いつまでも幸せに(1)
寝惚けた頭で習慣的に抱き寄せた時、違和感を覚えた。――熱い。
たちまち引っ叩かれたように意識がはっきりして、いつも隣に寝ている彼女の、いつもと違う寝顔に気づく。瞼を閉じているのに苦しげな表情、汗ばんだ額に張りついた前髪。口でする呼吸が心なしか速い。
「一海」
声をかければ、彼女はうつろにこちらを見た。
「大丈夫? もしかして、風邪?」
額に手を当てながら僕は尋ね、彼女が答える前に予想が当たりだと察した。手のひらに熱が伝わってくる。当たって欲しくなかった。
本人も自覚はしているんだろう。小さく頷いた。
「何だか熱っぽくて……」
「待ってて。今、体温計持ってくる」
かすれた返事を遮り、すぐにベッドを抜け出す。寝室のカーテンの隙間からはもう白い光が忍び込んでいて、即座にこれから、出勤までの時間に取るべき行動を考える。あまりのんびりは出来ない、決断は早い方がいい。
リビングに置いていた救急箱からまず体温計を取り出し、ついでに風邪薬が残っていることを確かめる。次に洗面所からタオルを一本引っ掴んで、あわせて寝室へ持っていく。その間、一海は全く身動ぎもせずにいたようだ。僕が戻っても目を開けない。
「一海、熱を測るよ」
彼女の反応を待たず、パジャマのボタンをいくつか外す。腕を持ち上げるようにして脇に体温計を挟む。それからタオルで額の汗を拭いてやる。されるがままの彼女が、そこでようやく唇を動かした。
「ごめんなさい」
真っ先に言うことがそれというのも一海らしい。僕は思わず苦笑した。
「どうして謝るの。誰だって風邪くらい引くよ、しょうがないだろ」
「でも……」
そして、どうしようもないことを素直に認めようとしないのも彼女らしい。きっと今は体調を崩してしまったことへの罪の意識に苛まれているはずだ。一海の生真面目な性格はこういう時、仇になる。
「昨日の晩は何ともなかったんです。なのに」
悔しそうにする彼女。
僕も昨晩の様子を思い返してみる。昨日は雨が降っていて、なのに仕事がなかなか片づかなかったから、やむなく彼女に先に上がってもらっていた。僕が帰る頃には彼女は夕食まで済ませていて、それでも僕の為に食事を温め直してくれた。その時、そういえばほんの少し疲れたような顔をしていた気もする。最近は忙しかったから、疲れていてもしょうがないと思っていた――が、確かに予兆はあったのかもしれない。
気づいておけばよかった。
体温計が電子音で検温の終了を告げる。僕は後悔もそこそこに彼女の体温を確かめる。
「三十八度五分」
読み上げると、彼女はもう一度すまなそうに、
「ごめんなさい」
「謝らなくていいから」
僕も宥める為だけに笑った。それから次の行動へ移る為に、いくつかの質問をする。
「食欲はある? 出来れば少しでも食べて、薬を飲んで欲しい」
「いえ、あまり……」
言いにくそうな、控えめな答えがあった。彼女がそう言うからには、恐らく相当調子が悪いのだろう。いつもの彼女なら、人に迷惑をかけるくらいなら無理をしてでも食事を取り、薬を飲むだろうから。
「じゃあ、病院へは行けそう? 僕も昼休みに抜けられるよう努力はするけど、駄目なら君一人で行ってもらう」
次の質問に、彼女は即答しなかった。熱っぽく潤んだ目がこわごわ僕を見つめている。それで僕も、はっきり言ってやらなければ駄目だと悟って、言った。
「今日は休んだ方がいい」
「でも、休んだりしたら皆に迷惑が……」
こういう時の反論は病人のくせに素早かった。
彼女の言うとおり、人員の少ない総務課にとっては、一人の欠員も影響が大きい。それが働き者の彼女なら尚のことだ。しかしだからと言って、こんな状態の一海を出勤させる訳にはいかない。
「気にしないで。僕にだって君のカバーくらい出来るよ」
努めて明るく言ったつもりだった。
だが彼女の答えは相変わらずだ。
「ごめんなさい……私、もう少ししたら起きられますから」
頑なな謝罪の後で縋るように続けた一海に、僕は苛立ちさえ覚える。起きて、どうするつもりなんだろう。食欲もないっていうのに。そもそも彼女はどうして、こういう時に謝ってばかりなんだろう。僕はもうただの上司ではなくて、れっきとした家族のはずなのに。
「起きなくていい」
今度は強く諭した。なぜかと問いたげにする彼女の、パジャマのボタンを留め直してから念を押す。
「そんな状態で出て行ったら、かえって皆に心配されるよ。今日は休んで、その代わりしっかり治して」
皆が心配する、という言葉が効いたようだ。一海は苦痛を抱いたような面持ちで黙り込み、その隙に僕もベッド際を離れた。
「じゃあ、僕は支度をするから」
苛立ちは抑え、出来る限り優しく告げたつもりだった。
朝食は食パンだけで適当に済ませた。その簡素さも一人きりの淋しいテーブルもまるで独身時代に戻ったみたいで、黙っていても食事の用意をしてくれる彼女の存在を改めて、ありがたいと思う。
僕は彼女に感謝しているし、二人で暮らすようになった日々を幸せだとも思っている。年齢だけなら僕の方が上、でも甘えているのはこちらかもしれない、とさえ感じることがある。一海には迷惑だってかけてる、帰りが遅くなる日も出張で家を空ける日も何度となくあって、その度に彼女は努めて優しく、心を配って接してくれた。
なのに、彼女は僕に滅多なことでは甘えてくれない。それどころか迷惑をかけるのを必要以上に恐れているし、こと仕事に関しては過剰なくらい公私の線引きを心がけているようだ。生真面目な性格は結婚前からだったから、今更どうこう言うつもりはない。
ただ、気になる。一海は僕を、ただの上司やあるいは恋人としてではなく、家族として見てくれているんだろうか。自分の夫だって認識しているんだろうか。赤の他人だから迷惑をかけたくないとか、そんな風に思っていやしないだろうか。
「……考え過ぎか」
ネクタイを締める為に覗いた鏡には、随分と険しい表情が映った。願望混じりに呟いた後で、思いのほか苛立っている自分に気づく。
彼女が体調を崩している時に、こんな気分でいるのはよくない。
身支度を全て終えてから、僕は寝室へ戻った。
彼女はやはりベッドの上、ほとんど動かないまま横たわっていた。僕の気配を感じてか目だけは開けたものの、起き上がるそぶりはない。かなり具合が悪いのだろう。
「一海」
ベッドに片膝をつき、彼女の額を撫でてみる。湿った前髪を払うと新たに汗が滲んでいるのがわかり、もう一度タオルで拭いてあげた。彼女は力なく呟く。
「すみません、風邪なんか引いてしまって」
謝らなくていいって言ってるのに。
彼女の公私の線引きぶりは徹底している。今の謝罪だって結局は、欠勤について申し訳ないと言っているだけだ。僕に心配させて悪いという気持ちは二の次なんだろう。夫婦なのに。
「昼休み、帰ってこれるかどうかはわからない。でもどちらにしても一度、連絡する」
謝られたことには触れず、僕はそう言った。
「寝ていたらしょうがないけど、出来れば電話に出て欲しい」
「……はい」
「もし僕が戻れなかったら、君一人でも病院に行って。ちゃんと診てもらった方が僕も安心する」
「わかりました」
それにはいい返事をもらえた。多少なりともほっとしたせいか、ようやく心から笑うことも出来た。
「仕事のことなんて今は考えなくていいから」
急に気が軽くなって、彼女の頬にキスをする。やはり熱い。
彼女が僕を見上げる。とろんとした目はこんな時でなければ色っぽいと言えるだろうに、残念ながら病人の、熱に浮かされた人の目でしかなかった。
「心配なんだ。早く治して」
僕の訴えはいかにも甘えた懇願だった。それを笑ってくれればいいのに、一海は生真面目にしか受け取ってくれない。とても重い罪を犯してしまった後の、深い贖罪の表情で応じる。
「ごめんなさい、瑞希さん」
謝って欲しくないのに。
ここで詫びるなんてまるで、治らないかもしれないって言ってるみたいじゃないか。
「大丈夫だよ」
その言葉の半分は、僕自身に言い聞かせるように口にした。
それからもう一度キスをして、彼女に暇を告げ、久し振りに一人きりでの出勤となる。
会社まで車を走らせている間中、僕はしきりと苛立ちを募らせていた。でもいらいらする気分の起因する、本当のところが何かは、しばらくするまで思い至らなかった。
彼女の抜けた穴が予想以上に大きかった――ということはたとえ事実でも、彼女には絶対言えない。ともかくその日の仕事は思っていた以上に忙しく、時間は飛ぶように過ぎていった。
当然、満足のいく昼休みが取れることもなく、僕が一海に電話をかけたのは午後二時過ぎだった。帰れないという一言を伝えるのは気が重かったが、それよりも何よりも彼女の声が聞きたくて、少しはよくなったのか、無事でいるのかどうかが知りたくて知りたくて堪らず、携帯電話にしがみつくようにして通話を試みた。
ところが、彼女は電話に出なかった。
何度かけても、時間を置いてかけ直しても、昼休みが終わってしまって終業時刻を迎えた頃になっても、彼女とは繋がらなかった。念の為に家の電話にもかけてみたが、数コールで留守電に切り替わってしまう。
こうなるともう駄目だった。とてもじゃないが残業する気にはなれず、そもそも朝から仕事なんて手についていなかったことも総務課の全員に見抜かれていた。今日くらい早く帰った方がいいですよと口々に言われ、表向きは恐縮しながら、でも内心では恐縮の暇さえ惜しみながら、定時を三十分過ぎたところで退勤した。
その後はもちろん、飛んで帰った。