幸せのはじまり(1)
仕事納めまでの三日間は、クリスマスの甘い記憶だけで乗り切った。目覚めた朝、あるいは仕事を終えて部屋へ戻った夜、彼女がいないことを酷く寂しく思った。
暖房が点いていない部屋は寒くて、ここに園田がいてくれたら部屋が暖まるまで抱き締めているのにな、と何度となく考えた。乗り切ったとは言ったがたった三日間が俺には随分とじれったく、長いものに感じられた。
そして仕事納めが済んで休みに入った途端、俺は勤務中よりも迅速に部屋の大掃除を済ませ、彼女を迎え入れる準備を整えた。
園田とは年末年始を一緒に過ごす約束をしていて、彼女も大掃除を終えたら連絡をくれることになっていた。そうしたら俺が車を飛ばして彼女を迎えに行くわけだ。
もっとも俺の場合、大分前から部屋は片づいていたので大掃除もさほど時間がかからなかった――園田といつでも一緒に住めるようにと部屋の片づけを始めたのは十一月、俺の誕生日が来る少し前のことだった。すっかり準備ができてしまったまま、俺の部屋は彼女を待っている。
俺の方はやはりじっと待ってはいられなくて、園田から連絡が来る前にジュエリーショップに行き、さっさと指輪の注文を済ませた。
園田の指のサイズは四年前と一つも変わっておらず、彼女に似合う色もまた同じだった――あの自転車の色と同じ、明るいオレンジ色のマンダリンガーネットにした。園田が一月生まれだからガーネットがいいと思っていたのだが、店員から『こういったお色もございます』とマンダリンガーネットを見せられた時、これしかないと直感した。
園田にはオレンジ色が似合う。自転車のサドルやホイールの色、彼女がよく着ているサイクルウェアの色、天気予報の晴れマークの色。何よりも明るく、朗らかに笑ってくれる彼女には他のどんな色よりもオレンジが似合うと思った。
指輪の仕上がりは通常なら一週間後という話だったが、年末年始を挟む為少しずれ込んで一月九日になるとのことだった。彼女の誕生日の前日だ。少しまずいことに一月八日は土曜、一月十日は成人の日で三連休になっている。俺はその連休を全て園田と二人きりで過ごすつもりでいたから、指輪を引き取りに行く際は細心の注意を払わなくてはならない。
どうせ渡すなら一月十日がいい。だから九日に一人で受け取りに行き、十日までどこかにしまい込んでおくつもりだった。どうやって彼女の目を誤魔化すか、考えておかなくてはならないだろう。
三連休を一緒に過ごさないという選択肢はなかった。
園田からの連絡は二十九日の夕方にあった。
『安井さん、大掃除終わったよ!』
いかにもやり遂げましたという達成感に満ちた声が電話から聞こえてくると、俺は即刻彼女に告げた。
「わかった。じゃあこれから迎えに行く」
『え、今から!?』
「何かまずいのか。俺は早くお前に会いたい」
『いやまずくないけど、私も会いたいけど……てっきり明日からにするのかと思ってた』
明日までなんてとてもではないが待てる気がしない。もはや今の俺は躾のなっていない犬のように我慢が利かなくなっていたが、今更自分の気持ちに嘘もつけなかった。この通話さえ手早く切り上げて一刻も早く園田を迎えに行きたかった。
「俺は今すぐがいい。お前は?」
そう尋ねると、園田も少し考えてから答えた。
『私も、今すぐでいいかな。準備して待ってるよ』
「ああ、すぐ行く」
『安全運転でね』
「俺は危ない運転なんてしない。知ってるだろ」
そわそわした気分を落ち着かせながら電話を切ると、俺はコートを羽織って部屋を飛び出した。
年末とあってか帰省客や買い出しの客が多いのだろう、道路はどこも混み合っていて、彼女の部屋へ辿り着くまでにはいつもの倍の時間がかかった。
園田はアパートの前で待ち構えていて、寒さに身を竦めながら立っていた。彼女もコートを着込んではいたが、寒風に吹かれて鼻の頭まで真っ赤になっていた。
「部屋の中で待っててもよかったのに」
慌てて車を降りて彼女に駆け寄ると、園田は面目なさそうに笑ってみせた。
「待ちきれなくて……えへへ」
お互い気持ちは同じのようで、彼女の照れた様子には俺の方まで顔が緩んでしまって困った。衝動的にその鼻の頭に軽く口づけると、園田がぎょっとしたように俺を見上げる。
「安井さん!? ここ外だし見られたらどうすんの、ってか鼻!?」
「何だ、唇にして欲しかったのか」
「言ってない! そうは言ってないよ!」
「じゃあ俺の部屋に着いてからな。それまで我慢しろよ、園田」
俺がにやりとすると、園田は何だか悔しそうに艶のある唇を尖らせていた。我慢しなければならないのは、実際は俺の方だった。
「トランク開けていい? 荷物があるんだ」
園田もあまり怒りは引きずらず、すぐに俺の車を指さして言った。
彼女の荷物は先日の出張の時と同じドラムバッグだ。受け取ってからトランクに積もうとしたら、やはり重たかった。
「こっち戻ってこなくてもいいようにしようと思ったら大荷物になっちゃって」
俺の反応を見た彼女が、弁解するように笑う。
「別に取りに戻ってきてもいいのに。いつでも車出すよ」
「悪いじゃない。せっかくのんびりできる年末年始なんだし」
二人でほぼ同時に車の中へ乗り込む。すっかり指定席となった助手席のシートに座った園田が、慣れた手つきでシートベルトを締める。
「それに、あんまり出歩かないようにしたいと思って。今の時期、どこも混み合うでしょ?」
「そうだな。俺も園田を部屋に閉じ込めて、二人きりでじっくり過ごしたいと思ってる」
俺と園田の発言は細部こそ違えどよく似たもののはずだったが、なぜか園田はシートベルトを締め終えた後で苦笑した。
「安井さんが言うと、なぜかいかがわしく聞こえるよね」
「かもしれないな、俺も下心が隠しきれてない」
「隠す気がないの間違いじゃない?」
「そうとも言うかな。園田だってわかった上でついて来てるんだろ」
からかうように俺が告げると、園田はそ知らぬふりで横を向く。否定も肯定もしてこない。
だが本人の口から聞くよりもわかりやすい答えが彼女の手首にはあった。今日、彼女の細い手首には何もない。あのごついスポーツウォッチは着けられていなかった。
「園田、腕時計は?」
「……置いてきた」
「忘れたんだったら取ってきてもいい。待っててやるから」
「いいよ。だってどうせ外せって言うでしょ?」
彼女が完全に拗ねた口調で言ってくるから、俺は声を上げて笑いながら車を発進させる。年末の道はやはり混んでいて、いくらも進まないうちに信号で止まる度、俺は喉を鳴らして笑った。園田はしばらくむくれていたが、やがてつられたように笑い始め、それからは二人で笑いあってばかりいた。
俺達は揃って完全に浮かれてしまっていた。
それから俺達は誰にも邪魔されることのない年末を過ごした。
朝は一緒に目を覚まし、彼女が作ってくれるご飯を食べ、日中は二人で片時も離れず過ごした。
やむを得ず買い物に出る時も一緒だったし、夕飯の支度も二人でした。一緒にテレビを見たり、音楽を聴いたり、時々お互いしか目に入らないような時間を過ごしながら、そのまま年の終わりを迎えた。
そして迎えた元旦、俺達は日の出前に部屋を出て、車で臨海公園へと向かった。
目的はもちろん初日の出だ。彼女と見たテレビの天気予報ではオレンジ色の晴れマークが燦然と輝いていて、天候の不安はなし。まだ星がちらつく空の下を、海を目指して車を走らせた。
臨海公園の駐車場にはちらほらと車が停まっていた。それでいて公園内は静まり返っており、遠くから微かな波の音が聞こえてくる。車を降りると早速冷たい冬の風が吹きつけてきて、歩き出した園田が寒そうに首を竦めていた。カーキ色のモッズコートはフードにふわふわのファーがついていたが、それでも竦めた首は風に晒され寒そうだった。
俺はそんな彼女の姿を後ろから見た後、さらさらした髪が跳ねているのに気づき、手を伸ばしてそこに触れた。
「園田、後ろ跳ねてる」
さらさらの柔らかい感触が手に気持ちいい。でもこれだけ柔らかければ癖もつきやすいだろうと思う。ここへ来る前に寝てきたからか、しっかり寝癖がついてしまったようだ。
「寝癖ついてた? 鏡見てきたんだけどな」
そう言って、園田は恥ずかしそうに自分の後ろの髪に触れた。彼女の手が髪をかき上げた時、白い首筋の後ろに小さな赤い痕がちらりと覗いた。本人は気づいていないようだが、見えないところにつけた痕に俺は何とも言えない優越感を覚えた。
園田がようやく俺のものになった。取り戻せたんだと、しみじみ実感していた。
「気になるほどじゃない。むしろ、何か可愛い」
いい気分で俺が笑うと、何も知らない彼女はますます気にしたように髪を弄る。
そして俺を横目で見て、ふと呟いた。
「髪、伸ばそうかな」
意外な一言に、俺は思わず聞き返す。
「伸ばすの?」
あまりにも素早く食いついたからか、彼女は驚いたように目を丸くした。
「見てみたいとは思ってたんだ。園田は短いのも似合うけど、長くてもいいかもしれない」
園田は出会った頃からずっとこの髪型だった。
活発な彼女には今のショートヘアがよく似合っていたし、自転車用のヘルメットを被るのにも都合がいいんだろう。本人も昔、自転車に乗る時邪魔だから、汗を掻くからと髪を短くしている理由を語っていたのを覚えている。
とは言え彼女がその気なら、俺も他の髪型を見てみたいところだ。
「どうかなあ。私、伸ばしたことほとんどないんだよね」
臨海公園の中を歩きながら、園田は首を傾げていた。もしかすると俺と出会うよりずっと前から、今みたいに短くしているのかもしれない。
「安井さんは長い方が好き?」
それから彼女が俺に尋ねてきたから、今度は俺が首を傾げる番だった。
「どっちだろうな。髪型が似合ってれば、どっちでも」
どちらが好きという意識はなかったが、園田の髪が長ければいいと思ったことはある。
彼女の髪はさらさらしていてきれいだった。もしもっと長く伸ばしていたなら、今より更に撫で心地がよかったかもしれない。今の髪型だと短いから、思う存分撫でる為には手を何往復も動かさなければならなかった。
「そうなんだ。あんまり推すから、長い方が好きなのかと思った」
園田が俺を見上げてくる。ひたむきなその眼差しに、俺は幸せな気持ちになって彼女の短い髪に触れてみた。
「園田の髪はきれいだからな。ずっと、伸ばしたところを見てみたかった」
指の間を柔らかく、心地よく流れていく彼女の髪を、俺はくしゃくしゃと掻き混ぜるようにして撫でながら歩いた。園田はくすぐったそうにしていたが、決して嫌がらず、されるがままになっていた。
公園内の遊歩道をしばらく歩くと、やがて水平線が見えてきた。
臨海公園はその外周を腰の高さほどの柵で囲っており、その柵まで近づくと一面に広がる海を望むことができた。太陽が昇ってくる兆しのような光が水平線に零れ始める頃、既に柵の辺りには初日の出を待つ先客が数組いて、寒さに震えながらもめいめい海を眺めていた。
俺達はその先客から少し距離を取り、柵にもたれかかりながら日が昇るのを待った。寄せては返す波の音が辺りに響き、潮の香りのする風が冷たく吹きつけてくる。空気は冷たく澄んでいて、正月らしい清々しさだと思う。
「ドレス着るんだったら、髪長い方が決まるよね」
水平線の向こうに目を凝らす園田が、ふとそんな言葉を口にした。
どうやら園田はウェディングドレスの為に髪を伸ばしたいと考えているらしい。そういえば霧島の結婚式でも言っていたな。髪が短いから、ドレスに合わせてまとめるのが大変だったって――あの時は触れたくても触れられなかった髪が、今は手の届くところにある。
あれから、もうじき一年になるのか。激動の、そして幸せな一年間だった。
「短くても似合うとは思うけど……」
俺は試しに、髪を伸ばした園田の姿を想像してみようとした。
だが無理だった。
俺も園田に関しては妄想逞しい方だと思うし、彼女のいろんな姿を脳内で想像してみたことはあるが、彼女に好きな服を着せてみることはできても彼女の髪を伸ばしてやることだけはできなかった。もう八年の付き合いになるからか、髪の長い園田がどうしても思い浮かばない。
想像の中で真っ白なドレスを身に着けた彼女は、やはり短い髪のままベールを被って、花婿が――俺が来るのを笑顔で待ってくれていた。
「駄目だ。ドレスを着た園田は想像できそうなのに、長い髪の園田はどうしたってイメージできない」
やがて俺は、想像の中の彼女にロングヘアになってもらうことを諦めた。
本物の園田が俺を見て、おかしそうに笑う。
「試してみるしかないね。幸い、伸ばした髪はいつだって切れるんだし」
そして実に彼女らしい、さっぱりした物言いで宣言した。
そういう思い切りのよさというか、あまり考えないで踏み込んでいくところも俺は好きだ。俺はどちらかと言えばあれこれ考えた挙句に身動きが取れなくなるような捻くれ者だから、園田のそういう潔さはことさらに羨ましく、そしていとおしく感じた。
石田の言葉じゃないが、好きになるのも当然か。
「じゃあ、今年の目標はそれにする」
穏やかな海面を照らす光が少しずつ強くなり、輝く太陽の端が弧を描いて水平線の上に顔を出した頃、園田が意を決したように続けた。
「髪を伸ばしてみるよ。今年一年かけて」
風に吹かれて揺れる園田の短い髪も、海と同じように朝日に照らされていた。きらきらと金色に光り、眩しいくらいにきれいだった。先日、指輪を買う時に見せてもらったあの宝石――マンダリンガーネットの色にもよく似ていた。
「ある程度伸びたら、安井さんは正直に感想を言ってね。どっちが似合うかって」
それから園田は俺に向かってそう言ったが、俺にはいささか難しい注文だった。
「どっちも似合うって思った時は、どうすればいい?」
どちらがいいかなんて決められないかもしれない。俺は心底から彼女に惚れ込んでいて、今や園田にまつわるものなら何でも好きだと思うほどだ。きっと目の前にいる園田が一番好きだと、いつだって同じことを言うだろう。
朝日を見つめる園田が、大して迷わずに言った。
「その時はドレスの似合う方にしようよ」
「それも、どっちもいいって思ったら? 俺はお前なら何でも似合うし可愛いって思うかもしれない」
聞き返しながら、俺も海面をじりじりと昇ってくる太陽に目を凝らす。
今年最初の日の出に対し、園田は髪を伸ばすと宣言した。
一年の初めに立てるにしては何だか可愛い目標だったが、それもある意味では彼女らしいのかもしれない。結婚式に備えて髪を伸ばす、なんて言うところも形から入りたがる園田らしい。
「……それなら、伸ばすよ」
しばらく間があり、何か考えていたのか、やがて彼女がそう言った。
「だって長い髪の方が、たくさん撫でてもらえるから」
髪を伸ばしたがる理由を、そんなふうに口にした。
その瞬間、俺は心臓をぎゅっと掴まれたような感覚を覚えて、とっさに彼女の方を見た。園田は自分の言葉に照れてでもいるのか、はにかみ笑いを浮かべて俺を見上げていた。短い髪が朝日を浴びて光り輝くと、俺も手を伸ばして触れずにはいられなかった。
柔らかい、さらさらの髪を手で撫でる。この髪が長く伸びたらどんな手触りになるだろう。楽しみだった。
そして長く伸ばした髪を撫でられた園田は、どんな反応を見せてくれるのだろう。今は初日の出を眺めながら、気持ちよさそうに目を細めている。とんでもない殺し文句を口にしたかと思いきや、今は毛づくろいをされている猫みたいにされるがままになっている。俺に髪を撫でられる彼女は随分と無防備で、幸せそうで、それだけで俺まで信じられないくらい幸せな気持ちになれた。
「やっぱり可愛いな、お前は」
俺は呟き、金色に輝く園田の髪を撫でながら初日の出を眺めた。
この上なく幸せで、最高の一年の始まりを、俺達は迎えていた。
ちなみに俺の今年の目標は、今以上に園田を幸せにすること。これだけだ。
その為の準備は着々と進んでいる。年は明けた、一月十日まであと少しだった。