Tiny garden

客観的にはそう見える(2)

 俺はその夜、安井を居酒屋に誘った。
 こういう時は静かなバーなんて行くもんじゃない。がやがやと程よく騒がしい店がちょうどいい。

 差し向かいに座った安井は今夜もビールに湯豆腐を頼んだ。
 そのいじらしいまでの態度に、俺はかえって辛くなる。お前がいくら豆腐を食べようと、あの豆腐好きの彼女が手に入ることはないというのに。
「今日はさんまのいいのが入ってるらしいぞ」
 店員からその情報を引き出し、俺は安井にそう勧めた。
 この後にする話が安井を傷つけるのは確実だし、そのせいで豆腐がトラウマになって、二度と食べられなくなったりしたらさすがにかわいそうだ。
「さんま? 俺は飲む時に魚は……」
 安井はそう言って首を竦める。
「あんまり脂っこいと喉乾くし、豆腐くらいがちょうどいいよ」
「いや一度試してみろって。これがものすごく合うから」
「食べたことないわけじゃない。ってか何でさんま推し?」
 こっちの気も知らず、安井はへらへら笑っている。

 俺はそれでも、ビールが運ばれてくるまでは打ち明けるのを待った。
 お互い中ジョッキを掲げ、いつもより重苦しい乾杯をした後で、
「あのな、石田」
「――なあ」
 安井と俺は、ほぼ同時に口を開いた。
 どうやら向こうにも何か言いたいことがあったらしい。
 だが安井は俺の目を見た後、気圧されたように唇を結んだ。こっちが真面目な話をする気でいると読み取ってくれたようだった。
 だから俺も遠慮せず切り出した。
「一つ、聞きたいことがある」

 この期に及んで、なるべく浅手で済む言葉を探してみたりもする。
 そんなものはないって知っていたから、ためらったのも結局は一瞬だけだった。

「お前、園田のこと好きなんだろ」
 俺がそう切り出した瞬間の安井の顔は、もう見てられないほどだらしなかった。
「まあな。わかるか?」
 しかも否定せず、でれでれと認めやがった。
 もっともその表情こそが答えだ。
「わかるなんてもんじゃない。あからさまにも程がある」
「そんなにか!」
「顔に出てんだよ、安井。園田の前じゃいちいちにやにやでれでれしやがって。あいつの一挙一動見てるし、あいつと目が合う度に顔緩みきってて目つきまで変わるし、あいつと喋る時は声のトーンまで違うじゃねえか。おまけに俺と園田が同期のよしみ程度の会話しててもやきもち焼く始末だろ。そんなんでよく平然と『わかるか?』なんて聞き返せるもんだ」
 俺はここ最近の安井の挙動をこれでもかこれでもかと挙げてやった。
 安井は初めこそ神妙に聞いていたが、やがてみっともなく言い訳を始める。
「嘘だろ……俺にはそんな自覚なんてないぞ。石田、いつぞやの意趣返しじゃないだろうな」
 意趣返しで済むならその方がよかった。
「自覚しろよ。園田の前にいる時、お前からは眩しいくらいの好き好きオーラが出てんぞ」
 駄目押しの言葉の後で、俺は思わず溜息をつく。
 それほどわかりやすい好意も、そろそろ封印してもらわなくちゃならない。
 いや、もっと言うなら息の根を止めてもらわなくちゃならない。俺や他の人間が何と言おうと、最後の最後で始末をつけるべきなのは安井自身だ。それがどんなに辛いことかは俺もよく知っている。
「でも、園田は駄目だ。諦めろ」
 だから容赦なく告げた。
「あいつ、見合いをしてその相手と結婚するそうだ。だから諦めろ」

 その瞬間、緩んでいた安井の顔から潮が引くように笑みが消える。
 俺の言葉に酷いショックを受けた。そういうふうに見えた。

 それでも態度はどこか平然としていて、ジョッキを傾ける余裕くらいはあるようだ。
 ある意味こいつらしい格好のつけ方、虚勢の張り方だが、今はそれすら痛々しく見えた。
「こうして前もって言ってやったんだからな」
 俺はそんな安井に、あえて厳しく言い聞かせる。
「園田はお前のものじゃないんだから、妬いても顔に出すなよ」
「――ごほっ」
 途端、安井がビールにむせた。
 その態度もまた笑えるくらいわかりやすかった。
「この期に及んで格好つけんなよ。めちゃくちゃ動揺してんじゃねえか」
 そりゃ俺たちはただの腐れ縁だ。もう発酵しすぎて賞味期限も切れてそうな付き合いだ。
 だがその分、他の人間には見せてない情けない姿も、みっともない顔も、どうしようもない馬鹿なところだってお互い見せ合ってきたはずだ。
 こういう時くらい、俺の前でくらいは格好つけるのやめてもいいのにな。
「してないよ。ちょっと、むせただけだ」
 急き込む安井がハンカチで口元を拭う。
「嘘つけ。顔に出てるっつってんだろ」
 まだアルコールが足りないと、俺も残りわずかなビールを呷る。
 今日は飲まなきゃやってられない。何なら酔い潰れた安井をおぶって帰ったっていい。そこまでの覚悟はできていた。
「すぐに諦めるなんて無理な話だろうがな、いいところで覚悟は決めとけ」
 俺は安井にもそう促す。
「園田だって、お前にも祝って欲しいと思うだろうしな」
 そうして釘を刺すだけ刺して、一息ついた。

 とそこで、向かい合う安井の顔を見た。
 見慣れたその目元に、今はうっすらと涙が滲んでいる。

「――安井。お前、泣いてんのか」
 愕然とする俺に、奴は慌てて否定した。
「な、泣いてない。何言ってんだ」
「涙目になってんぞ」
「違う、これはさっき、ビールにむせたからだ」
 安井はあくまでもそう言い張る。
 だが、このタイミングでそんな弁解されて信じられるわけがない。
「別にいいだろ、泣いたって。そんだけ悲しいなら」
 失恋ごときで、なんて思う必要だってない。
 どんなものだって何かを失くせば辛いだろ。俺だって今でこそ幸せいっぱいだが、大昔には盛大に振られたこともあるからわかる。あの時は単に『失くした』だけじゃなくて、自分の全部を否定されたような気にさえなったもんだ。
 そういやあの時は、俺の話を安井が聞いてくれたんだったな。
 別に、あの時の恩返しがしたいなんてこれっぽっちも思っちゃいなかったのにな。
「だ……から、泣いてないって言ってるだろ」
 言葉とは裏腹に、安井が声を詰まらせる。
「じゃあ今から遠慮なく泣け。俺は引かねえから」
 俺が勧めると、今度は半笑いで言い返された。
「泣けって言われて素直に泣けるか」
 全くだよな。
 素直に泣いた方が楽な時もあるのに、大人になった俺たちにはそれができない。
 だからせめて話くらいは聞いてやりたいと思う。
「愚痴でも泣き言でも何でも聞いてやるから、溜め込んどくなよ」
 俺は水割りを二人分頼むと、尚も堪えようとする安井に告げた。
「こういう時はお互い様だろ、安井」
 それで安井は黙る。
 もはや張る虚勢もなくなり、俺の言葉を混ぜ返そうともせず、グラスを握ってただ一点を見つめている。

 すっかり萎れたその姿を、俺も複雑な思いで眺めた。
 こんな結果が見たかったわけじゃない。
 格好つけの安井がでれっでれに緩みきった顔で園田を連れてきて、それでも口だけは何でもないふうに『実は付き合うことになっちゃってさ』なんてぬかしに来るのを密かに楽しみにしていた。見栄っ張りでプライドが高い安井に、何でも笑い飛ばしてくれる園田は実に似合いのカップルだと思ったし、見てみたいとも思っていた。
 なのに現実なんてつまんないもんだ。

 安井が園田に勧められたからって、髪を切ってきたのは何年前のことだったか。
 多分あの時には既に、だったんだろう。
 年季の入った片想いがこんな形で終わるなんて、泣きたくなるのも無理はない。

 でも安井は、あくまでこう言い張った。
「泣いてはいないけど、泣きそうになったよ」
 それだけ言う為に気持ちを落ち着けようと随分必死だったくせに、目に見えてへこんでるくせに、あくまでも格好つけたいつもりらしい。
「こんな時でもとことん格好つけんだな、お前は」
 俺が呆れると、安井はゆっくりかぶりを振った。
「そうでもない。今でも俺、十分みっともないだろ」
「いいや、まだ足りん。もっと酔え、酔っぱらって自分を曝け出せ」
 泣こうが酔い潰れようがとことん面倒見てやるつもりだった。
 そうして促したからか、安井も水割りをぐいっと呷る。
 それから深々と息をつき、弱々しい声で言った。
「悪いな、石田。忙しいのに付き合わせて」
 何だ。この期に及んで格好つけてやがる。
 だから俺は笑った。
「お互い様って言っただろ、気にすんな」
 園田だったらもっと明るく笑い飛ばせたんだろうな。
 そんなことも、考えた。
 だが俺にはこれが精一杯で、割と口八丁な方だって自覚もあるのにこういう時には上手い言葉も出てこない。
 いや、上手い言葉なんてあるはずないか。
 何かを失くした時、乗り越えるには時間がかかる。失くしておいて全く傷つかない人間なんていないし、その傷をたちどころに治す術だってない。

 だからせめて、その傷が癒える時間をちょっとでも縮められるように――俺はその夜、思いつく限りの言葉を安井にかけてやったつもりだ。
 もう二度と、泣いてる安井なんて見たくないからな。

 ――と思っていた俺が、事の真相を全て知ったのはそれから半年以上が過ぎたお盆のことだ。

「実は……園田と、大分前から付き合ってる」
 話があると呼び出され、二人で入った炉端焼きの店で、安井がそう言い出した。
「いや、付き合ってるどころか、ここ四ヶ月ほど一緒に住んでる」
 本人も思うところがあるのか、妙にぎこちない告白だった。
「と言うか、プロポーズもして結婚するつもりでいる……」
 そしてその内容を、天才的洞察力を持つはずの俺は、一度聞いただけでは理解できなかった。

 いやだって普通に無理だろ!
 俺は安井が園田に振られたと思っていて、しかもそれは園田の方が見合いをして結婚するからって理由だ。安井にはもう万に一つの可能性もないと思ったし、むしろあれから半年以上経ってんだから吹っ切れて新しい恋でもしてんのかとすら考えていた。安井から今の話を聞かされた直後は、失恋拗らせてやばい妄想を見るようになったのかとさえ危ぶんだほどだ。
 しかし安井は、見栄っ張りのくせにみっともないほど往生際が悪く、粘着力は人一倍のこの男は、実は園田の見合い相手であったらしい。

「安井、俺があん時どんだけ心配したかわかってんのか!」
 俺が噛みつけば、一応悪いとは思ってるらしい安井が神妙に応じる。
「わかってる。感謝してるし、申し訳ないとも思ってるよ」
「申し訳ないで済むかこの野郎。俺の心配を返せ!」
 本来なら俺の心配や気遣いは可愛い可愛い女の子の為にのみ消費されるものだ。
 男の為に、それも腐れ縁の安井なんかの為に無駄遣いするなんて気はさらさらなかった。でも安井があんまり萎れてるからしょうがなく、やむを得ず心配してやったというのに!
「ごめん、石田。あの時はどうしても言い出せなかったんだ」
 だが安井もそこで深く頭を下げてきて、そうなるとこっちも刃を引っ込めざるを得なくなる。
 それに、次の打ち明け話の方がより衝撃的で、怒りの炎があっという間に消えてしまったというのもある。
「その理由についても話せば長くなるんだけど、……実は」
「まだ何かあんのかよ」
「ある。実は、園田とは五年前に一度付き合ってたんだ」
「――五年!?」
「一度振られて、でも何と言うか、諦めがつかなくて――」
 安井と俺は長い付き合いだ。
 柄にもなく一途な男らしいとは薄々感づいていたが、想像以上の健気さだった。

 とは言えぶっちゃけむかついたし、幸せになった途端まただらしなくでれでれし始めた安井を見てたら冷やかしたくもなったので、俺は安井に園田も店へ呼ぶよう告げた。
 そして駆けつけた園田と、彼女を嬉しそうに迎えた安井とをひとまとめにしてめちゃくちゃ冷やかしてやった。
 それでも安井は幸せそうだったし、今夜ばかりは格好もつけられずみっともなく緩みきった顔をしていた。その隣にいる園田も俺たちの与太話を笑ったり、はにかんだりして聞いていて、やっぱ安井にはこの子しかいないよなと思ったりもする。
 五年前から似合いのカップルだった。
 客観的にはそう見える、そんな二人だ。くっついて当然だ。

 散々に安井を冷やかし、二人を祝福し、大いに飲んで騒いだ時間が過ぎた。
 ぼちぼちお開きとなったところで安井が会計の為に席を立ち、俺と園田はテーブルの上を片し始める。
 すると園田が、俺に向かって言った。
「本当にごめんね、石田さん。巡くんのことすごく心配してくれたのに」
 改めて詫びられると、どういうわけか微妙に照れる。
 まあ確かに、心配はした。でもそれはあくまで腐れ縁としての心配であって、真面目に取り合われるとそれはそれできまりが悪い。普段から軽口叩き合う仲だから尚更だった。
「別に大して心配してねえよ。それに、結果オーライってやつだろ」
 俺がそう返すと園田はほっとしたように微笑む。
「そっか。……石田さんってすごく優しいね」
「それは大いに認めるところだな。もっと褒め称えてもいいぜ」
「うん。それに、石田さんも巡くんのこと大好きなんだね!」
「――はあ?」
 続いた言葉の突拍子もなさに、思わず声が裏返った。
 園田は同期とは思えぬ屈託のない笑顔で俺を見ている。
 いや確かに、嫌いだったら端からつるんでねえけど好きかって言われると微妙だし、ってか石田さん『も』って言ったか。俺の安井に対する腐れ縁的感情と、園田があいつに向ける愛情とを同じ路線で語られても困るんだが――っていうか何で弁解する流れになってんだ! 何だこれ!
「そう見えるもん」
 園田が確信的に言って、俺が反論の言葉をこねくり回してる間に安井が戻ってきやがった。
 だから結局、弁明の機会を逃してしまった。

 そりゃ好きか嫌いかで言ったら、決して嫌いじゃないけどもだ。
 そして今回のことでは俺も、柄にもなく真面目に立ち回った自覚がある。あとになって振り返ると自分の言動がこっ恥ずかしくもなる。園田に口止めまでするとか、必死すぎんだろ。
 でも安井だからしたってわけじゃない。これが霧島とかでもこのくらいはしたはずだ。
 いや、でも、どうかな。霧島はこんなふうに寄りかかってくるタイプじゃないしな――。

 二人と別れて、一人帰路に着いた後でも、俺は上手い反論が思い浮かばずにいた。
 とりあえず、家帰ったら藍子に電話しよう。
 でもって『一番好きなのはお前だからな』って言っとこう。

 だが、どうしてだろう。
 話を聞いた藍子も、園田と同じように笑って、
「私もそう思ってました!」
 なんて言いそうな予感がする。
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