Tiny garden

幸せのはじまり(2)

 楽しい年末年始もまたあっという間に過ぎ去ってしまった。
 だが嘆く必要はなかった。仕事始めを迎える一月四日の朝、一人きりの部屋で寂しく出勤の準備をしている俺に、帰ってしまったはずの園田からメールが届いた。
『お弁当持っていったら食べる?』
 俺の彼女は最高だ。
 きっと俺が、正月休みが終わってしまって多少落ち込んでいることも、園田が帰ってしまったせいで一月の寒さがひときわ身に堪えていることも、昨日別れたばかりだというのにいっそ仕事でもいいから早く会いたいと思っていることもお見通しなのかもしれない。そんなタイミングでのこの気遣い、心が打ち震えた。もう今年は幸せなことしか起きない予感がする。
 もちろん即座に返信した。
『それはもう喜んで食べる』
 そしてネクタイを締めながら、もうじき顔を見られる彼女と、彼女が作ってくれたという弁当の中身に思いを馳せた。
 愛妻弁当と言ったらさすがに気が早いかな。でもまあ、愛が詰まってるという意味では実質同じようなものだろう。いただく時は顔が緩んでいるところを誰にも見られないよう、細心の注意を払う必要がありそうだ。

 弁当の受け渡しについて、俺は最初、会社で渡してくれればいいよと言った。
 だが園田は恥ずかしがり、できれば外で渡したいと頼まれた。俺は誰に見られようと構わないしむしろ見せびらかしたい気持ちでいたのだが、園田には会社最寄り駅の前で落ち合うことを提案された。今日の天気予報は曇り時々雪、朝晩は路面凍結の恐れがある為、彼女も電車で出勤するそうだ。
 帰りも一緒に帰れるかもしれない、と俺は密かに期待を寄せている。

 駅に着いたのは彼女の方が先だった。ラッシュを避けたいからとかなり早い便に乗り込んだようで、コンコースで辺りをきょろきょろしながら俺を待っていた。ファー付きのモッズコートと白い細身のパンツ、それに膝下丈のブーツという服装には既視感を覚えた。前にもこんな格好でいるところに出くわしたような――サイクルウェアじゃない園田を見るのも新鮮だった。勤務用のしっかりしたメイクとも相まって、まるでめかし込んできたみたいに映った。
 俺は足早に改札を抜けると、こちらに気づいて振り向いた彼女に声をかけた。
「おはよう、園田」
「うん、おはよ」
 園田が笑って、軽く手を挙げる。
 いつもの明るい笑顔とは違い、今は照れたような顔をして俺を見ている。年末年始の間ずっと一緒に過ごし、眺めてきた顔ではあったが、一夜明けてからの再会には懐かしさすら覚えるから全く俺の心もオーバーなものだ。もはや彼女を片時も離したくなくてしょうがなくなっているようだった。
 再会に浮かれる俺がいそいそと駆け寄れば、園田は小さな紙袋を差し出してきた。
「これ、例の品」
 その物言いは何だか意味深長だ。俺は受け取りながら吹き出す。
「何か怪しい取引でもしてるみたいだ」
「秘密のブツのやり取りには違いないよ」
 彼女はそう言ったが、駅の構内だって人目はあるし、今こうして受け渡しをしている状況だって誰に見られていないとも限らない。仕事始めの日だからいつもより早く出勤しよう、なんて考える奴は大勢いるだろう。だからここだって安全な引渡し場所であるとは言えないわけだ。
 だから園田ももう、完全に隠すつもりはないのかもしれないと俺は踏んでいる。昔のようにこそこそする必要もないし、意味もなくなるとわかっていて、こんなふうに落ち合う約束をしたのかもしれなかった。
「一応、レンジで温めてもいいお弁当箱だけど」
 園田が紙袋を指差したので、俺は紙袋を見下ろしてみた。
 うぐいす色の巾着が入っていたが、口がきつく絞られているので弁当箱までは見えない。もちろんその中身も窺い知れなかった。彼女が作ってくれたものだ、どんなメニューでも美味いに決まっているが。
「あんまり温めすぎると爆発するからほどほどにね」
 だが彼女がまるで脅かすように語を継いだので、信頼しているとは言えぎょっとした。
「爆発? 一体どんな献立なんだ」
「豆腐のおかずだよ。美味しかったから楽しみにしててね」
 彼女が満面の笑みを浮かべる。正月休みが明け、憂鬱で気だるいはずの仕事始めの朝。だというのに彼女の笑顔は眩しいくらいに輝いている。きっと弁当にも自信があるのだろうし、俺と同じように俺と会えて嬉しい、なんて思ってくれているのかもしれない。
 俺もつられたように気分が晴れるのを感じた。
「そういうことか。わかった、期待してるよ」
 もう一度中身を確かめた後、俺は新年にふさわしい清々しい気持ちで彼女に笑いかけた。
「じゃあ、一緒に出勤しようか」
 言いながらふと、会社で弁当を受け取っていたら誘えなかったんだよな、と思う。園田にそういう意識があったかどうかは定かではないが、俺達は無意識のうちにできるだけ長く一緒にいられる手段を選んでいた、という可能性もありそうだ。
 何にせよ、仕事始めの日から彼女と一緒に出勤なんて、もしできたら縁起がいいことこの上ない。
「そうだね」
 園田も大きく頷いてくれた。軽い足取りで俺の隣に並んだ後、俺に向かって恥ずかしそうに微笑んだ。心なしか甘えるような、柔らかい口調で続ける。
「じゃあ、ぼちぼち行こっか。これから駅も混み合うだろうし」
「ああ。……せっかくだから腕でも組む?」
「組まないよ。遊びに行くんじゃないんだからね、安井さん」
「新年早々真面目だな。俺はこのまま二人でどこかに行きたい気分なんだけど」
 俺がそう言ったら、園田は軽く目を見開いてから明るい笑い声を立てた。
「やだな、正月ボケ? 課長さんが新年早々さぼっちゃ駄目じゃない?」
 いつしか彼女は俺の操縦方法も身に着けつつあるようだ。どう応じようかと考える俺に、とどめを刺すみたいに言ってきた。
「それに頑張った後の方がお弁当が美味しいよ。どうせなら私も、美味しく食べて欲しいな」
 園田は額面通りの意味で口にしたようだったが、正月ボケの頭には割と刺激的な台詞だった。
 そんなことを言われてしまったら頑張らないわけにはいかない。頑張って次の連休をより美味しく過ごすのだ。

 駅舎を出た俺達は、会社目指して歩き始めた。
 外の空気は冷え切っていて、息をすると頭の奥まできんと冷たくなるようだった。天気予報で言われていた通り、白い雲が広がる空からは綿のような雪が舞い落ちていた。歩道の端には早くもうっすら積もり始めており、帰りのことを考えると憂鬱だった――いや、雪のお蔭で今、こうしていられるのか。
「今朝も寒いね、雪降ってるし」
 俺の隣を歩く園田が、白い息と共に呟いた。
「こう寒いと、出勤するのが億劫になるな」
 同意を示した後でふと、今の会話に懐かしい感覚が過ぎる。

 あれは、今からちょうど一年ほど前、去年の一月十日のことだ。
 俺は霧島の結婚式を控え、披露宴後をどう過ごすかで頭を悩ませていた。そして園田に、まだ未練があった。結婚式の二次会を口実に彼女を誘えないかと思っていて、しかし現実にはそういった踏み込んだ話をすることさえままならないような状況だった。
 そんな折、一月十日の朝に、この会社へ続く道の途中で俺は、同じく出勤途中の園田の後姿を偶然見つけることができた――。

「前にもこんな話したな、一緒に会社行きながら」
 俺が告げると、園田もすぐに思い出したようだ。
「そういえばそうだったね」
 あの時も、俺が声をかける前に振り向いた園田は、俺を見てこんなふうに瞬きをしてみせた。すぐ後ろまで近づいていた俺に驚いていたようだったが、その割に俺が隣を歩くことをすんなりと受け入れてくれた。多分、何の意識もされていなかったのだろう。
 だが俺からすれば、あれは長い間待ち望んでいた千載一遇のチャンスだった。
「あの日、園田の誕生日だったよな」
 俺は記憶を巡らせながら彼女に語った。
「会えたらいいなと思ってたけど、本当に会えて嬉しかった。おめでとうは朝のうちに言えなかったけどな」
 結婚式のことで頭がいっぱいになっていた俺は、その言葉を口にできなかった。
「私がコンビニに寄ったからね」
 園田も懐かしむように相槌を打ってくる。
 そうだった。俺が結婚式の二次会についてどう切り出そうか考えていたら、急に『コンビニ寄るからここで』なんて告げられて、結局何も言えないまま見送るしかなかった。その後一人になってから、せめて誕生日おめでとうくらいは言っておけばよかったと悔やんだ気持ちが昨日のことみたいにまざまざと蘇ってきた。
「俺のこと避けてただろ、あの頃」
 あの時思ったことを、今だからこそ俺は尋ねた。
 顔をくいっと上げて、園田が俺を見上げてきた。ブーツのヒールをもってしても到底埋まらない身長差が、あの頃はまるで途方もないもののように思えた。
「そんなことないよって言いたいとこだけど、そうかも」
 彼女は素直に認めると、ほうっと白い息をつく。
 今となっては傷つくような話でもないのだが、やはり少しだけ、胸に痛い言葉だった。
「おかげで言い損ねた。おまけに園田が普段と違う格好をしてたから、焦ったよ」
 俺は今日の園田の服装を見下ろしながら続けた。
 ちょうど今日と同じだった。モッズコートに白いパンツに膝下丈のブーツ。普段の園田はあのぴっちりした、スポーツ用素材でできたサイクルウェアを着ているから、そうじゃない服装は全部特別仕様に見えてしまう。誕生日にめかし込んで歩いていたとなれば気になるのも当然のことだ。
「何で焦るの?」
 園田が怪訝そうに眉根を寄せる。
 何でって、聞かなければわからないことだろうか。あの頃一人でやきもきした俺の不安を返して欲しい。
「誰かと約束でもあるのかと思うだろ、誕生日だし」
 それで俺が渋々打ち明けると、園田は俺の懸念がおかしいとでも言うように唇の両端を吊り上げた。にまにまと笑いそうになるのを堪えているのがわかる顔だ。どうやら園田のような子でも、自分が意中の相手を振り回したとわかると嬉しくなったりするものらしい。全く、人の気も知らないで。
「人を振り回しといて喜ぶんじゃない」
 俺が睨むと、彼女は笑んで応じる。
「そんなの、あの時はわからなかったから無罪だよ」
 園田が笑う度に短い髪がふわふわと揺れ、そこに舞い落ちる白い雪が止まる。綿毛のような雪とその雪が溶けた後の光る水滴をくっつけた彼女の髪は、今朝もとてもきれいに見えた。風邪を引いてしまわないか、少し心配にはなったが。
「でも、後で言ってくれたよね。誕生日おめでとうって」
 思い出話は続く。

 彼女が俺を避けるようにコンビニへ向かい、一旦は打ち切られたと思ったあの朝の会話は、しかし運よくその日の帰りに引き継がれることとなった。
 退勤しようとした俺は同じように帰り際の園田ともう一度偶然出会い、彼女の誕生日を祝うことができたし、彼女が誰かと約束をしたわけではないと知ることもできた。実に三年ぶりに駅まで一緒に歩いた俺達は、あの夜から少しずつ失くしたものを取り返していった。
 今思うと、ああいうのを運命と言うのかもしれない。

「お前が誕生日に残業してるなんて思わなかったからな。あの時は嬉しかった」
「私もだよ。びっくりもしたけど」
 園田が目を細めてはにかむ。
 確かに、あの時の園田はすごく驚いていた。俺が誕生日を覚えていると知った時でさえ、魂が抜け出たみたいな顔をしていたほどだ。駅で別れる前に告げた『おめでとう』の言葉には動揺さえしていた。だがその後で照れたように微笑んでくれたことも覚えている。
 もうじき、一月十日がやってくる。去年とは違う誕生日になることはもう決まっている。園田にとって、これまでで一番幸せな誕生日にしてみせたいとも思う。
「園田、今年の誕生日は何をする?」
 俺は我が事のように浮かれながら園田に尋ねた。
「何せ三連休だからな。どこか出かけるにしても十分すぎるほど時間がある」
 三連休の全てを二人で過ごすことはもう決めていたが、どう過ごすかはまだ決めていなかった。こればかりは誕生日を迎える彼女自身の希望を優先したかったからだ。
「ちょっと遠出して小旅行でもいいし、何なら出先で泊まってきてもいい。この辺で遊び歩くでも、食べ歩くでもいいよな。お前がそうしたいって言うなら、また豆腐料理の美味い店でも見繕っておくよ」
 次々と案を述べてみる。
 俺からすれば園田が喜んでくれさえすれば何をやってもいいと思っている――ああ一つだけ、忘れてはならないのが一月九日の指輪の引き取りだ。それさえクリアできれば小旅行だろうと外食でのお祝いだろうと構わない。あとは園田が感激してくれそうなタイミングで指輪を渡すだけだ。
 ブーツの靴底をこつこつ言わせて歩く園田が、難しげな顔をして考え込む。
「まだこれと言って希望はないけど……最近あんまり遊べてなかったし、軽く遊びに行きたいかなあ」
 彼女が口にした希望は、思ったよりも地味なもののようだった。
「映画でも見に行って、お茶飲んで、帰りにちょっとウィンドウショッピングして、みたいな」
 しかし地味だからといって魅力的でないわけでもない。
「映画か」
 俺も彼女の言葉を繰り返しながら考えてみる。
「昔は映画館に行ったことなかったよな。何か観るってなったら、いつもお前の部屋だった」
 俺も園田も映画を見るのはそれなりに好きだったし、映画の趣味も割と似ていた。とにかく単純な筋書きですかっとするようなアクション映画が好きだった。だがせっかく趣味が似通っているというのに、二人で映画館へ足を向けたことはなかった。
「誰にも内緒って関係だったからね。会社の人に見つかったら困るって思ってたし」
 園田が相槌を打つ。

 映画館にも行けない代わりに、よく彼女の部屋で映画を見た。
 園田の手持ちのDVDを見ながら――いや、見向きもしないことが多かったかもしれない。二人きりでいるのをいいことに、俺はよく園田にちょっかいをかけた。それはそれで楽しかったから、俺も無理をして映画館に誘うこともないかと思っていた。
 だが俺にも都合がいいからと園田の要望に合わせていたせいで、俺達の関係は危うくなかったことになってしまうところだった。

「隠しておいたせいで、かえって遠回りさせられた気がするけどな」
 俺は自分を戒めるように首を竦めた。
 今はもう人目を忍ぶ必要もない。それどころか、少しは積極的に広めていくのがいいと思う。そうすればもう二度と、なかったことになることもあるまい。
 そして園田が行きたいというのなら、初めての映画館デートというのも悪くはない。映画館の中は暗いから、それはそれで都合がよさそうだった。何に都合がいいのかというのは説明するまでもないだろう。
「なら今年の誕生日は堂々と手でも繋いで、映画館デートでもしようか」
 改めて提案すると、園田も大きく顎を引く。
「いいね、それ。観たいものがあればだけど」
 手でも繋いで、というところが否定されなかったのは嬉しかった。
 となると後は、何を見るかだ。俺達の映画の趣味はよく似ているが、デートとなればやはり向き不向きがある。まして俺の方に彼女にはまだ内緒の企てがあるのだから――鑑賞作品は十分に吟味しておく必要がある。下調べもせずに見た映画が悲恋ものでは何と言うか、縁起が悪いだろう。
「上映情報を調べておくよ。あとでメールする」
 俺の方から申し出ると、園田もすんなり答えてくれた。
「わかった、ありがとう。楽しみにしてる」
 こんな具合に俺達は一月十日の計画を立てながら、会社までの道を歩いた。

 表向きは二人で共通の目的を果たそうとしているようだったが、その裏では園田の知らない計画も進んでいた。当然ながら彼女には、一月十日までそれを知られては困る。当日まで気を抜かずに推し進めなければならない。
 一月四日。決行の日まで、あと一週間を切っていた。
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