この声は聞こえていますか?(3)
舞い戻った校舎は雨の日らしく、しんとしていた。生徒玄関には人影もなく、傘立ても出払っていてがらがらだ。春はそこに折り畳み傘を立てかけると、靴箱を開けてローファーを脱ぐ。濡れた靴下が気持ち悪かったから、ちょっと迷った後で裸足になり、上靴を履いた。靴下はカバンの中に隠した。
上靴のざらつきが素足に慣れない。
それ以上に、廊下を急ぐ春は妙な場違いさを覚えている。一年間通い続けてきた学び舎が普段と違う空気に感じられるのは、足元のせいか、廊下の薄暗さのせいか、それとも雨音が響いているからだろうか。
図書室の前まで来た時、春はようやく人の姿を見つけた。
二人いた。どちらも男子生徒で、制服のボタンをだらしなく外し、上靴のかかとを踏んづけている。廊下の壁に寄りかかりながら、両手をポケットに突っ込んで――あまり柄のいいようには見えない顔ぶれだった。
ただ春は、そのうちの一人に見覚えがある。整髪料でてかてかに固めたオールバックの少年。向こうも春を認めて、はっとした面持ちになる。
「吉川さん」
春が名を呼ぶと、吉川の視線が泳ぐ。もう一人の男子生徒を気にしながら、口を開いた。
「桂木、……さん。堂崎さんが図書室で待ってる」
取り繕うような『さん』付けだった。
正月に会った時は確か、呼び捨てにされていたような記憶がある。春は不思議に思いながらも頷いた。
「うん、知ってる」
それから少しためらいがちに、あの日のことを切り出してみる。
「その、吉川さん。お正月はありがとう」
二ヶ月も前の話で、彼は忘れてしまっているのではと危ぶんでもいたが、表情を見る限りそうでもないようだ。瞠目された。
「は? いやあれは、別に……」
「お礼を言わなくちゃと思っていたんだけど、遅くなってごめんなさい。ありがとうございました」
丁寧にお辞儀をした春に対し、吉川は居心地悪そうに眉を顰める。うろんげな顔をするもう一人をちらちら窺いながら、春を急かしてきた。
「礼とかいいから。早く行けって」
「でも私、吉川さんには一度ちゃんと……」
「い、いいってば! とにかくほら、堂崎さん待ってんだから!」
思わずと言った様子で声を張り上げた後、怯えを隠さず吉川は図書室の入り口を指差す。以前からうすうす感づいていたが、どうも必要以上に恐れられているように思う。
ともあれ堂崎を待たせているのは事実だし、迷惑がられているならしつこくするのも悪い。春は吉川たちの前を通り過ぎ、図書室のドアに手をかける。
教室と同じ横開きの戸には『本日の貸し出しはお休みです』と、煤けた色の札が下がっている。
戸を開く音がやけに響く室内。明かりは点いておらず、廊下よりも更に薄暗い。窓からの光をぼんやり映す床の上、戸を閉める春の影が動く。
締め切った図書室は古い本の匂いがこもっていた。室内は静かで、貸し出しカウンターも読書の為のテーブルも無人だった。きょろきょろと中を見回せば、本棚の陰から堂崎が顔を出す。
「やっと来たか。こっちだ」
手招きされるがまま、春はそちらへ歩み寄る。本棚が列をなす一角、堂崎を覆い隠すように大きな影が落ちている。春がそこへ滑り込むと、兄は暗がりの中で胸を撫で下ろした。
「遅かったから来ないかと思った」
「ごめん。一回外に出たから」
素直に詫びる春を見下ろし、堂崎は相好を崩す。
「まあいい、こうして会えたからな」
だがその後で急に眉根を寄せて、視線を閉じた入り口のドアに向けた。
「ところで……吉川の奴に何か言われたのか。あいつさっき、妙な大声出してたけど」
そう尋ねる声も、目つきもやけに尖っている。春は急いでかぶりを振りつつ、吉川が自分を恐れているらしい理由をそこはかとなく読み取った。
「ううん。挨拶と、お礼をしただけだよ」
「お礼?」
「お正月の時の。あれからずっと言ってなかったから」
すると堂崎はますますしかめっつらになる。口調は強く言い含めるように、
「そういうのはいいって言ったろ。お前が気にすることじゃねえって」
「でもお世話になったのは事実だから……」
「いいんだよ。お前はああいう不真面目なのと付き合っちゃ駄目だ」
兄が自らの交友関係を否定する発言をしたので、春は思わず苦笑した。確かに兄の友人――もとい舎弟でもなければ、口を利く機会さえなさそうなタイプではある。不真面目かどうかは今のところわからないが、制服の着方のだらしなさはいかにも、という風に見えた。
悪い人ではない、とは思う。目の前の兄と同様に。
「それに、あいつらには言ってないからな。お前のこと、詳しくは」
吉川は春のことを堂崎の彼女だと解釈していた。もしかすると、もしかしなくても、今もそう捉えているかもしれない。でも事実が明るみになるよりは、誤解されたままの方がいいのだろう。
春は唇を結び、それを見てか堂崎は語気を強めた。
「いつかは話す。お前を隠さなくてもいいようにしてやる」
固い決意を滲ませつつ、春の、カバンを提げていない方の手を取る。兄の手は大きく、手のひらを合わせるといつも温かい。そういえば繋ぎたかったんだ、と春は思い出したように胸裏で呟く。
こうして人目のないところでなければ、手さえ繋げない。
「とりあえず、今は心配すんな。あいつらに見張らせてる、ここには誰も来ねえよ」
そう言って堂崎は繋いだ手を引き、妹を抱き寄せようとしたが、その言葉が引っかかった春は片手で兄の胸を押すようにして一旦拒む。そしてなぜ拒むのかと訝しげな顔へ尋ねた。
「でも、どうして図書室なの? 先生の許可は……」
「要るかよそんなもん。空いてるから自由に使わせてもらってるだけだ」
「自由にっていうより、勝手にってことじゃない?」
重ねて問えば、堂崎はあからさまに面倒くさそうな顔をする。
「悪いか」
「駄目でしょう。先生に見つかったら怒られちゃう」
「平気だって。木曜は貸し出しやってなくていつも空いてるから、よく使わせてもらってんだ。もう一年になるけど一回も注意されたことねえしな」
全く悪びれていない回答だったが、注意されたことがないというのも恐らく嘘ではないのだろう。堂崎をきちんと叱れる教師はこの学校にはほとんどいない。いても申し訳程度に言葉をかけるくらいで、徹底的に怒ってくれるような人はいなかった。だから春が、時々言いたくもないような小言を口にする羽目になる。
「あんまり人に迷惑かけちゃ駄目だよ」
「かけてねえよ、最近は」
心外そうに堂崎が言う。それも多少は、以前と比べればいくらかは嘘でもないはずだったから、とりあえずは抵抗していた手の力を抜いてみた。片手に提げていたカバンも足元に落とした。じきに温かく抱き締められる。
どうせここにも長居は出来ない。そのくらいならつまらない会話を続けるより、素直になっておく方がいい。
兄の胸に頭を預けると、制服からは微かに香の匂いがした。あの日本家屋の堂崎家や、羽織袴を身につけた写真を連想させる匂い。胸が締めつけられるようだった。
「今日は、電話しか出来ないと思ったから」
春はつい面を上げ、眼前の兄に打ち明ける。
「だからこうして会えたのはうれしかった。それはうれしかったの」
「なら文句言うなよ。俺のお蔭で会えたんだろ」
多分、堂崎は呆れた顔をしたかったのだと思う。だがそれは全くもって上手くいかず、むしろ暗がりの中でもわかるくらいにはっきりと、幸せそうな顔をしてみせた。そこにあの写真の冷たさはかけらも窺えない。
「うん……」
春は頷き、目を閉じる。
こうして兄の腕の中にいれば、何もかもどうでもよくなってしまう。嘘をついている罪悪感も、他人の前では兄妹でいられないことも、堂崎の願いが絶対に叶わないということも、全部。考えたくない事柄は遠くに放り投げてしまって、春はひたすらに、味わうように堂崎の体温を感じていた。
堂崎もしばらくは春を抱き締めていたし、時折髪を撫でてもくれた。しかしどのくらい経ってからか、ふと肩を抱えるように離してから、こう提案してきた。
「少し座るか、春」
「……もしかして、疲れた?」
はたと気づいて聞き返すと、軽く苦笑いされる。
「違う。ちょっと、話したいことあるから」
「何?」
「座ってから話す。ほら、こっちだ」
春の手首を掴んで引っ張る堂崎。首を傾げながらも春は従い、カバンを拾って本棚の陰を抜け出す。
図書室には安っぽい緑色のパイプ椅子があり、堂崎はそれを二脚引いて、片方に春を座らせた。自分もすぐ隣に腰を下ろし、椅子の軋む音が短く響く。
隣り合って座ると、抱き締められた時とは違う距離がある。触れようと思えばいくらでも触れられるのに、体温を感じることは出来ない近さ。春は首だけを動かして堂崎を見つめ、堂崎は目の端で春を見やる。視線が絡まり合う一瞬。
それがふと、足元に落ちた。
「お前、何で裸足なんだ」
不意を打つ問いに、春はうろたえた。
「だって靴下濡れちゃったから」
「へえ」
答え自体にはさほど興味もない様子で、なのに堂崎はじっくりと春の足を見る。剥き出しのくるぶしをわざわざ覗くようにするからこそばゆい。恥ずかしいからやめてと春が口にするより早く、堂崎はふと呟いた。
「ちっちゃい足だな」
「そうかな、普通だよ」
「俺よりはずっと小さい。つくづく似てないよな、俺たち」
その言葉は、なぜか妙にうれしそうだった。