携帯電話を握り締めて眠る夜(2)
水曜日の教室は緊張していた。昼休みらしい和やかさや騒々しさはかけらもなく、ひそひそ話だけがほうぼうから聞こえる。廊下のざわめきから壁を一枚隔てただけで、まるで別世界のように張り詰めている。
春の友人たちも同様で、弁当を食べながらもそれぞれ落ち着きがない。
「最近、よく教室にいるよね」
美和の呟きに、温子がうっとりと頷く。
「うん……本読んでるところも格好いいよね……!」
「別に。大体、本って言っても漫画でしょ」
二人の視線を辿るまでもなく、教室中の関心は堂崎一人に集中していた。皆が彼の様子を窺い、遠巻きにして見守っている。以前なら教室に居つくこともなかった彼を訝しく思う向きもいるようだ。
当の堂崎は注がれる視線も不穏な空気もどこ吹く風。自分の席で漫画雑誌をひたすら読みふけっていた。そういえば、教室に一人でいる時は大抵漫画を開いている。
机の上にはくしゃくしゃに丸められた菓子パンの袋と、側面がへこんでいるカフェオレのブリックパックがある。昼食はもう終えたらしい。
「堂崎くんもコンビニでご飯買うんだ」
静乃が何気ない調子で言えば、美和と温子も堂崎の机の上に目をやって、それからひそひそ話に戻る。
「買うんだね。何か、意外な感じ」
「いいなあ、どこのコンビニに行けば運命的に会えるのかなあ」
「会うだけならいるじゃない、すぐそこに」
美和は堂崎を顎で示す。もっともその動作はごくごく控えめで、一緒に机を囲んでいた春たちにもかろうじてわかる程度だった。
「ここで話しかけるのはさすがにね」
温子の声も普段より小さい。日頃から堂崎への好意を公言してはばからない彼女も、当人の前では目立った行動が取れないらしい。それは周囲の視線を意識してのものでもあるだろうし、堂崎自身に対し、多少は恐れる気持ちが存在するということでもあるのだろう。
「あ、あんまり見ない方がいいよ。違う話しよ」
おとなしい静乃に至っては、堂崎がちょっと首を捻って見せた程度で怯え出す。こっちを向いたわけでもないのに目を逸らそうとするから、春はいささか複雑だった。
教室の中でも堂崎と話せたら、そうは思ってもこんな空気の中では、クラスメイトらしい会話さえ人目について騒がれてしまうだろう。まして二人が兄妹であることは誰にも秘密だ。友人たちにも打ち明けられないのがもどかしい。
せめて堂崎がこのクラスに溶け込めればいいのだが、授業中に騒ぎを起こしたり教師に悪態をついたりするような生徒では誰も仲良くはしてくれない。最近はサボりも減ってきたとは言え、まだ悪印象を払拭するには程遠く、皆も遠巻きに観察しては憶測混じりの噂を囁き合うばかりだ。
春も兄を悪く言われるのは気分のいいものではなく、けれど悪く言われても仕方がないのだと理解してもいる。ひとまず昼休みまで教室にいてくれるだけでもよかったと思うことにして、静乃に倣い、話題を逸らそうとした。
「そうだ、違う話って言えば――」
その時、教室後部の戸が開いた。
美和と温子と静乃が一斉に春を見る。が、春の目は開いた戸口に引き寄せられた。
現れたのは、髪をオールバックに固めた男子生徒。
髪型には覚えがなかったが、顔は確かに覚えていた。
彼は戸の隙間に顔を突っ込んで、
「堂崎さん!」
名を呼ぶなり無遠慮に立ち入ってくる。
すかさず堂崎は顔を上げ、教室内は息を呑むように静まり返り、驚く春の傍らでは美和がぼそりと声を漏らした。
「……腰巾着」
――吉川さん。
正月、春の家に現れて、堂崎からのプレゼントを届けてくれた人物だ。あの時は前髪がやけに長いように思えたが、今の髪型を見ればそれも納得出来る。整髪料でてかてかしている頭が慌しく教室を動いて、堂崎の席まで近づいた。
そして困り果てた様子で言うには、
「堂崎さんもう漫画読みました? そろそろ返してくださいよ! 昨日買ったばっかなんすよそれ!」
吉川の口調は同い年に対するものではなかった。舎弟と名乗った彼の言葉はどうやら本当のことらしい。春はますます複雑な思いで、彼と兄とのやり取りを見守る。
「貸しとけって言ったろ」
堂崎の返答は短く、ぶっきらぼうだった。雑誌は一応閉じたが、机の上に頬杖をついて面倒くさそうに応対している。
「いや貸すのはいいんすけど! でも俺まだ読んでないですし、いつまで読んでんのかなって……」
反論しようとする吉川の声がだんだんと萎んでいく。堂崎が睨みを利かせているからだろう。それでも教室まで訪ねてきたからには簡単に引き下がれないらしく、尚も言い募る。
「大体、今までは漫画なんか読まなかったじゃないすか。何で最近になって――」
「黙れ」
舌打ちをしたのが聞こえたかが早いか、堂崎は閉じた雑誌で吉川の額を叩いた。いてえ、と呻いてしゃがみ込む吉川を尻目に堂崎は席を立ち、それからふと、こっちを見た。
春の顔を見た。
目が合った時の兄の表情は何とも判別しがたく、強いて言うなら弁解するような面持ちに映った。気まずげなのは間違いない。ただ、それ以上を読み解くには時間が足りなかった。
堂崎はやがて目を逸らし、雑誌を片手に教室を出る。
「ま、待ってくださいよ堂崎さん!」
それを追いかけようとした吉川も、一瞬だけ春の方に目を留めた。
気づくかな、と身構えた春に対し、吉川は――多分、気づいたはずだ。まるで見てはいけないものを目撃したように顔を引きつらせて、振り払うスピードで堂崎の後に消えていった。
教室の緊張が弛緩したのは、その十秒後のことだ。
「戻ってくるかな、堂崎」
温子が切なげに溜息をつく。
「来ないんじゃない」
対する美和の返事は愛想がない。ただ表情からは安堵が窺えた。
春は何か言うべきか、何を言うべきかを少し迷う。堂崎は戻ってくる。単なる願望ではなく、兄を信じているからこそそう思う。ただ春の口からそれを告げたところで、秘密がある以上は憶測に過ぎないと受け取られるだけだろうし、友人たちの堂崎への印象を変えることも出来ないだろう。
そこへ、
「戻ってくる、と思うよ」
まだ怯えの色を見せる静乃が、おずおずと口を開いた。
「どうして?」
「え、どうしてって……」
春は真っ先に反応してしまい、静乃を驚かせたようだ。目を見開かれたのでひやりとする。
しかし、
「私も気になる! どうしてそう思うの?」
「来るはずないじゃん、堂崎だよ?」
温子と美和が相次いで食いついてきたので、春の反応の素早さもそう不審ではなくなったはずだ。やがて静乃は表情を和らげ、こう答えた。
「なぜかはわからないんだけどね、堂崎くん、水曜日はサボらないの」
「……そうだっけ?」
「うん。いつも水曜は、五限が体育の日は、最後までいるの。それ見て私、不思議だなって思ってたの」
静乃の言葉は真実で、堂崎は水曜日の授業をサボることはほとんどない。春は知っていた。
というのも、毎週水曜日と土曜日には習い事があるからだ。堂崎家の当主として相応しい立ち振る舞いを身につけるべく、茶道を学んでいるのだと聞く。堂崎と茶道を結びつけて考えられる人間はあまり多くないだろうし、堂崎本人も似合わないと思っているらしい。気乗りしないと何度も口にしていた。
が、春の役目はそんな堂崎を励まし、宥めることでもある。一度『お兄ちゃんがお茶を点ててるところを見てみたい』と言ったら効果はてきめん、堂崎は習い事を怠けなくなったようだし、ひいては水曜日の放課後に備えて学校から逃げ出すこともなくなった。どうも兄に対しては、小言よりも誉め殺しの方が効くらしいと遅まきながら知る。
「そっか。水曜日、何があるんだろうね」
ともあれ、温子が興味深そうに言ったので、春もそ知らぬふりで語を継いでおく。
「体育があるからじゃない? ほら、男子って運動好きな子多いし」
「それと保健体育もね」
美和がにやっとすれば、静乃は急に真っ赤になってしまい、一方の温子は平然と手を挙げる。
「あ、私も好きー! これだけはいつも満点だよ」
「あんたそれ威張って言うことじゃないから」
「何で? 一応授業のうちなのに」
「他の科目も同じくらい熱心にやれってこと!」
温子と美和がじゃれ合うのを、春も笑いながら見ている。気がつけば教室には昼休みらしい和やかさと騒々しさが甦っていて、だがそれももうじき終わると知っていた。堂崎は必ず戻ってくるだろうし、そうするとまた教室の空気は変わってしまうのだろう。そんな中では堂崎だって、きっといづらいことだろう。だから吉川から漫画を借りて、ずっと読みふけっていたのかもしれない。
そこまで考えた時、教室の戸が再び開いて、堂崎は一人で戻ってきた。手にはさっきとは違う雑誌が握られている。あれも吉川のものだろうか、再び緊張する教室の中、春はそわそわと気を揉んでしまう。
そういえば、あの人にはお礼もまだ言ってなかった。吉川の姿を見たのはまさに正月以来で、校内で顔を合わせる機会があればと思っていたのに、どういうわけか一度もなかった。さっきの反応を見る限り、どこかで偶然会っても避けられそうな気はするが、お礼くらいはちゃんと言っておきたかった。
彼がいなければ、あの携帯電話は届かなかったのだから。