも体力が戻っていない自覚はあるようで、はっきりと語を継ぐことはしなかった。
「昨日、頼りにしてるって言ってくれただろ」
 ここぞとばかり、僕は畳みかけてみる。
「君のいない分も頑張っておくから、心配はしなくていい。昨日みたいに早くは帰れないかもしれないけど、でも僕だって、君を信じるようにするから。今日一日しっかり休んで、明日からは職場に戻ってきてくれるようにってね」
「……はい」
 不承不承、顎を引く彼女。諦めきれない様子で後から言われた。
「私、瑞希さんのことはとても頼りにしています。だけど『渋澤課長』にはなるべく、迷惑をかけたくなかったんです。そう思うのはおかしなことではないですよね?」
 これだから、夫婦で同じ職場っていうの面倒だ。
 馬鹿になってしまったってしょうがないじゃないか。僕の全部を頼りにしてもらえてるわけじゃないんだから。生真面目な彼女の意識では、上司としての僕と夫としての僕を同じように考えることなんて出来ないようだから。
 かと言って、そこで『じゃあ辞めればいい』などと冷たいことが言えるはずもなく。いつでも辞めてもいいとは思っているものの、さすがに強いるわけにはいかない。会社から文句の出ないうちはこのままで、と暢気に構えていたのも事実だ。
 だが上司と部下でいることが、彼女に無理をさせているのだとすれば、それも見過ごせはしない。どちらにしても今のやり方はそう長くは続くまいと思ってもいた。それなら。
「じゃあ一海、そろそろ子育てでもする?」
 強いる口調にはならないよう、半ば冗談みたいに聞いてみた。本音で言えばちっとも冗談ではなかったが――むしろ僕の子を育てる彼女を是非見てみたい。そういうのも悪くはないと思う。
「僕はいいよ、いつでも」
 駄目押しのように告げると、一海はきょとんとした後で、何やら気を遣う顔つきになって聞き返してきた。
「でも瑞希さん、もし仮に、私が妊娠したとしたら、それこそ毎日心配になったりしませんか?」
「なるだろうな。絶対」
 毎日やきもきして仕事が手につかない僕の姿が、容易に想像出来た。
「それなら……もう少しだけ、ちゃんと考えてみます」
 一海は小首を傾げただけで、今のところ首肯はしてくれなかった。
 つくづく彼女は、とんでもなく厄介な王子様に捕まってしまったみたいだ。

 そうして呪いの解けたお姫様は、いつまでも幸せに暮らしました――と締めくくる前に、今度は僕の方が、解かなきゃならない呪いにかかってしまったようだ。
 それは一回のキスくらいじゃどうにもならないみたいだから、根気よく付き合っていくしかないのかな。でも君のことは誰よりも愛してるし、幸せにするって約束するから、君も匙を投げたりしないで根気よく僕に付き合って欲しい。例えば、昨夜みたいな愛の言葉を懲りずにかけ続けてくれたら、いつかすっかり解けてしまうかもしれない。
 ……なんてことを彼女に言ったら、まるで調子いい奴みたいに聞こえるかな。
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