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この声は聞こえていますか?(5)

 堂崎は、春の反応を正しく受け取らなかったようだ。
 そこで宥めるような、柔らかい表情を見せた。
「心配すんな。今回は誰にも見つからないようにする」
 でも春からすればそういう問題ではなかった。堂崎家の敷居を跨ぐことは生涯ないと思っていたし、あってはならないと言われてもいた。自分はあくまであの家を出された人間。本当ならいてはいけない存在だ。
「駄目だよ、お兄ちゃん」
 春は大きくかぶりを振った。
「そんなことしたら怒られちゃう。私だけじゃなくて、お兄ちゃんも」
「わかってる」
「だったらどうして……」
「見つからなきゃいいんだろ、要は」
 兄はいつもと違い、春の『魔法の言葉』にも、懇願にも揺らがなかった。全く譲る気のない意志が口元に表れている。唇の両端を吊り上げた、自信に満ちた笑い方。
「別に正面から訪ねてこいなんて言ってねえよ。ちゃんとばれないように、俺の部屋に入れてやる」
「駄目だってば」
「何でだよ。何が悪い?」
 拒めば堂崎は訝しげに聞き返してくる。実際に何が悪いのかわかっていないのかもしれない。春をあの家に連れ戻そうとすら考えていたようだったから、それもわからなくはないのだが。
 兄の顔を見ているのが辛くて、春は視線を落とした。
「だって見つからないって保証はないし、それに――」
 膝の上に置いた手が、制服のスカートに縋る。
「あの家に私が行ったら、よくないことが起きるよ」
 プリーツを乱しながら皺を生む。兄とは違う小さな手。
「堂崎の家には、子供は一人しかいちゃいけないって。二人いたら駄目なんだって、不幸なことになるんだって、聞いたよ」
 降りしきる雨の音がこの図書室を外界から遮断していた。
 逢魔時とはよく言ったもので、暮れた雨空のもたらす薄闇と、閉ざされた廊下へのドア、微動だにしない本棚から伸びてくる無数の影がにわかに不気味さを掻き立てる。悪い夢に出てきそうな場所だ、と春は思った。さっきまでは違う風に見えていたのに、残酷な変化を遂げてしまった。
「それ、誰に聞いた?」
 頭上から兄が問う。春が答えるより先にもう一つ、
「桂木が言ったのか?」
 父親を呼び捨てにされ、春の背中はひとりでに震え上がった。
 が、狼狽を悟られないようにどうにか答える。
「うん。いろいろ、聞いたの。私があの家に戻れない理由とか」
 今度は兄がかぶりを振る。妹よりも控えめに。
「でたらめだ、そんなのは」
「でも昔、そうして死んじゃった人もいるって」
「それは金に目がくらんだ連中が、悪いことをしたってだけだ」
 堂崎は春の不安を捻じ伏せると、更にこう続けた。
「あの家には結構な金がある。だからおかしなことを考える連中がいて、人が死んだり不幸になったりした。それだけなんだよ。桂木は出来の悪いオカルトみたいな話を吹き込んだようだけど、信じるな」
 春も兄の言うことを疑う気はなかったし、そうなのかもしれないと思ってもいる。科学的根拠もない災厄を信じているのは馬鹿げているだろうし、あのしきたりにどこまで意味があるのかも本当のところはわからない。ただずっと言い聞かされてきたから、いつまでもいつまでも拭い去れないだけだった。

 あの家に生まれたきょうだいは、何代も何代も何代も続けて、一人きりしか残らなかった。
 不幸な出来事が幾度となくあった。つまらない諍いも絶えなかった。きょうだいの仲を引き裂こうとする人たちさえいた。堂崎家の歴史は世界の歴史の縮図のように、内に篭った恨みつらみと些細な軋轢と、取り返しのつかない争乱とで埋め尽くされていた。
 過ちを繰り返してはならない、春自身も思っている。それを解決する手段があのしきたりにしかないのなら、間違ってはいないだろうと思う。
 だが解決手段のはずのしきたりが、今度は堂崎の心を傷つけた。

「大体、俺たちはそうはならない。だろ?」
 不意に優しく顎を掴まれて、春は静かに上を向く。
 堂崎は手つきと同じように優しく、妹を見下ろしている。そこには恨みつらみなど影も形もなく、ただいとおしさだけが存在している。
「俺たちは金のことでなんか争わないし、ずっと仲良くやっていける。そう思うよな? だからあの家で一緒に暮らしたって何の問題もあるもんか」
 争いはしない。春もそう思う。
 兄と、財産のことで争うなんて考えたくもなかった。堂崎といられるなら何も要らないくらいだった。一緒に暮らせたら、と願ったことも一度ならずあった。
「いつか、二人で暮らそう。俺とお前は一緒にいなきゃ駄目なんだ」
 熱を帯びた堂崎の言葉を、それでも春は肯定しきれない。
 頷けない。
 頬に手を添えられたまま、俯けもせずに目を逸らす。
「もしかして、怖いのか?」
 妹の返事がないことに痺れを切らしたか、堂崎はからかいを含んだ声音で尋ねてきた。
 笑われると知っていても、春は偽らずに答えるしかない。
「怖いよ。……おかしい?」
「変だ。高校生にもなって、何が怖いって言うんだよ」
 それで兄は容赦なく笑ったものの、すぐに言い添えた。
「心配すんな。お前に何かあったら俺が守る、どんな奴が相手でもな」
 兄の手は温かくて大きい。春の髪も頬も大切なものみたいに撫でてくれるから、本当にどんなことからも守ってもらえそうな気がする。そこに自分の手を重ねたら、怖さが少しだけ薄れた。
 でも、完全に消えてしまうことはなかった。
「だから十四日のことは心配しなくていい」
 堂崎の話は結局そこへ戻ってしまう。
「むしろ、いい機会だから試してやればいい。俺たちが二人であの家にいて、本当に悪いことが起きるのか。しきたりがどんなに無意味で馬鹿げたものかって、一緒に証明してやろう。それで何にもなかったら、お前だって戻ってきやすくなるだろ?」
 頑なさも存分に窺える口調だった。
 春はいよいよどうしていいのかわからなくなり、目を伏せる。
「考えさせて」
 瞼で閉ざした青い世界にも、兄の声は追いかけてくる。
「いい返事以外は聞きたくねえな」
「なるべく頑張ってみるから。約束は出来ないけど、考える時間をちょうだい。お願い」
 考えなければいけないことはたくさんある。あの不気味なしきたりもそうだし、もしもの時に兄が叱られないように取り計らうこともそう。それから桂木の両親には知られたくなかったし、堂崎の父親には逆に打ち明けておくべきかもしれない。
 来週の土曜日までに一度聞いておこう。返事が出来るのはその後になりそうだ。
「……あんまり待たせんなよ」
 不満の色をありありと滲ませつつ、結局は堂崎も妹の申し出を受け入れた。
 つい、わかりやすく胸を撫で下ろした春に、ぼやいてみせるのも忘れなかった。
「俺は待つの苦手なんだよ。お前くらいだぞ、そうやって俺を待たせてのんびりしてられるの」
「ごめんね」
 済まない気持ちはあったから春は素直に謝った。
 だがそこで、その堂崎に待たされている人物のことをふと思い出して、
「お兄ちゃん、バレンタインにはたくさん貰った?」
「まあな」
 堂崎は自慢げとも皮肉とも取れる表情で答える。校内でも人気があるという兄のこと、一体いくつくらい貰ったのか気になったが、何となく尋ねにくかったのでやめておいた。
「だったらホワイトデーのお返しも忘れないでね。待ってる子がいるの、私、知ってるから」
 目が合った、とはしゃいでいた温子の顔がふと甦る。春はその時くすっとしたが、対照的に兄は笑いもしなかった。
「お前に言われるとは思わなかった」
「うん。お兄ちゃんのこと好きな人、いっぱいいるんだよ」
「どうだか」
 溜息交じりの短い呟きに、不信が見え隠れしていた。それを咎める気も追及するつもりも春にはなかったが、兄の負う傷の深さを思い知らされたようで胸が痛んだ。
 双子の妹が戻ってくるまで、堂崎は誰も好きになれないのかもしれない。

 図書室を出たのは午後五時になろうかという頃で、雨脚は弱まる気配もなく降り続いていた。
「送ってくか」
 堂崎はそう聞いてくれたが、春は平気、と断った。こんな悪天候の日に兄に遠回りをさせるのは嫌だったし、両親に見つかったらまた気まずいことになってしまう。それに、吉川たちの目も少々、気になる。
「じゃあまた、明日」
 春は兄に軽く手を振り、踵を返す。
 あれからずっと廊下にいたらしい吉川たちの前を通り過ぎる時、一応会釈もしておいた。返ってきたのは息を呑む音と痛いくらい突き立てられた視線だけだったが、それらは程なくして、容易く振り切れた。
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