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この声は聞こえていますか?(4)

 窓ガラスを洗うような強い雨が降っている。
 午後四時を過ぎた図書室はほの暗く、一面青みがかって見えた。止まずに続く雨音の他は静かで、なぜか眠気にも似た感覚が過ぎる。兄の隣、二人きりの空間で、ふと目を閉じてしまいたくなる。
 堂崎は春を見ている。相変わらずうれしそうに、先程よりは冷静に。話があると言っていたものの、話すよりも他にしたいことがあるように、妹の姿にひたすら見入っている。同い年のはずの兄はそうしていると大人びて映るから、春は彼が『兄』であることに納得してしまう。双子は先に生まれた方が下になるのだと聞いていたが、きっと堂崎は春が生まれた後で、まるで最初からお兄さんだったみたいに悠然と生まれてきたに違いない。
 そう考えたらおかしくて、春は小さく笑った。
「――何だよ、人がこれから大事な話しようって時に」
 取ってつけた口調で堂崎がむくれたから、すぐに詫びた。
「ごめん。やっぱり、うれしかった」
 電話をするよりずっと、幸せだった。
「喜びすぎだ、春」
「うん……そうかもしれない」
 本当に目をつむってみた。たちまち瞼の裏にも水の中のような青さが滲み、広がり、身体全体に不思議な浮遊感を覚える。素足に触れる上靴のざらつきももはや気にならず、むしろ解き放たれたように心地よかった。自由になった心が思う、――今度は、肩に寄りかかりたい。
 黙って首を傾けたら、堂崎は間髪入れず肩を貸してくれた。
 温かかった。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 そのままの姿勢で礼を言えば、短い溜息が聞こえる。
 そして堂崎は口を開く。
「三月十四日」
「……ん?」
「来週の土曜日だ。ホワイトデーの日、知ってたか」
 確認してきた堂崎の物言いには『知らないかもしれない』というニュアンスが多分に含まれていて、春は拗ねていいのか、ついさっきまで忘れていたことを恥じるべきなのか、少し迷った。
 結局は素直に答えたが。
「知ってる」
 頭を預けた肩の斜め上辺り、ふっと笑われた。
「本当かよ。その割には先月、チョコくれなかったよな」
 兄の呆れ半分の言葉に春は驚き、思わず目を開け、頭も上げた。至近距離で見た兄の顔が途端に残念そうな色に変わる。春も残念には思ったが、ひとまず気になったことを問う。
「欲しかったの? チョコレート」
「そりゃあ……」
 答えかけた堂崎は途中から慌てたように、
「むしろ普通はくれるだろ? 兄妹なんだからくれるのは当たり前だろ、違うか?」
 と聞き返してきたから、春はちょうど先月の、バレンタインデー辺りの出来事を思い出す。

 恋愛関係の話を好んでいるのは自身も片想い中の温子だけで、その手の話題に及ぶと春だけではなく、美和や静乃まで聞き役に回るのが常だった。浮かれる温子を美和があしらい、静乃が宥め、春は三人のやり取りに聞き入りながら、水を向けられた時だけ答える、というパターンが完成している。
 が、温子からすれば他三人の恋愛事に興味のないそぶりが疑問らしく、時々探りを入れてくることがあった。バレンタインデーの頃もそうで、温子は三人に尋ねた。――じゃあ聞くけど、皆はチョコ用意してないの? 誰にもあげないってことないでしょ?
 その時、美和は父親には贈ると答えたし、静乃も父と弟には用意していると言っていた。
 誰にもあげないと言い切ったのは春だけで、それはそれで温子からも、美和や静乃からも珍しがられた。もっとも友人たちの印象においても春の父親の古風な人物像が出来上がっていたから、昔から一度もあげたことがないと言ったら揃って腑に落ちたようだった。
 春にとってのバレンタインデーは、十六年間ずっと無縁のものだった。父親のことを嫌っているわけでも疎んでいるわけでもないが、チョコレートを贈るという考えはなかった。そういうことを家で教わっていなかったから、理由はこれに尽きる。
 だから美和たちの言葉を聞くまでは、堂崎のことを考えもしなかった。
 聞いてからも直接行動に出ることはなかった。兄妹でチョコレートをあげるのも普通の家庭ならおかしなことではないだろうが、あいにく春も堂崎も普通の家庭にいるわけではない。少しは考えたものの結局用意しなかった。
 そしてバレンタインデー当日、堂崎は何も言ってこなかったから、春もそれでよかったのだと思い込んでいた。

「欲しかったなら言ってくれればよかったのに」
 春の言葉に堂崎は顔をしかめる。
「自分から言うのは格好悪いだろ」
「そんなことないよ。それに私、そういうのはあまり明るくないから」
 桂木の両親は子供を育てる術には長けていたが、考え方は古風だったし、思春期の少女の扱いまで上手いわけでもなかった。あの家には節分や雛祭りこそあれど、クリスマスやバレンタインデーは存在しない。
「じゃあ、来年は用意する」
 約束を口にした春に、堂崎は答えず、黙って自分の肩をぽんぽんと叩いた。
 その肩はつい先刻まで、春が頭を預けていた――意図を酌んだ春は再びそこに寄りかかる。兄の肩は半分だけでも十分広くて、やはり温かい。
「来年の話はいい」
 堂崎は言いながら春の髪を撫でる。さらさらと耳元で音がする。
「とりあえず今年の話だ。十四日、空いてるか」
 土曜日は堂崎の父親と会う、可能性のある日だ。
 しかし、彼との予定はどうにでも調整が利く。もちろん堂崎との予定を洗いざらい打ち明けた後で、ということになりそうだが。
「うん……。何かあるの?」
「ああ」
 堂崎はそこで、照れたように笑う。こちらに首を動かしたのが、頭頂部にかかる吐息でわかった。
「お前に言われて、俺、結構真面目にやってんだ。授業だって最近はまともに受けてる。そうだろ?」
「そうだね。知ってる」
「それと、茶の稽古もな。面倒だけどお前、サボるとうるせえし」
 とは言え堂崎も要領のよくないところがあって、茶道の稽古をサボったといちいち話さなければいいのに、春に対しては正直に白状するものだから春もつい小言をぶつけてしまうのだ。
 自分に嘘をつけない兄に、春はいつも複雑な感情を抱いている。
 せめて二人きりの時は、優しい気持ちを伝えられたらと願う。
「偉いよ、頑張ってて」
 ところが春のその言葉は堂崎にはあまり好ましいものではなかったらしい。急に鼻を鳴らされた。
「その物言いは気に入らねえ。まるっきりガキ扱いだ」
「別にそんなことないけど。なら、どう言えばよかった?」
「自分で考えろ、そのくらい」
 一度はばっさりと切り捨てた堂崎だが、春が真剣に考え出したのを察したか、やがて低い声で付け加えてくる。
「お前が恥ずかしくないような人間になりてえんだよ」
 それを聞き、春は再び目をつむる。
 ぼやけた青の世界がじわりと染みて、兄の面差しを映す。すぐ隣にいるのに遠い人。兄の存在を恥ずかしいなんて思ったことはない、ないのに。
「今でも、自慢のお兄ちゃんだよ」
 春は囁きくらいのトーンで告げる。春は知っている、兄を慕う人たちの多さを。素行不良の堂崎新を、そんなことも構わず――むしろ素行不良だからこそなのか、ともかく好きでいてくれる人たちのことを。そういう人たちに兄のよさを、いいところを、もっともっと知って欲しいと思う。兄のことを疎む人たちにも、たくさん知ってもらえたらと思う。繊細で、不器用で、でも妹にはとても優しい兄の少年らしさを伝えられたら、兄の心は救われるはずだ。
「素敵だと思ってる。本当だよ」
 温子は堂崎を格好いいと言う。
 春だってそう思う。兄ほどに格好いい人は今まで会ったことがない。素行のよしあしとは違う次元で、自分をこれほどにひたむきに想ってくれる兄を素敵な人だと思っている。どうしても、誰かに自慢することが出来ないのが残念だ。
「誉めすぎても何にも出ねえぞ」
 照れ隠しみたいにむっつりと兄が言うので、春は声音でだけ呆れておく。
「どう言っても文句言うんだね」
「いや、文句じゃねえよ。不満とかそういうんじゃねえけど……」
 堂崎は口ごもりかけたが、じきに気分を切り替えした様子で、
「とにかくだ。お前に俺の、格好いいとこ見せてやる」
「十四日に?」
「そうだ。だから、俺の家に来い」
 初めは、聞き間違えたのかと思った。
 春はもう一度、さっきよりも素早く頭を起こした。心地よい体温が離れて、兄の顔が視界に飛び込んでくる。兄は笑んでいる。
「十四日。迎えに行くから、来いよ」
 図書室の薄闇の中、一点の曇りも迷いもない笑顔だった。春は耳も目も疑いたくなる。
「え……そんな、嘘だよね? だって――」
「お前の家でもあるだろ、本当なら」
 反論を遮り、堂崎は尚も言う。
「だから一度、お前を呼びたかった。来てくれるよな、春?」

 聞き間違いではないとわかった時、春は凍りついた。
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