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携帯電話を握りしめて眠る夜(1)

 堂崎新を初めて見た時、春は少し驚いた。
 写真だったせいかもしれないが、自分とあまり似ていないように見えた。双子だから、どこかには似たところがあるだろうと予想していたのに。
 写された景色は立派な日本家屋の門構え。誰の屋敷か、この近辺で知らぬ者はそういない。門の前に羽織袴姿で直立した堂崎は十五歳にしては刺々しい雰囲気をまとっていた。面立ちこそ凛々しく整ってはいるものの、眼差しには隠し切れない冷たさがあった。晴れの日に撮った写真だろうに、愛想笑いの一つもせず、何もかもを撥ねつけるような頑なさでカメラを睨んでいる。
 写真の彼をしばし眺めた春は、乾いた気持ちでいた。
 ――この人が、私のお兄さん。
 言い聞かせるように胸裏で呟いたが、実感はなかなか湧かなかった。

 写真を貰ってからひと月も経たぬうち、春は高校に入学し、そして本物の堂崎と顔を合わせた。
 教室に入っていった春を、先に来ていた堂崎が見つけた。春も写真と同じ顔にすぐ気づけた。彼がその時自分の顔を知っていたのかどうか、春は知らないし、本人に尋ねたこともない。ただ目が合って、視線が絡んで、やがて逸らされるまでの数秒間も、春は兄と再会したという実感を持てずにいた。
 再会という言葉も正しくはないのかもしれない。双子が一緒にいたのは生まれてすぐのわずかな時間だけで、赤ん坊のうちに春は里子に出され、以降は会うこともなかった。兄の存在は養父母から教えられていたが、同時に住む世界が違うことも諭されていたから、春自身はそれまで一度として再会を望まなかった。
 だが堂崎の方はそうではなく、入学式の後すぐに接触を図ってきた。高校の生徒玄関、与えられたばかりの春の靴箱の中に、丁寧に折り畳まれメモが突っ込まれていた。中には走り書きの地図と『ここで待ってろ』と短いメッセージが記されていて、隅の方に名前も記されていた。兄の名が。

 指定されたのは古い団地の谷間にある、ひっそりとした児童公園だった。
 四月の午後は風が強く、申し訳程度に植えられた桜が淡い花びらを地面に散らしていた。遊ぶ子供の姿はおろか、通りかかる人の姿さえないような静かな場所だった。春はそこで兄を待ち、三十分ほど経ってから、堂崎新は制服姿のまま、一人きりで妹の前に現れた。
 最初は言葉もなかった。春は見慣れない兄の顔と、実感のないその存在とに戸惑い、何を言うべきかわからずにいた。会ったらどんなことを話そうか、どう接そうか、何度も考えていたのに、いざとなると声さえ出せなかった。
 一方の堂崎も挨拶すらせず、口を結んだままで、立ち尽くす春を見つめ続けていた。表情は硬く、目つきは鋭く、写真と同じように冷たい人に見えた。正直に言えば、その時は兄が少しだけ、怖かった。
 だが、堂崎が手を伸ばして春の手を取った時、その冷たさも恐怖も全てかき消えた。
「俺がわかるか、春」
 意外なくらい優しい声で彼は尋ねた。
 春が黙って頷けば、彼は泣き笑いの表情を数秒だけ見せ、じきに温かい手で春を抱き締めた。最初は包むように軽く、春が嫌がらないとわかると、そのうちに力を込めて強く。
 本物の堂崎は写真から想像していたよりも背が高く、肩幅も広かった。そういうところも春とはまるで似ていなかった。
 春の短い髪に顔を埋めるようにして、やがて堂崎は呟いた。
「やっと、手に入れた」
 兄にされるがまま、棒立ちになっていた春は、そこでようやく口を開いた。喉に何か張りついたようで上手く話せなかったものの、どうにか搾り出した。何を、と問い返した。
 すると彼は震える声で、こう答えた。
「昔からずっと、俺には何かが足りなかった」
 どこか懐かしい匂いがした。ずっと顔も知らない相手だったのに、口を利いたのもこの瞬間が初めてだったのに、抱き締められるのが嫌ではなかった。それどころか戸惑いは次第に鳴りを潜め、乾いた心には何かがじわりと満ちてくる。
「昔からずっとだ。俺の中で何かすごく大切なものがなくなってて、ぽっかり穴が開いたようになってて、なのに何が足りないのかを誰も教えてくれやしなかった。何を手に入れたらそんな気持ちじゃなくなるのか、いつも知りたかった。足りないものが欲しくて、欲しくて、しょうがなかった」
 堂崎は堰を切ったように語る。
「でも、これでわかった。俺に足りなかったものが何か。欲しかったものが何か。お前の顔を見た時にわかった。こうして会って、一層確信出来た」
 もう一度、春の手を取る。似ていない指が絡まり合って固く繋がり、手のひらが熱を分け合う。どこまでが自分の手で、どこまでが彼の手かわからなくなる。
「春。俺にはお前が足りなかった」
 兄の言葉に、春は瞬きをする。堂崎は今度は力強く笑う。
「会えてよかった。これからは、ずっと一緒だ」
 ちくりと春の胸が痛んだ。
 間違いなく兄は、この再会を偶然だと思っている。春が彼の為に同じ高校へ進んだことも、そうさせたのが堂崎家の人間だということも気づいていないはずだった。彼を欺いているという事実が、思っていた以上に心を軋ませる。
 だが同時に、満ち足りた気分でもあった。
 堂崎が語った渇望を、春はなぜか理解することが出来た。今まではそんなことを思いもしなかったのに、とてもよくわかるような気がした。足りないもの、欲しいもの、欠けてはならない大切なもの。答えは全て繋いだ手の中に、あるいはすぐ目の前にある。
 春は兄に向かって笑んだ。初対面の相手に笑いかけるなんて得意なことではなかったのに、堂崎に対してだけは上手くいった。うれしくて自然と口元が綻んだ。うれしかったから、幸せだったから、初めてでもちゃんと呼べた。
「お兄ちゃん。私も会いたかったの」


 そして今、双子は揃って十六になった。
 再会を果たした入学式からもうじき一年が経つ。この年月は平穏なばかりではなく、春にとっては幸せなばかりでもなかった。気の休まらない日も幾度となくあり、例えば素行不良の堂崎には常に留年の危機がつきまとっていて、春は毎日のように兄を叱咤激励し、授業や期末考査へ意識を向けさせることに力を尽くした。
 結果、双子は一緒に進級出来ることになったのだが、胸を撫で下ろす春をよそに、堂崎は泰然としたものだった。
『ま、ちょっと本気出せばこんなもんだって』
 得意げな声が電話の向こうから聞こえてくる。春は見えもしないのに笑みを噛み殺し、わざと語気を強めた。
「なら、いつも本気でやってくれたらいいのに」
『それだとありがたみがなくなるから無理だ。こうでもしなきゃお前だって、俺のこと見直してくれねえもんな?』
「そもそも見直さずに済む方がいいと思うんだけどな……」
 堂崎は決して頭の悪い人間ではないし、成績自体も優秀といえるラインをぎりぎりキープしている。しかしサボり癖の方は頭の出来ではいかんともしがたく、結局年明け以降も春をやきもきさせたり、言いたくもない小言を口にさせたりする羽目になった。
『春もそういうとこは女なんだよな』
「それ、どういう意味?」
『いちいちがみがみ言うとこ、普通の女と一緒なんだなって。お説教とか好きだろ、お前』
 彼の中の女性像が窺える物言いに、春はこっそり溜息をつく。これでも同じ高校の女子たちからは人気の高い堂崎だが、彼自身はあまり興味がないらしいそぶりだった。もっとも、名家の跡継ぎとして日々を過ごす彼のこと、他人に目を向ける余裕がないだけかもしれないが。
「私だって怒りたくて怒ってるんじゃないよ。お兄ちゃんとはもっと楽しい話がしたいのに」
 拗ねたように言ってみれば、堂崎の声がいくらか動揺した。相手の顔はもちろん見えないが、手に取るように伝わってくる。
『あっ……いや、それはわかってる。俺だってそうだし、だから今回だって頑張ったんだろ。別にお前に怒られたいとか思ってるわけじゃねえし!』
 魔法の言葉の効果はてきめんだ。春はまた笑いを堪える。
「私が心配してるって、ちゃんとわかってる?」
『当たり前だろ、馬鹿』
「二年生になったら、もういちいちがみがみ言わなくても済むかな?」
『……頑張る。しょうがねえから』
 渋々答えた堂崎が、すぐに溜息をついた。
『じゃあ、そろそろ電話終わりにするか。風邪引くとまずい』
「私なら平気だよ」
 春は即答したが、唇は震え、手はかじかんでいる。三月の屋外はまだまだ肌寒く、埃っぽい風がしきりと吹きつけていた。今度は堂崎が溜息をつく。
『平気って声じゃねえだろ。いいからとっとと帰れ。俺だって心配してんだぞ、春』
「うん……」
『また電話してやるから。明日――は水曜だから無理だけど、明後日はする。約束してやってもいい』
 不真面目なところもあるが、堂崎は約束を守ってくれる人だった。春は名残惜しさを断ち切るように頷く。
「うん。待ってるから」
 耳元で笑う声がした。くすぐったい響き。
『待ってろ。じゃあまた明日、学校でな』
「またね、お兄ちゃん」
 春も、声に精一杯の気持ちを込めて、別れを告げる。
 通話が終わり、春の手には真新しい携帯電話だけが残る。春の目には、去年の四月からずっと寂れたままの、児童公園の景色が映る。蕾の膨らみ始めた桜は、しかしまだ寒々しい。

 堂崎のいない時も、春はよくこの公園に足を運んだ。
 思い出の場所だからというのも理由のうちではあるが、単にここが人気の少ない辺りだから、そのことが一番大きかった。
 誕生日に贈られた携帯電話を、養父母はもちろん、クラスの友人たちにも隠しておかなければならなかった。この電話はあくまで堂崎専用で、他の人間と繋がる為のものではない。だからこうして、人目につかないところで電話をする。冬のうちは寒い思いばかりしていたが、それももうじき終わりだ。四月が来る。
 兄のくれた携帯電話は、桜のような淡いピンクだった。春らしい色を選んだと彼は言っていたが、それが季節のことなのか、自分のことなのか、春は聞くのを忘れていた。
 ただどちらにしても、好きだと思った。
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